アルルの放課後
11.「袋小路」その1 「やれやれ、お主もここに引き込まれたか」 唐突に現れた声に、思わず振り向いた。 視界の中に青いものがちらつき、数秒して、それが自分の髪の毛であることに思い当たる。 声をかけられるまでルルーは自分が生きていることをすっかり忘れていた。 ぼんやりとした意識の中、虚空を見つめてはいたのだが、そこに意識は伴っていなかった。 瞳の中に景色を映してはいるが、けしてそれを「見て」はいないのである。 現にルルーは今初めて自分のいる場所が少し特殊であることに気づいた。 たくさんの卵がぶら下がっている。 球状の空間に上から下までびっしりと卵があるため、遠目から見るとそれは痘痕のようにも見えた。 どちらに重力が向かっているのかもよく判らない場所だった。 ルルーは立っているというより浮かんでいる状態に近かった。 身体をよじると、水の中のように身体をひっくり返すことができる。 長い髪は海草のように宙を泳いで広がっていた。 だが呼吸は普通にできる。 水の中にいるわけではない。 無重力状態、というのが一番近いのかもしれない。 空中ででんぐり返りをするみたいに、その場で一週回ってみて、ルルーは自分もまた卵の殻のようなものの中に入っていることを知った。 うっすらと赤い色がついているので、視界は全体的に赤っぽく見える。 手を伸ばしてみると、触れた感覚はないのに、それ以上前に行くことができず何かに押し戻される。 奇妙な現象にルルーは思わず手のひらを返してまじまじと見つめた。 「何なの、ここ」 答えは意外にも返ってきた。 「ここは百兎の内部だ」 先ほどと同じ声だった。 「ナニカノ草を食したのであるな。 あれは百兎と関わり深いもの。 死の際に立たされたところに、魂までもが百兎に奪われた力の元へ引き寄せられてしまったのであろう」 ルルーは首を回してその人物を探した。 姿勢が安定しないので、なかなか思うとおりに身体を動かせない。 身体を動かせば反動でぐるぐる回ってしまう。 目を回してしまいそうだった。 「こちらだ」 ルルーは声に引かれるまま、顔を上げる。 見えないのに、何故かその人物の言う「こちら」がどっちにあるか分かる気がした。 目に入ったのは、ひときわ巨大な卵だった。 周りの卵が五つくらい優に入りそうだ。 よくよく目を凝らすと、その中に人間の姿が見える。 十代半ばほどの少年だった。 赤い殻のせいで色が判然としないが、おそらく白に近い髪の色をしているのは分かる。 黒いラインが不思議な形を描きながら走る独特の衣装をまとっていた。 東の国にある「着物」という民族衣装を髣髴させる。 口調からもっと年配の人物だと思っていたので、ルルーは少し意外に感じた。 少年は肩膝を立てて、その上に肘を乗せ、座っていた。 安定しないルルーに比べ、彼は重力にきちんと従っているように見える。 「お初お目にかかる。 我は白兎と申す。 お主は確かルルーといったな」 何故、それを。 ルルーは目を見開いて驚きを表すが、どこかで予想していた部分もあった。 奇妙な空間の中で主のように鎮座する少年は、この空間にあるもの全てを知り尽くしているように思えた。 ルルーも含めて。 「故あって、ここから出られぬ身ですまない。 仮の姿であの子の傍にいるのが精一杯なのだ。 お主には迷惑をかける」 「あの子って?」 「うぬ」 ルルーの問いに、白兎と名乗った彼は頷く。 「百兎……お主も出会った、ウサギのなりをした魔物のことよ」 戦慄。 ルルーは拳を握った。 奥歯をかみ締めるが上手く力が入らない。 このまま大暴れして、周りにあるものをめちゃくちゃにできれば、楽になるのに。 上手く動かない自分の身体が苛立たしかった。 それも全て、そのウサギの魔物のせいなのだ。 白兎は、ルルーを見やってからうつむく。 深いため息をついた。 「責めないでやってくれ。 全ての非は我にある。 まさかあの子がああまで驚異的な力を有しているとは思わなんだ。 我が力で全てを収めきれると思ったのはうぬぼれであった。 年は取りたくないものよの」 白兎は少しだけ口元をゆがめた。 苦笑しているのだろう。 一体彼はいくつなんだろうと思ったが、むしろ見掛けの方が不自然なだけで、白兎の言葉は彼の雰囲気とぴったり合致しているように思う。 白兎は身を傾け、立てた膝に体重を預ける。 すっと立ち上がり、そこに床があるかのように、しっかりと直立不動になる。 ルルーも真似してみようと足を動かすが、相変わらず空を掻くだけだった。 白兎は視線を真っ直ぐルルーの方に向ける。 赤い瞳が妙にきらめいていた。 その色が百兎の目を思い起こさせ、ルルーは一瞬目をそらそうかと思う。 けれども白兎のあまりにも真剣な視線からは、逃れることができなかった。 「百兎が何であるか、知っているか」 ルルーは首を横に振る。 百兎の名称も今知ったくらいなのだ。 白兎は唇を重々しく開き、続ける。 「かつてナニカノ草を奪い争う者たちがいた」 こちらには頷く。 先ほど少年から聞いた話だ。 ナニカノ草を食べた後で気を失ったから時間感覚が狂っているとはいえ、まだ記憶に新しい。 「百兎は」 白兎は目を細めてわずかに瞳孔を広げた。 どこか遠いところを見ているように思えた。 それも一瞬のことで、白兎はすぐにルルーを見つめる。 そして言った。 「ナニカノ草を食らった者の成れの果てだ」 ルルーは反射的に口元を押さえる。 もう片方の手を、先ほどナニカノ草を飲み込んだ、のどに添えた。 まだ間に合うなら吐き出してしまいたかった。 初めて、自分の行動を強く悔やんだ――……。 生きている。 アルルがルルーの手を握り締めると、ほのかに汗を掻いていて湿っぽかった。 温かく、アルルの体温ともそんなに変わらない。 ルルーは確かにまだ生きていた。 「どういうこと……?」 アルルはルルーの手を話さずに呟く。 誰に向けたわけでもない問いだったが、ドリアードが首を横に振った。 「生きているのは確かです。 ただ、だからこそ不可解です」 アルルとカーくんは顔を見合わせて首をかしげる。 何が不可解なのか二人(?)には見当がつかない。 「ナニカノ草の毒で死んだ人間というのは幾人も見てきましたが、眠り続けるという例はありませんでした」 「え、毒があるの!」 アルルはドリアードとシェゾの顔を交互に見て、シェゾのマントを引いた。 シェゾは「ああ」と応える。 「ナニカノ草には猛毒が含まれるという伝説がある。 現在は魔法も発達し毒だけを除く技術があるから、無縁のはずなんだが」 「あら、そうなんですか」 ドリアードが場違いに感心した声を上げる。 アルルはシェゾが一瞬引きつったのを目撃した。 口元が笑みの形を作るのに失敗し、歪んでいる。 「まさかあんた……猛毒をそのまま与えたんじゃ……」 シェゾの声が低く、言葉を形成する。 奇妙な威圧感にアルルはその場から一歩下がる。カーくんがシェゾから遠い場所まで、アルルの上をちょろちょろと動き回った。 さすがにドリアードも不穏な空気を察知して、慌てて両手を眼前で振る。 「安心してください、生きているということは、毒は関係がなかったということです」 シェゾは目を半ばほどまで閉じてうさんくさげにドリアードを見ていたが、ルルーに視線を戻し、 「そうだな」 全く異常が見られないのを確認しなおして同意した。 番人をやっていたせいでこのドリアードはずっと外界との交流を絶っていたのだ。 魔導学校の勢力化にあるせいもあるが、訪れる旅人も少ないだろう。 いささか世間知らずなのもいたし方はない。 生きてはいるものの、ルルーは昏々と眠り続けている。 どんなに呼んでも、どんなに揺さぶっても、ルルーは反応を示さなかった。 あり得ない話だった。 少なくとも、ドリアードの知り得る知識の中では。 ナニカノ草には、強力な毒素が含まれている。 ナニカノ草を口にした者は、等しく死を与えられる。 けれどルルーは、死ななかった。 そして目覚めることもない。 ナニカノ草の番人たるドリアードにも初めての経験だった。 ドリアードは目を閉じる。 精霊は目から視覚的情報を得ているわけではないので目を開ける必要もなければ閉じる必要もないのだが、その姿は何かを探しているようにも見えた。 「ルルーさんの意識がどこへ行ってしまったのかは追うことができませんが……。 精神と肉体が分離してしまっていることは分かります。 おそらく、どこかに精神だけが引っ張られてしまったのかと」 ドリアードの言葉を聴いて、シェゾは拳をあごに当てる。 「先ほど、アルルが唐突に姿を消したのと似たような状況だな」 ただし、今回は肉体ごとではなく、精神だけだ。 シェゾの脳裏に再び浮かび上がる。 アルルを異空間に引っ張っていった白い手。 ルルーもまた、それに引っ張られたのではないかと思う。 「もしかすると、ルルーのやつもまたアルルと同じ場所に引き込まれたのかも知れんな」 「え、そうなの?!」 「あくまで仮定だ」 シェゾが勢いよく身を乗り出すアルルの額を軽く小突く。 結論を出すにはまだあまりにも性急過ぎる。 シェゾはアルルがどこにいたかなど知りもしないのだ。 ただ、楽天的な考えかもしれないが、アルルがいた場所にルルーもいるのだとしたら、少しは希望がわく。 アルルは帰ってきたのだ。 ルルーもまた、放っておけば帰って来る可能性も出てくる。 可能性の一つに過ぎないが。 「えーっと、何だかよく判らないけどさ」 少年が小さく手を挙げて、言いづらそうに口を開く。 「その女の子の話を聞けば、何か手がかりがつかめるかもしれないってこと?」 少年はアルルを指差す。 指名されて、アルルは困ったように左右を見た後、自分を指差して「ボク?」と呟いた。 少年が首肯する。 「正直、俺はこのお姉さんとたまたま会っただけで、状況が全然分からないんだけどさ。 俺がつれてきた手前、責任は取りたい」 短い髪の毛を掻きながら少年はうつむく。 眉間にしわを寄せて下唇を軽く噛む。 彼は彼なりに責任を感じているようだった。 シェゾは腕を組み、少年を眺める。 「そんなもんどうでもいい」 きっぱりと言った。 驚いたように少年がパッと顔を上げるが、反論が来る前にシェゾが続けてしまう。 「どうせルルーが無理矢理案内させたんだろう」 胸を張りながらいつものタカビーな調子で「案内しなさい!」と言うルルーの姿が、アルルにも容易に想像できた。 たぶん本当にその通りなのだろう。 それでいつも何だかんだの内にルルーの言うとおりにしてしまうアルルとしては、少年に同情せざるを得ない。 「それはルルーの責任だ、お前が気に病むことじゃない」 首を縦に振って、アルルも同意した。 向かい側でドリアードも「確かに強引な方でしたしねぇ……」と呟く。 初対面の人(精霊だが)にまで遠慮なしに接するとは、大したものである。 それを唯一否定したのもまた、少年だった。 「違う」 顔を上げて、はっきりと発音した。 開かれた瞳から強い意志を感じ取り、アルルは思わず圧倒される。 茶色がかった三白眼の瞳は、しっかり開かれていた。 絶対に目を背けないという意思があった。 「俺は、関係ないって見て見ぬ振りするのは、やめたんだ」 どちらかといえば自分に言い聞かせているかのようだった。 名前すら知らない少年の思いを、当然少年以外の者が知っているはずもない。 少年は少年なりに、重たい思いを背負っている。 それを感じていたので、誰も口を開かずに、少年の思いを聞いていた。 少年は両手を握り締める。 硬い拳だった。 一つ間をおいて、その間に息を肺の中にためる。 わずかな吐息と共に、少年は胸に秘めていた決意を口にする。 「俺はもう、逃げたくない」 大切なものを、守るために。 続く |