アルルの放課後
10.「森の迷宮」その4





目の前に見えるのは自分の手だけ。
その先にあったはずの人影は、空間の奥底に消えた。
人が消える瞬間を初めて見た。
いや、消えたのはアルルの方だった。
アルルはあの空間から強制的に排除されたのだ。

……何もできなかった。
誰もつかみ取ることができなかった手を握りしめる。
手のひらにつかんだのは、空気のみ。
握りしめれば逃げてゆく。

「兎火、白兎……」
「うぎゃあああっ!」
アルルの呟きは奇声によってかき消された。
同時に軽い衝撃がアルルの体全体に伝わる。
感傷的な気分を台無しにされて、アルルは奇声の原因らしきものを探した。

視界に入ったのは、小柄な人影と、緑の人影。
小柄な人影を眺めていると、口をあんぐりと開けて呆然としている少年と目があった。
白髪に近い髪の色をしている。
アルルより少し年下くらいだろうか。
先ほど会った兎火よりは年上だろう。
だが……よくよく見ても、全く見覚えがない。

少し気まずくなって、アルルはぺこりと頭を下げた。
「どうも……」
「はぁ……」
少々間の抜けたやりとりはあっさり沈黙に変わった。
状況がさっぱり判らずに、アルルは呻く。

少しでも情報を得ようと、無意識の内に首を回す。
緑の人影はアルルと目が合うと、黙ったまま軽く会釈をした。
彼女の髪は長く、緑色をしており、それが遠目から見て「緑色の人影」と認識させたのだと知る。
年齢はよく判らない。
何というか神秘的な雰囲気のする人なのだ。
女性から放たれるオーラに、魔導力がざわめく。
人間というよりも精霊に近い気配を持っていることがうかがえた。
こちらは何となく見覚えが歩きがするのだが、思い出せない……。

「ぐっぐ?」
どこからか聞き覚えのある声がして、アルルは背筋をぴんと伸ばした。
体が熱くなる。
誰の声だか認識する前に、目から熱いものがあふれてきた。
「カーくん……?」
アルルがぎこちない動きで振り向くと、黄色い体が視界の端に見えた。
懐かしさを覚える黒い瞳は、アルルと同じく涙でぐしょぐしょだった。
小さい体をいっぱいに動かして、「会いたかった!」とアルルに駆け寄ってくる。

見間違いなんかじゃない。
現実に、カーくんが傍にいる。
アルルは堪えきれずに目から涙をいっぱいこぼした。
いきなり泣き出したアルルに、少年がぎょっとする。
女性の方は状況を何となく察したらしく、温かい目で見守っている。

アルルは手のひらにカーくんを載せ、ぎゅっと抱きしめる。
「ボクも、会いたかったよぉ……!」
カーくんの小さな体は、アルルに押しつぶされそうだった。
「ぐーぐー」と叫んでいるが、再会を喜んでいるのか苦しんでいるのかは定かでない。

短い時間だった気もするけれど、アルルにとってはとてつもなく長かった。
みんなと離れて、一人だけ違う場所にいるのは、とても心細かった。
何よりも、いつもすぐ側にいる親友がいないことが、すごく辛かった。

カーくんはアルルの腕の中で手足をばたつかせ、「もうどっか行っちゃわないでね」と言う。
アルルは無言で頷いた。
涙が頬を伝って、あごから滴り落ちる。
カーくんはアルルの涙でびしょぬれだった。
「会いたかった、会いたかったよぉ……」
カーくんがここにいるということを確かめるかのように、強く抱きしめる。
カーくんは暖かくて柔らかくて、確かにアルルの傍にいた。

「うぐぅ〜〜う」
アルルの足下から、カーくんの鳴き声とは違ううめき声が聞こえた。
カーくんの声より低いし、何か苦しそうだ。
状況がつかめずにただ眺めるばかりであった少年が、ふと我に返る。
「あの、感動の再開やってるところ悪いんだけど」
アルルも、人前であったことを思い出した。
慌てた涙を拭う。
カーくんと会えたのが嬉しくて、周りのことをすっかり忘れてしまっていた。

アルルは頬を赤くして、照れ隠しに笑みを浮かべた。
少年は苦笑を浮かべて、ぎこちない笑い声を漏らす。
「……そろそろどいてあげた方がいいんじゃないですか?」
そう言って、少年はアルルの足下を指さした。
指の動きにあわせて、アルルは視線を下ろす。

ナニカノ草の輝きにより、大地が白く光っているのに対して、アルルの下だけが真っ黒だった。
闇を彷彿させるかのような黒い色。
感触からして布のようだ。
地面がでこぼこしているせいか、非常に座り心地が悪い。

「おい、アルル……」
地面が、動いた。
というより喋った。
アルルは驚いて、カーくんをしっかり抱き上げたままその場を離れる。
一歩下がって、ようやくその黒い布がマントであることに気付いた。

黒いマント。
何か嫌な予感がする。
アルルの予想通り、銀髪の髪を持つ青年が、うつむいたまま上体を起こした。
表情を見るのが怖い。
きっととてつもなく怒っているだろうから。

彼は青いバンダナを直して、髪型を整える。
アルルを切れ長の瞳が射抜いた。
迫力のあるにらみに、アルルは怯む。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい」
小さく繰り返したアルルの言葉は、彼の怒声に飲み込まれた。

「勝手にいなくなったと思ったら勝手に降ってきやがって!
今日こそは許さないぞ、アルル・ナジャ!」

起きたと同時に、呪文なしのアイスストームが大地に突き刺さる。
「うわぁっ!」
叫びながらも、アルルは身を転がして何とか避ける。
カーくんはアルルのシャツにしがみついて、振り落とされないようにするのが精一杯だった。
アルルも何とか魔法で対抗しようと思うが、相手が呪文なしで撃ってくるために呪文を唱える暇もない。
何の魔法を使うか決める間もなく、体勢を整えたアルルの目の前にライトニングの魔法が迫る。

避けきれない。
アルルは目を強く閉じた。
ライトニングの光が、まぶたの向こうで赤く見える。
全身を襲う、鈍い痺れは……なかった。
「あれ?」
目を開けてみると、魔法は跡形もなく霧散していた。
その向こう側には、こちらに背を向けている、黒いマントの男。

マントを翻して、シェゾはアルルをちらりと見た。
「ふん、どこに行ってたかは知らんが、もうちょっと静かに戻ってこい!
上空からいきなり降ってきて、柄もなく驚い」
「びっくりしたのはこっちだぁぁぁ!」
シェゾの台詞は少年の抗議によって中断される。

シェゾの顔が少し引きつる。
ほんの少しの変化だったが、アルルにはシェゾが怒っているのが判った。
少年はそんなことに気付くはずもなく、抗議を続ける。
「いきなり知らない人が振ってきてびっくりしてるのはこっちです!
勝手に感動の再開始めちゃうし!
何か魔法ぶっ放すし!」
立ち上がってシェゾをにらみつけるものの、身長差がありすぎるため迫力がない。
少年は奇妙な敗北感を覚えつつ視線を逸らす。

「そもそも、今はそんな場合じゃないでしょう!」
少年は視線を下に下ろす。
シェゾもそちらに目をやった。
珍しく反論はなかった。
大人しく言うことを聞く性格ではない。
アルルは違和感を覚えて、二人の視線の先を追う。

アルルの位置からは、丁度女性に隠れて見えない。
少し移動して、アルルの動きはそのまま凍り付いた。
カーくんが頼りなさげ鳴く。

女性のすぐ横に眠る人影があった。
呼吸の様子もなく横たわる、見知った姿。
女性は、アルルが人影に気付いたことを感じたのか、俯く。
「どうして……」
アルルは愕然と呟いた。

青く長い髪が、ナニカノ草を縫うようにして地面に広がる。
強い光を宿した瞳は、閉ざされていて見えない。
動きやすいよう、大きなスリットの入ったドレスは、見慣れたものであった。
「ルルー?!」
アルルの声に、女性は何の反応も示さない。
シェゾも何も言わぬまま、女性の横を通り、ルルーの側へと歩み寄る。
淡々とした口調で、言った。
「俺も、先ほど合流したばかりなのだが……その時には既に、こうなっていた」

アルルは駆けより、ルルーの側に屈み込む。
カーくんもルルーの身を案じ、アルルの腕からルルーの傍らに降りる。
「ルルー、ねぇ……ルルー、ルルー!」
何度も、何度もアルルはルルーの名を叫ぶが、ルルーは目を覚ます様子はない。
アルルはルルーを揺さぶることで、気付いた。
ルルーの肌は、暖かい。
まだ生ある者の証。
外傷もなければ毒を受けたような形跡もなく、ルルーはただ死んだように眠っていた。

アルルは説明を求めてシェゾを見上げる。
不安に満たされた表情は痛々しい。
言葉も出せないようだった。
無理もないか、とシェゾは小さくため息をつく。
ルルーはアルルにとって、姉のような……家族のような存在だ。
シェゾは不本意ながら、アルルやルルーがどれだけお互いを大切にしているか知ってしまった。
だから今度は舌打ちをする。
何も打つ手がないことを自覚してしまったことに。

「ルルーは、意識不明の状態にある。
目覚めるかどうかは……」
シェゾにはただ、事実を述べることしかできない。
「分からない」

アルルの口からおえつが漏れる。
先ほどまで流していた喜びの涙は、悲しみの涙に変わった。




続く



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