アルルの放課後
8.「間奏 〜夜へ〜」 淡いオレンジ色の光が森の上に敷かれた。 上空から見ると雨が降る前の雲のようにどんよりとしている森だが、この時間帯になるとほのかに明るい色をともす。 夜が近づくにつれ不思議と穏やかになっていくような気がするのだ。 夕暮れ時の森と見ていると自分まで和やかな気持ちになってくる。 ウィッチは日が暮れる前のわずかな時間、空を飛ぶのが好きだった。 時折家路につく鳥とすれ違うのもまた良い。 いつもよりゆっくりと飛行しながら、ウィッチは眼下に広がる森を眺めた。 前方からは一つ二つ、点が近づいてくる。 鳥の群だろうか。 先日のように衝突するといけないので、ウィッチはしっかりとほうきの柄を握りしめて前を向いた。 高い声色でせわしなくささやき合いながら向かってくる。 何の鳥かと思い、その影が近づくのを待っていたウィッチであったが、いつまで経っても近づくことはなかった。 不思議に思って速度を上げてみると、鳥は方向を変えてどこかへ飛び去ってしまう。 自分が近づいたせいで逃げてしまったのかを思うと残念だった。 しかし一つだけ点は大きくなり、相変わらずウィッチに近づいてきた。 近づくにつれて、だんだんとそれの色彩が認識できるようになる。 黄緑色の頭部に、赤い体。 大きな羽を広げて、素早く風を切る。 まるで空の特急列車だ。 よく見るとしっぽまである。 やがて人の形をなすようになった。 それが知人の姿と重なり、ウィッチは思わず急ブレーキをかけた。 急速に近づいてくるその顔は、先ほど別れたばかりであるドラコだったのだ。 二本の角をウィッチに向け、闘牛のように一直線につっこんでくる。 赤いものを持っていないのになぜ?! ウィッチは思わず腕で顔を覆った。 いつまで経っても衝撃はやってこない。 おそるおそる前を見ると、ドラコはウィッチの前で制止していた。 「何やってんのさ、あんた」 腰に手を当て、ドラコは呆れた顔でウィッチを見下ろした。 ドラコはただウィッチを見つけて近づいてきただけであって、けして突進してきたわけではない。 かなりの猛スピードであったため、ウィッチが勘違いしただけだ。 ほうきの扱いに慣れない半人前のウィッチと違って、ドラコの飛行は鮮やかである。 ウィッチのように勢い余って人とぶつかってしまうことなどない。 ウィッチは自分の勘違いに気付いて恥ずかしくなった。 赤くなった顔を押さえると、ほてっているのが判る。 ウィッチはさも夕日のせいで赤いのだという振りをして、なるべくいつも通りの口調で話しかけた。 「なな何ですの、ドラコさん? 帰ったんじゃなかたんですの?」 ……つもりだったが、ところどころつっかえてしまう。 さらに恥ずかしくなって、ウィッチはここが空でなかったらうずくまっているところだった。 幸いだったのはドラコにそんなことをいちいち気にしていられるほどの時間がなかったことだ。 そんなことをしている場合じゃないということに気がつくと、ドラコはまくし立てるように言った。 「そうだ、あんたも早く逃げな」 「どういうことですの?」 脈略のない言葉にウィッチは聞き返す。 ドラコは乱暴に自分の髪をかいた。 顔を思い切りしかめる。 説明する時間も惜しいらしい。 何とか簡潔に説明しようとして「あー」と口を開くが、上手い言葉も浮かばずに何も言えないまま終わる。 時間がない割に要領を得ない。 ウィッチはドラコの態度にイライラしてきた。 ドラコは仕方なく始めから話を切り出す。 「今日、東の森に来たのはコレハ草のためじゃないんだよ」 コレハ草を得るために木を切り倒すという暴挙に出たというのに、それが真の目的ではなかったらしい。 カブモド樹にとってはとんだ迷惑である。 「サタン様からの用事には違いないんだけどね……。 今、この森は危ないんだよね」 「だからどういうことですの?」 よく判らずに、ウィッチはもう一度同じ台詞を繰り返すこととなった。 逃げろと言われた理由は判ったがその原因が判然としない。 東の森は多少魔物が出るとはいえ、そこまで危険なものはいない。 だからこそ魔導士の半人前である魔導学校の生徒が出入りできるのだ。 ウィッチも半人前とはいえ、東の森でばたんきゅーしない程度の実力はある。 ドラコもそれは知っているはずだ。 まさかウィッチを揶揄しているわけでもあるまい。 ドラコはなかなか伝わらない事情に、今度はいらだちを含めて「あー!」と漏らす。 「危険な魔物が発生したんだ! いや、これから誕生する、たぶん。 とにかくサタン様がそう言ったんだよ、間違いないね! 森のみんなを非難させろとサタン様がおっしゃったから、あたしはそうするだけさ」 最後に、これ以上何も聞くなと言わんばかりににらみつける。 別に怖くも何ともなかったが、確かにこれ以上聞くこともなさそうなのでウィッチは素直に頷いた。 ドラコは今話したこと以上のことは知らないのである。 それよりも、いつもポジティブなサタンがいやに受け身であることが気になる。 相当な何かが起こっているのだろうということが伺えた。 「なるほど、話は判りましたわ」 ウィッチがそう言うと、ドラコは心底安心そうな顔をした。 「でも……」 そして、今度は何、と訴えかけるように唇をとがらせる。 ウィッチはそれをなだめるように「大したことではありませんわ」と前置きする。 「アルルさんたちは……?」 ドラコは言いにくそうに顔を背けた。 アルルたちは立った今森の奥地へと向かったばかりだ。 サタンの言うところの「危険な魔物」に遭遇する可能性も大きくなるだろう。 これから家路へつこうとするウィッチよりもよほど危険な状況にあるはずだ。 しかしドラコが今向かおうとしていたのは、森の西側の方だった。 奥地とは違う方向である。 ドラコの失態で注意を促せなかったことは明白である。 注意したところで言うことを聞く奴でもないことも明白だが。 「これから行く。 今は先に、セリリたちの非難を……」 気付いたのは、二人同時だった。 ドラコは言葉を止めてそちらの方向を見る。 森が黒ずんでいく方……東の森奥地。 そこで何かの力を感じた。 何かが誕生したような……発動したような……。 二人はそれがサタンの言う「危険な魔物」なのだということをすぐに察した。 「あっちは……アルルたちのいる……!」 ドラコは羽を広げて上体を倒す。 翼を大きく羽ばたかせて発進しようとしたが、それはウィッチの腕によって遮られた。 ウィッチの細い腕がドラコの手首をつかんでいる。 それに気付いて、ドラコは飛び立つ前に何とか止まった。 「何だい」 「あれは……!」 甲高い声でウィッチが叫んだ。 まるで悲鳴のようだった。 ドラコは何も言わずにウィッチの言葉を待った。 重要な何かに気付いたようだった。 ウィッチは息を飲んで口を開く。 「時空が歪みましたわ……。 それほどの何かが、来ます」 魔導士だからこそ感じ取れる嫌な気配。 あるいは、こうして森を見渡せる位置にいたから気付くことができたのかもしれない。 森自体が魔力を帯びている東に森にいては、おそらく森の気配で先ほどの違和感はかき消されてしまっただろう。 ウィッチとドラコは顔を見合わせる。 「アルルたちは、どうだと思う?」 「少なくともあのメンバーなら、何に遭遇してもたいていのことならしのげますわ」 魔導学校で実技トップのアルル。 奇妙な力を使う、ある意味最強のカーバンクル。 目の前のものは全て蹴散らして進むむちゃくちゃなお嬢様に、目の前のものにさえ気付かずに踏みつけて進む非常識な闇の魔導師。 最強のメンバーがそろっているのだ、助っ人はいらないだろう。 ならば、先にやるべきことは。 ドラコは深く頷く。 「先に普通の魔物たちを非難させた方がいいね」 ウィッチも頷きで同意する。 「手伝いますわ」 そう言い合って、ドラコは森の奥へ、ウィッチは魔導学校の方へと飛んでいく。 お互いの姿はあっという間に見えなくなった。 重厚そうな扉を、インキュバスは二回、間隔を開けて叩いた。 色合いは質素ながらも、表面に施された細工は素晴らしい。 数十年前と同じ風体をした扉は、変わることなくいつも新品のようだ。 扉自体にも高度な魔法がかけられているのだということが判る。 ここだけではなく、この場所全体がそういう有様だった。 魔導学校。 校舎全体が魔力に覆われており、魔導師から見れば要塞のようにも思える。 その魔力を全て管理しているのが、この扉の奥にいる人物だった。 魔導学校の創立者兼校長でもある、自称魔界の貴公子、サタン。 ノックに対しての返答はなかった。 インキュバスは、自分のウェーブがかった青い髪をかき上げた。 葉が一枚、廊下の絨毯の上に落ちる。 髪についていたらしい。 捨てるわけにもいかないので、インキュバスは葉を指でつまみ上げる。 「ファイア」 呟いた直後に、葉は炎へと変わる。 跡形もなく燃えて、チリすらも空気に混じると消えてしまった。 代わりにハーブの香りが廊下に漂った。 しばらく間をおくと、扉は自動的に開いた。 入っても良いということらしい。 自分から開けようとしても、この扉は絶対に開かない。 部屋のサタンが了承した時のみ、扉は開かれる。 インキュバスはサタンの直属の部下である。 サタンに直接会うことが許された数少ない下部だった。 インキュバスはその隙間に滑り込むようにして部屋の中へと足を踏み入れた。 扉の正面には、男が立っていた。 背が高く、さらにその頭からは、大きな二本の角が突き出ている。 インキュバスが中に入ってきたのを見ると、彼は腰まである長い髪を振り乱して振り向いた。 流れる髪は美しいエメラルドグリーンだ。 ピジョン・ブラッドのように真っ赤な瞳がインキュバスを見据えた。 「どうだった」 低く、よく通る声で訪ねる。 インキュバスはサタンの前にひざまずいた。 「東の森に現れた魔物の現状についてお知らせします」 女性の心を惑わせる、バリトンの甘い声が、淡々と言った。 普段ならばここまで恭しくすることはない。 今日のサタンはいつもよりも焦っているように見受けられた。 奥には威厳を感じさせるゴージャスなイスがあるというのに、サタンは立っていた。 座る余裕すらもないらしい。 インキュバスが前置きをする間にも、サタンの視線は「早くしろ」と訴えている。 知らん顔をして、インキュバスは続ける。 「魔物は通行人や他の魔物、植物の生命力を食らって強大化しているものと思われます。 風貌は……巨大なウサギのようでした」 「ウサギ?」 思いも寄らなかった情報に、サタンは尋ね返した。 「はい、ただし耳が頭部から背中にかけて、大量に生えておりました。 数十本はあったのではないかと」 「聞いたことがあるな……」 呟くが、思い出せないのか苛立たしそうだ。 サタンは果てしない時を生きている。 一度経験したことでも、膨大な記憶の中からそれを思い出すのは、かなり困難なことだった。 「まあ、良い。 ルシファーに聞けば判ることだろう。 あいつの持っている知識は果てしないからな……」 サタンは苦々しく奥歯をかんだ。 ルシファーはサタンの弟であるが、あまり仲はよろしくない。 やんちゃなサタンは外れもの、大人しいルシファーは優等生だったからだ。 いつもすました顔をしているのも気に入らなかった。 かつてはほとんど顔も合わせなかったほどだ。 ルシファーが魔界の禁を犯し、魔王継承権を失ってからは、少しはましになった。 それでも、ルシファーに頼るのはいい気がしない。 そうも言ってられないのが今の状況だった。 何せ、東の森には。 サタンが愛してやまない、アルルとカーバンクルがいる。 「打つ手はないのか……!」 漆黒のマントを翻し、サタンは苛立たしそうに机を叩いた。 主の表情が苦渋によって打ち砕かれたのを見て、インキュバスは感嘆した。 悪巧みをしたり、思い切りはしゃいだりと、表情豊かな人物ではあるが、負の感情は一切表には出さない。 悲しみや苦しみ、悩み……そういったものは全て自分の中にしまい込んでしまう。 だから普段は何も考えていない楽天家だと思われがちだが、そうではない。 一切合切自分で背負い込んでしまうのがサタンという人物だった。 それだけに状況は切迫しているのだということがうかがえた。 それだけアルルとカーバンクルが大事なのだ。 インキュバスは立ち上がる。 サタンの了承を得るまで立たないのが礼儀ではあるが、ここは迅速に行動することこそ主への忠誠の証だと思った。 「それでは、調査を再開します。 何か追加のご命令はありますか?」 「特にない。 ドラコに会ったら情報を交換しておいてくれ」 「判りました」 一礼して、インキュバスは背を向ける。 これほどまでにアルルやカーバンクルの身を案ずるサタンの姿を見れば、二人もサタンのことを見直すのでは、と思う。 しかしここぞというときにいまいち格好つかないのがサタンである。 損な性分だ。 インキュバスは密かに苦笑した。 背を向けているのでサタンには見えなかったとは思うが、計り知れない人である。 文句を言われる前に、インキュバスは逃げるように部屋を出た。 続く |