アルルの放課後
10.「森の迷宮」その3





不思議なにおいが鼻をついた。
普通の人間にはかぎ分けられないにおいの違い。
風に運ばれるその香りは、魔力を帯びていた。
「近いな」
シェゾは地図を左手に持つ。
手のひらに押しつけるようにして握ると、地図の端が見る見るうちに消えていった。
数秒もしない内に全て消えてしまう。
異空間の中にしまったのだ。

これほど強烈な魔力のにおいがするのならば、地図がなくても判る。
魔力の強くなる方にナニカノ草がある。
伝承に残るほどの草だとは聞いていたが、実際にお目にかかるのは初めてだった。
これほど強い力を有しているとは。
むせかえるにおいに鼻を押さえる。

……あまり快い香りとは言えない。
何か、悲しい気分になるのだ。
風に乗って嘆く声が聞こえてくる。
嫌な予感がした。

シェゾの前方に木の切れ目が見えてきた。
ようやく開けた場所に出るらしい。
においもそこから流れてくる。
日は沈んでしまったらしい、木々の隙間からのぞく景色は、闇に飲まれていた。

いや、地面の方がほのかに白んでいる。
シェゾは目を凝らした。
ぼんやりとだが何かが見える。
微かに動くのだが、地面から離れようとはしない。
蛍などの類ではないようだ。

いったいあの光は。
シェゾは足を速める。
木々が少なくなって大分走りやすくなった。

最後の木が、シェゾの横を通り抜け。
開けた場所にたどり着いた。
シェゾは言葉を失った。

光の大地だった。
それが視界いっぱいに広がっている。
足下に天の川があるみたいだった。
幻想的な光景に立ちくらみがする。
一瞬、自分が今大地に立っているということを忘れかけた。
夜空の中にいるみたいだった。

「これが、ナニカノ草……?」
よくよく見ると、光の中に白い花が見える。
雫のような形をした花弁が五枚、黄色のおしべを取り囲んでくっついている。
シェゾが文献で見たナニカノ草の特徴と同じだった。

花が光っている。
いっぱいに咲き誇った花がそれぞれ光を放ち、地面を光であふれさせていた。
「確かに、普通の花ではないな……」
伝説にふさわしい、いや、それ以上の威光を感じる。
周りに音はなく、光だけが流れている。
吸い込まれてしまいそうだった。

シェゾはゆっくりと瞬きをする。
目を閉じたまま首を横に振った。
今はこんなことをしている場合ではない。
先についたであろうルルーを探さねばならないのだ。

顔を勢いよく上げて辺りを見渡した。
障害物のない草原の中に、ルルーの姿を見つけることは簡単だった。
草原のやや先の方、三人の人物が見える。
青い髪が見えたため、その内の一人は確かにルルーだろう。
他の二人に見覚えはない。

ルルーを挟んで二人は座っていた。
ルルーは仰向けになって寝ている。
表情はなく、青ざめていた。

「……ルルー!」
ただならぬ気配を感じて、シェゾは走りだす。
シェゾの足下で白い花びらが舞い散った。



そこは、何もない場所だった。
草もなく、木々もなく、空もなく、地面もなく。
気付けばアルルは、よく分からない場所にいた。
「ここは……?」
「ここは、私たちが造った場所。
百兎から、逃げるために造ったの」
兎火が手を伸ばすと、指先の空間が波紋を描いた。
中心から平たい楕円状の板が現れて、そのまま空中に浮かぶ。

アルルがそれに歩み寄ると、板に白い筋が現れた。
伸ばしかけた手を慌てて引っ込める。
白い線が消えると、今度は暗い森が現れた。
日が完全に落ちてしまったのだろう、光源のない辺りは暗い。
「もしかして……東の森?」
「そうよ」
兎火は短く応える。

アルルはぱっと顔を上げた。
「じゃあ、ここから出られるの?」
「いいえ」
期待に満ちたアルルの言葉をきっぱりと否定した。
アルルはあからさまにうなだれる。

白兎が呆れたように口を挟んだ。
《もう少し違う言い方もあるだろう。
アルルとやら、確かにこの空間から外の世界へ戻ることができる》
外の世界。
では、アルルが今立っているこの世界は何の世界なのだろうか。
疑問がよぎるが、アルルを制するように白兎が続ける。

《だが、条件がいる》
唐突に言い渡された言葉にアルルは抗議しかけるが、何とか飲み込む。
元々おかしな空間だ、何もしないで帰れるのもおかしい。
代わりにアルルは聞いた。
「何をすればいいの?」
応えるように兎火がアルルの方を振り返った。
目が合う。
アルルは一瞬驚くが、すぐにその瞳を真っ直ぐに見やる。
不安げな、顔をしていた。

白兎も、真剣な顔をしている。
悪いことをしてしまって、謝りに行く子を、見守る親のようだった。
イタズラをしてしまったアルルが謝りに行く時、側で見守っていてくれた母の顔を思い出させた。

兎火の拳が震える。
下唇を強くかむ。
今にも泣き出しそうな目は潤んでいた。
涙を堪えているのだろう、まぶたを強く強く閉じた。
「お願いを聞いて欲しいんだ」
震えていて、掠れていて。
訊きたいことは沢山あったけど、アルルはただ、黙って頷いた。

それから、どれだけ間をあけたことだろう。
兎火が、先を続ける。

「百兎を、倒して欲しい」

兎火の心臓は張り裂けそうなほど脈を打っていて。
白兎は、黙って聞いていた。
兎火が真剣なのが、アルルには十分分かった。
だから、もう一度、アルルは深く頷いた。
「分かった」

その直後に。
兎火と白兎が笑った。
そして、アルルはそのことを認識する前に。

視界がぶれる。

「なっ……!」
何が起きた、と言おうとしたアルルの言葉は、衝撃に飲まれた。
足下が大きく揺れ、アルルの体は地面へ投げ出される。
背中に当たった地面の感触は何とも言い難い。
固いようで柔らかい。

地面に手をつこうとしたら、腕が飲まれていった。
体が沈んでいく。
兎火と白兎を見上げたが、なんだかぼやけていてよく見えなかった。
だが兎火は体を折り曲げてうめき声を上げている。
苦しそうだ。
兎火!
声を張り上げたはずなのに、辺りには何も響かない。
空間は絶えず色合いを変えてうねっている。
じっと見ていると気持ち悪くなる。

白兎が尾をぴんと張った。
《リフーズッ!》
聞き取れない音声が耳に流れてきた。
空間が少しだけ正常の状態に近付く。

兎火は肩を上下させながら、額に浮かぶ汗を拭った。
「浸食が激しくなってる……。
このままじゃ、あなたまで飲まれてしまう。
早く、ここを出て!」
《帰りたいと念じるんだ》
でも、二人は。
アルルの問いかけは言葉にはならなかったが、視線で何となく伝わったらしい。
兎火は厳しい口調で言った。
「早く!」

帰りたい。
カーくんのことが思い浮かぶ。
寂しがっているだろうと思うと居たたまれない。
帰れない。
兎火が苦しんでいる。
苦しんでいる人を目の前にしておきながら、見過ごすことはできない。

「やっぱり、ボクは……!」
兎火の方に手を伸ばすが、既にその姿は遠く。
アルルは喉の奥で甲高い音を鳴らした。
先ほど兎火が出した、東の森の映像。
白い色に塗りたくられていた。

純白の魔物。
映し出されていたのは、アルルが戦った、あの『ウサギ』だった。

「百兎……!」
直感的に、白い魔物が百兎なのであると悟った。 奥歯をかみしめて、精一杯にらみをきかせる。 相手は映像なのだ、分かるわけはない。 だが百兎がゆっくりを顔を向ける。
真っ赤な瞳がアルルを射抜いた。

兎火と白兎が危ない。 逃げて。
叫び声は、アルルの頭の中でこだましただけだった。

アルルの指先はすっぽりと地面に埋まり。
二人の姿は、眼前から消えた。




続く



←前   戻る   次→