アルルの放課後
9.「絶望と希望」その1





魔物が倒れていた。
下半身が狼、上半身が少女の姿をしている。
東の森の奥地に住む、スキュラという種族だった。
ケガをしている様子はないが、血色を失い、ぐったりとしている。
呼吸は浅い。
意識もないのか、彼女は動く様子を見せなかった。
いわゆる「ばたんきゅー」状態である。

大きな影がスキュラをすっぽり覆う。
スキュラを見下ろし、ウサギのような風体をした魔物はその白い巨体を小刻みに奮わせていた。
体中から突き出る耳が青白い光を放っている。
薄暗い森の中に、光の粒子が現れた。
粒子は「ウサギ」と取り囲むように宙を舞う。

口からは言葉とも取れるうめき声を発している。
代わりに森の中は静かだった。
脅えるかのように何の音も立てない。

草が真横に折れ曲がった。
「ウサギ」を中心に、草は円形に倒れ込む。
ミステリーサークルのような円形の模様が次々と現れた。
光の半球が形成され、「ウサギ」を内包する。
体の震えが増す。
空気が張りつめた。

スキュラの体が弾かれるように転がった。
木の幹にぶつかり、止まる。
スキュラは小さく息を吐いたが、失った力が大きすぎるのか、目覚める気配はない。

「ウサギ」は低く呻る。
苦しそうに体を折り曲げた。
不自然なほどに突き出る背中。
ある一点から、光が漏れだした。
青白い光だ。
わき出るようにあふれていた光は、やがて練り固まり塔を築いていく。
上へ上へと形が形成されていき、耳と同じ高さになると成長は止まる。
陶器のように滑らかな表皮を持つ固まりが背中に誕生した。

表面にひびが入る。
表皮はガラスのように砕け散りながらはがれ落ち、中から白い物をのぞかせた。
完全に覆っていた物がなくなると、それは耳になった。
周りにある耳と混ざって、どれが新しく形成された耳か判別がつかなくなる。
それは、ちょうど百本目の耳であった。

《オオ……オオオオ!》
「ウサギ」は歓喜に震えた声で吠えた。
「ウサギ」の周りにあった光が全て消し飛び、新たに生まれた強烈な気配が辺りに広がった。
「ウサギ」の持つ強烈なエネルギーが存在感となってにじみ出ている。
鋭い刃をかみ合わせ、「ウサギ」は喉を鳴らした。
頭の部分に生えている耳を数本動かし、進路を変える。
四方八方、同じような木々があるだけだった。

「ウサギ」は二本足で立ち上がる。
頭を持ち上げて、ある一点だけを見ていた。
赤い瞳が木々の向こうにある光景をとらえる。
地図を片手に歩く、三人の男女。
それと、黄色い生物。
「ウサギ」は走り出した。



「ほら、早く来ないと置いていくわよ、アルル!」
「へう〜、待ってよルル〜〜!」
かなりノロノロとした足取りで、アルルはルルーを追いすがっていた。
一生懸命歩いているのは判るが、遅い。
ルルーからはかすかに呆れの色が滲み出ていた。

コレハ草を入手してから小一時間が経ち、足場の悪い森を休みなくアルル達は進んでいた。
中でも一番体力がないと思われるアルルが一番先にダウンすることは誰もが承知していたことだ。
だが限界は意外に早かった。
「ぐー?」
ついにアルルの様子を見かねたカーくんが、アルルの左肩から顔をのぞかせ、「大丈夫?」と問う。
「うん、大丈夫」
言葉ではそう答えたアルルだが、実際はかなり疲れているようであった。
証拠に、息はすっかり乱れており、額には汗が浮かんでいる。

対して今やアルルと同じ体力しか持ち合わせていないはずのルルーは、流石に呼吸はやや乱れているものの、額に汗が伝うことはなかった。
この違いは、精神の問題なのではないかと、アルルは思う。
いくら力を失ったと言えども、格闘技により鍛えられた心は健在に違いない。
先ほども気合いだけで、竜の血を持つドラコや、高飛車な魔法使い見習い・ウィッチを退けたくらいだ。
「やっぱり、ルルーはすごいな〜」
不意に、アルルの口から感心とも落胆とも思える呟きが滑り落ちた。
同時に、足が止まってしまったらしく、アルルの視界からルルーが遠ざかってゆく。
アルルは慌てて追いかけようとする。
だが、ルルーの方が立ち止まったので、その必要はなくなった。

アルルが自分のペースでゆっくり距離を縮めていくと、まずシェゾの呻きが耳に入った。
「う〜ん、どうしたもんかな」
「さぁ……とりあえず原因を探った方が良いんじゃなくて?」
どうやらルルーが立ち止まった原因は、シェゾの方でトラブルがあったかららしい。
続いて答えたルルーの口調は、他力本願なものだった。
これにはシェゾも顔をしかめ、アルルはちょっと嫌な予感を覚える。
(これは、口喧嘩が始まっちゃうかもしれない……)

せっかくいい調子で(アルル自身が足を引っ張っていた気もするが)ここまで来ていたのに、今更口喧嘩の応酬などやらかされたくはない。
その一心で、アルルは無理矢理二人の間に割り込んだ。
「ねーねー、一体何があったの?」
アルルがシェゾに対して問うと、ルルーからシェゾの視線がそれる。
同時にいくらか怒りが消えたことが、シェゾの口調から分かった。
「ああ、実はな」
答えは、言葉ではなく実物によって明らかにされた。

シェゾが左手と共にアルルの眼前に示したのは、シェゾが愛用している銀の方位磁針だ。
銀色をした、円柱状の小さな箱の中に針が入っている、一般的な型だ。
先端が青く塗られている方が北、鉄色をした方が南を、常に指し示しているはずなのだが……。
青く塗られた先端は、行き場を失ったかのようにぐるぐると箱の中を回転しているだけだった。

「……何、これ?」
「突然使えなくなった方位磁針だ。
これではうかつに先へは進めん」
言いながらシェゾは、振ったり叩いたりしているが、一向に直る兆しはない。
アルルは、魔法を掛けてみたらどうかと提案した。
その言葉に、シェゾは首を横に振る。
もう試してみたが、ダメだったらしい。
他にも色々やりはしたが、どれも駄目だったということを告げられ、アルル達はどうしようもなく考え込む。

ふと、シェゾが顔を上げ、地図を確認すると、しまったと言うような顔をする。
「くそっ!」
「わっ!」
突然上がったシェゾの声に、アルルはビックリしてシェゾの方を見た。
ルルーも、一体何なのよ、とぼやきながら髪をかき上げる。

シェゾはもう一度地図を開き直して、現在地を告げる。
「ここは……東の森最悪の区域、"磁界の墓場"だ」
「磁界の……墓場?」
「何よそれ」
とても緊迫するべきシーンに似つかわしくない反応に、シェゾは肩を落とす。
アルルは東の森奥地までは来たことがないし、ルルーに至っては今回初めて来るくらいだ。
東の森が危険視されている由縁を知らなくても、不思議ではないとは思う、が。
自分の感覚を理解してもらえないことが、そろそろ無性に悲しくなってきた。

しかし常人に理解されないのは、日頃「変態」と称されている彼にとっては日常的なこと。
すぐに理解されたい感覚を拭い去り、理解させるべく簡易的な説明を行った。
「磁界の墓場とは、文字通り磁界の流れが入り乱れている場所のことだ。
よって、方位磁針など磁石を利用したものは一切機能しなくなる。
原因が解明されていないだけに、解決策はなく、東の森に良く来る奴でも絶対に近付きはしない」

シェゾの言葉に、ルルーは嫌な予感を覚える。
アルルは気付いていないらしく、シェゾと「それも覚えるの?」「当然」というような会話をしている。
ルルーは、恐る恐る浮かんだ疑問を口にした。
「ちょっと……、じゃあ、ここからはどうやって進むわけ……?」
太陽がある間はまだ良い。
だが日はもうじき沈む。
あと三十分、長くて一時間。
日が埋もれた後に、頼る物は何もない。
「知るか」
即答された。
あまりにも短く、非道な回答に、ルルーは硬直するしかなかった。

シェゾは、どうでも良い、と言うかのようにルルーから視線を外す。
直後、シェゾの襟元ががしっと捕まれた。
「ちょおおおぉぉぉっとおおおお!!
じゃあこれから先、どおおおおすんのよおお!!」
「ぎゃあ、あああ、あーーーー!!」
襟元を捕まれたまま激しく頭をシェイクされるシェゾは、途切れ途切れの悲鳴を上げる。
おまけに耳元でのルルーの叫びがオプションとしてついているため、さらに悲鳴は大きくなる。
アルルとカーくんも、一瞬耳を塞ぐのが遅れたため、耳の奥が痛かった。

もの凄い形相のルルーと、意識が吹っ飛んでるシェゾを前に、アルルは数歩後退る。
「カーくん、今の内に逃げようか……?」
「ぐー……」
ついにはそんなことまで考えてしまう。

力の抜けたシェゾの手から方位磁針が飛ぶ。
緩やかな弧を描いて、方位磁針は草の絨毯の中に落ちた。
アルルが夕日に当たってきらめく方位磁針に気付き、「あっ」と声を上げた。
アルルが走り出そうとしたとき、勇ましいカーくんの声がそれを制止した。
「ぐー!」
まかせて、と意気込みながら、カーくんがアルルの肩からダイブする。
カーくんは華麗に空を舞う。
小さな手を広げて飛ぶ姿はムササビみたいだった。
空気に乗って緩やかに下降し、カーくんは方位磁針をキャッチする。
そのまま宙で一回転して、カーくんは地面に着地した。

「おお〜!」
思わず「十点!」と言いたくなるような動きに、アルルは感嘆の声を漏らす。
拍手をすると、カーくんは誇らしげに小さな胸を張る。
方位磁針が落ちたことに気付いたルルーはようやくシェゾの服から手を放した。
目を回したシェゾはそのまま地面に落っこちる。

ルルーは屈んで、カーくんから方位磁針を受け取った。
「いつの間にか落としてたのね」
カーくんが「誉めて誉めて」と両手を上下させると、ルルーは苦笑してから耳の後ろをなでた。
普段あまり人を誉めたりしないルルーなので、カーくんは嬉しそうに耳を動かしている。
「それに比べ、うかつに落っことすおっちょこちょいないやみの魔導師ときたら……」
ほおづえをつき、ルルーは地面に寝そべっているシェゾを見た。
言い返す気力のないらしく、青ざめたシェゾは力無く言う。
「無茶言わんでくれ」
気持ちが悪いのか、口元を押さえていた。
アルルもその気持ちはよく判る。
頭を激しく揺らされると視界がぐらぐらして立つのも困難になる。
ルルーはこの攻撃を極めているというか何というか……。
とにかく、効果は強烈なのだ。

それを自覚していないルルー本人は、「まったく」とため息をついて立ち上がる。
他人のことは気にしないルルー道は健在だ。
手にした方位磁針をシェゾの頭と同じように激しく振る。
方位磁針は悲鳴を上げるかのようにカシャカシャと鳴った。
「おいおい、壊すなよ」
あまりの乱暴な扱いにシェゾが呻く。
「別に良いじゃない、元々壊れてるんだし」
だから、壊れているのではなく磁場がおかしいのである。
つっこみたかったが、おそらく言っても無駄なのでシェゾは大人しく新しい方位磁針を買うことを考え始めた。

「あら?」
ルルーが手を止めた。
針の変化に気付いたのである。
何があったのかと、アルルがのぞき込んだ。
アルルも驚きの声を上げる。
何がなんだか判らないのはシェゾだけだ。
自分だけ知らないのはしゃくだった。
シェゾはぐらぐらする頭を押さえて身を起こす。

シェゾより頭一つ分低いアルルの頭上から、ルルーの手の中にある方位磁針をのぞき込む。
先ほどとは違う様子を見せる指針に、思わず眉をひそめた。
針は相変わらず動いていた。
しかし、今度は小刻みに動きながらも、一定の方向を示している。
シェゾは空を仰いだ。
まだかろうじて日の光が森の上に乗っかっている。
そちらが西であるのだから、針の示す方向は、どう見ても南ではなかった。

「どういうこと……?」
不気味な現象に、ルルーの声は震えていた。
方位磁針を押しつけるようにしてシェゾに渡す。
感じ取っていたのだ。
磁石が示す方向は、南などではない。
何かがいる方向。

直接遭遇しているルルーだけが感じ取れる気配だった。
あからさまに脅えるルルーを見てアルルは驚いてしまった。
「具合が悪いの、ルルー?」
蒼白になったルルーの顔を見て、アルルは思わず尋ねる。
ルルーは無言で首を横に振る。
「判らない」
気丈な彼女が「大丈夫」だと言えない。
頭を抱えて、ルルーは再び「判らない」と言った。

次に「それ」に気付いたのは、カーくんだった。
「ぐぐっぐー!」
方位磁針の示す方向に向かって何かを叫ぶ。
威嚇しているようにも見えた。
「何て言ってるんだ?!」
シェゾは怒鳴るように尋ねた。
アルルは急変したみんなの様子におろおろするばかりだ。
戸惑いながら、カーくんの言葉を訳す。
「防御系の魔法を唱えて」
カーくんの言葉の意味さえ、よく判らない。
何を意図してそう言うのか、アルルには理解できなかった。

思うところがあったのか、シェゾは針の先を見る。
「アルル、ダイヤキュートを!」
そう指示した後、すぐに防御系の呪文を唱え始めた。
シェゾがちゃんと呪文詠唱をしているのを見て、アルルは違和感を覚える。
いつもは呪文を短縮しているシェゾだから、ちゃんと呪文を唱えるとかえって変な感じがするのだ。
それはシェゾが防御系の呪文を唱え慣れていないからでもあったが。
シェゾの本能は判断した。
短縮の呪文では足りない。

アルルは言われたとおりダイヤキュートを唱える。
補助系の呪文はアルルの得意分野だった。
いきなり言われたものの、間違えることもなく無事魔法は完成した。
「ダイヤキュート」
シェゾに魔法のきらめきが降り注ぐ。
淡い緑の光に包まれ、シェゾの魔力が強化される。

直後、殺気が降りかかった。
アルルもようやく気付く。
こんなものが近づいていたから、様子が変だったのだ。
「それ」が姿を現す前に、シェゾは完成した魔法を放った。
「シールド」
レンズのような魔法のバリアが四人の前に出現する。
通常は一人用の魔法だが、強化されているため四人を守るのに十分な大きさがある。

気付いた時には、「それ」は目の前にいた。
巨大な頭部がシールドにぶち当たっている。
アルルは声も上げられなかった。
猛スピードで突進してきたのだ。
勢いがありすぎた「それ」は衝突の反動で数メートル後ろへ下がる。

ルルーは目を細めて「それ」を見る。
真っ白な胴体、異常なほど生えている耳。
「やっぱり」と呟いた。
覚えがあった。
まるで、心を見失って、憎むことしかできなくなった、哀しい殺気に。
忘れるはずがない、戦わずして敗北させられた相手のことを。

四人は「それ」と対峙した。
強烈な殺気が敵であることを知らせている。
すぐに戦闘へと気持ちを切り替えた。

眼前に構えるのは。
白く巨大な、百の耳を持つ異形の「ウサギ」だった。




続く



←前   戻る   次→