アルルの放課後
9.「絶望と希望」その3





早く、早く、早く。
思うように動かない自分の足にイライラした。
息は早くも切れ始めている。
本来の力さえあれば、こんなことはないのに。
仮定法が頭をよぎる。

考えると脳が酸素を消費する。
だから体力を使う時に、くだらないことなど考えるな。
ルルーは自分に言い聞かせた。

地図に目をやって気分を紛らわせる。
どこもかしこも似たような景色なので、時折方向を確認しなければすぐに違う場所へと連れて行かれてしまう。
だんだん自分が進んでいる方向が正しいのかどうかも判らなくなってくる。
つい地図を見る回数が多くなっていた。
実際はそれほど進路が狂うことはなかった。

地図を握りしめて、腕を大きく振る。
地図はだんだん無惨な姿になりつつあった。
息を吐いて足に力を入れた。
速度は上がらない。
しかしそうしていないと、木の根に足を取られてしまいそうだった。

意識の遠くから人の声まで聞こえてくる。
「そこのお姉さん、ねぇ、止まってよ」
まるでルルーを邪魔するかのようだった。
その声が見えない手となりルルーの足を引っ張っている。
体力がどんどん奪われる。
うるさいわね、黙りなさいよ。
頭の中でルルーは思い切り叫んだが、声になることはなかった。

前を見ている余裕なんてもはやない。
突進するように走り、目の前に気が近づいたら、手をつき回り込むようにして避ける。
だからルルーの目には、彼が突然降ってきたように見えた。
突如として目の前に現れた少年。
暗い森の中で、白に近い髪の色だけが際だつ。

森の妖精かと思った。
そうでなければルルーを邪魔しに来た悪魔だ。
何で邪魔をするのか。
ルルーはだんだんむかついてきた。
疲れるし足は痛いし。
ルルーの頭の中で、何かが切れる音がした。

「あの〜、お姉さん!
止まってくれますか!」
少年は懸命に叫ぶ。
先ほどからずっと声をかけているのだが、ルルーの耳には全く入っていなかった。
それどころか表情は険しくなり、さらに加速してくる。
動揺したのは少年の方だった。

「邪魔よォォォ!」
少年の努力はむなしく。
周りどころか目の前にいる少年の姿すら眼中に入っていないルルーは、叫びながらも突進してくる。

激突した。



「いきなり出てくるあんたが悪いわ」
軽く意識を失った直後。
目が覚めてからの第一声がそれだった。
「すみません……」
少年は気迫に押されて何となく謝ってしまう。

少年は服の裾を払って立ち上がる。
ルルーに手を貸そうとするが、ルルーは断った。
幸いなのはお互い外傷もなかったことだ。
正確には少年がぶつかる直前にルルーを抱き留めたから、少年がしりもちをつくだけで済んだ。
これがいつものルルーだったら、ぶつかった少年は重傷だろう。

地面に手をついてるルルーは立ち上がる。
手にした方位磁針がないことに気付いた。
ぶつかった拍子に転がっていってしまったのだろう。
「ああ、もう」
苛立たしそうに呻く。
再び屈んで草の中に手を突っ込んだ。

草の上に落ちていた地図はすぐに見つかった。
しかし小さな方位磁針は見あたらない。
長い草が地面をすっぽり覆っていて、何も見えなかった。
「どうしたんですか?」
少年がルルーの横から声をかけるが、焦っているルルーには届かなかった。
方位磁針がなければどこへ行けばいいかも判らないのだ。
地図だけあっても仕方がない。
時間もなかった。

ルルーは手に付いた草を思い切り引き抜いた。
葉の途中からぶちりという音を立てて草が千切れる。
このまま全部草をむしり取ったら早いだろうか。
そんな思いがかすめて、ルルーは草をむしり始めた。
「お、おいっ!」
次々に散っていく草を目の当たりにして、少年は思わずルルーの肩を掴んだ。
年の頃は十代半ばほどであるが、力はなかなか強い。
ルルーは動きを阻止されて、少年をきつくにらみつける。
少年は大きく息を吐いた。

「ぶつかってしまってすみません。
何かあったのならお手伝いしますが」
ゆっくりと言葉をつなげる。
さすがにルルーにも聞き取ることができた。
冷静な少年の口調に、少しだけ怒りが収まる。
「方位磁針が見つからなくて。
急いでるの」
言われて、少年は辺りを見回す。
顔をしかめた。
見つかりそうもない。
表情がそう告げていた。

「探すの、探さないの」
言いたいことが何となく判って、ルルーは強く尋ねた。
断るとは言わせない、といったニュアンスが含まれている。
少年は顔の前で手を振って慌てて「そうじゃなくて」と言った。
「行き先はどこですか?
もし良ければ案内します……方位磁針を探しているより早いでしょう。
あ、大事な物だったらごめんなさい」
「別に良いわ、私のじゃないし」
きっぱりと言う。
自分のではないからこそ探さないといけないのでは……と少年は思ったが、何となく言わない方がいいような気がした。
賢明な判断である。

「ナニカノ草のある所まで行きたいの」
ルルーの言葉に、再び少年の表情が厳しくなった。
いや、先ほどよりもずっと真面目な表情になった。
確実に少年はナニカノ草のことを知っている。
「案内してちょうだい」
ルルーは地図だけ腰の帯に挟んで立ち上がった。
有無を言わせず進み始める。
振り返って、「早く」と急かす。

少年がルルーの背に叫んだ。
「本当に行くんですか?」
ルルーは眉をひそめる。
「行かなくちゃいけないのよ」
「あなたはナニカノ草がどんなものか知っていて言うんですか?」
問いかけられて、ルルーは押し黙る。
ほとんど知らない。
教科書で少し名前を見たことがある程度だ。
授業でやっていないので詳しいことはよく判らない。
ウィッチに効能を聞かれて初めて知ったくらいだ。
「病気を治す力や潜在能力を高める力があるんでしょう?」
とりあえずウィッチの言葉を思い出して言う。
少年は首を横に振った。

「それだけじゃない。
あなたは知らない。
ナニカノ草は……」
少年は額を手で覆い隠した。
苦々しく奥歯をかみしめる。

「あれは、死を呼ぶ草だ」



ルルーの答えに迷いはなかった。
「それでもかまわないわよ」

少年は手を下ろしてるルーの瞳を見つめる。
青い瞳には一点の曇りもなかった。
純真に輝く一途な瞳。
一途な思いはとても曲げられそうにない。
何より、強かった。

だけど少年は止めなければならない。
ナニカノ草の歴史を知っている限り。
少しの間をおいて、少年は妥協した。
「場所は誰にも教えないでください」
ルルーは頷く。
「とりあえず俺はあなたを連れて行きます。
考えることは現地に行ってからでもできますから」
ルルーには考える余地などない。
判ってはいても、少年にはそれ以外には結論を出せない気がした。

強い瞳を知っている。
何事にも曲げられないほどの強い思い。
そういう目をする人間が、どれだけ追いつめられているのか知っている。
どれだけの覚悟があるのかも。
そして、彼らには他に道がないのだということも。
それでも少年は「彼女」を突き放してしまったから。
受け止めなければいけない。

少年はルルーに背を向けた。
その場に屈み込む。
「背負っていきます。
その方が楽でしょう」
「いいわよ、自分で走るから」
力を失ったとはいえ、格闘家の誇りがあるルルーとしては、申し入れを受け入れるわけにはいかなかった。
何度か同じ言葉を繰り返すが、いつまで経っても同じだった。

先に折れたのは少年の方だった。
「じゃあ、急ぎますからついてきてください」
ルルーは深く頷いた。



少年が本気で森の中を駆け抜け、あっという間に見えなくなっていってしまった。
特別足が速いのではなく、森の中に慣れているのだ。
立ちはだかる木々を物ともせず駆けていく。
ルルーが音を上げて少年に負ぶってもらうまで数分もかからなかった。




続く



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