【Building-2】


 少年はもう吐く息が残っていなかった。だから息を吸い込むしかなかった。最も恐れていたことだった。
 ガスマスクが奪われ、少年は息をすることができなくなった。息をすれば死んでしまう。目の前で死んでいった人間たちのように、苦しみながら死んでいくのだ。
 空気は毒に侵されている。毒は数分をかけ、肺からじっくりと人体を殺していく。体を浸食される感覚を味わいながら死に溺れていく。人は息をしたくてその毒に侵された空気吸い込み、そしてまた毒に狂い、繰り返しながら死んでいくのだ。息をしたら狂って死んでいく。それならば窒息死した方がまだましだと、死んでいく仲間を見て少年は思った。
 ガスマスクがなければ生きていけないような世界。ガスマスクは、人間が人間として生きられる最後のすべだった。
 それがなくなった今、少年に残されている道は一つしかなかった。狂って死ぬ。死ぬんだ。人間でなくなるんだ。狂っていくことの恐怖に、少年は目の前が真っ白になった。
 背中がコンクリートの上で弾む。息を吐く。また吸う。少年は狂っていく時を待った。いつの間にかゴーグルも吹っ飛んでしまっていて、視界は憎らしいほどクリアだった。星空が見える。赤い星、青い星、白い星、いろいろな点が、空の中で光っている。ちかちかと点滅を繰り返していた。

 動かなくなった少年を見下ろし、男は銃を腰のベルトに引っかける。弾は一つも残っておらず、心なしか軽かった。
 柄にもないことをしてしまい、男は自嘲した。わざと銃口を外すときが来るなど、思いもしなかった。父親に鍛え上げられ、期待通りにどんな人間でも掃除してきた。ためらったことはほとんどなかった。たとえ相手が女でも、自分より年下でも――もちろんためらいはしたが――例外なく片づけた。
 目の前の少年はターゲットではなかったのだから良いのだ。自分に言い訳をする。
 この少年のことに関しては、何から何まで予測不可能だ。最初は相手に雇われた用心棒か何かなのだと思っていた。しかし男が片づけるはずだった親玉は、おそらく、この少年に殺された。つまり少年が相手方に雇われた人間であるはずはない。ならば同じ掃除屋かとも思ったが、同じ仕事に複数の掃除屋が取りかかることはまずないのである。
 そうなると、少年の正体はまるで謎だった。戦っている意味さえもなかった。相手が殺す気でかかってきている。ならばこちらも殺す気でいくしかない。それだけのことだった。
 少年は目を見開いて空を見ている。呼吸はきわめて小さいが、意識はあるようだった。傷はそこまで深くなかったらしく、血はすでに止まっていた。動けない状況でもない。しかし動かない。大の字になって寝そべっている。
 ますます少年が判らなくなる。せっかく急所を外して、ゴーグルを壊すだけにとどめたというのに、まるで殺してくれと言わんばかりに無防備だ。ゴーグルの奥の顔は、予想通り大人と言うにはまだ幼い。覚悟を決めてなのか、死を恐れてなのか、切れ長の瞳は全く瞬きをしない。
 男は少年の脇に屈み込む。男はわざわざ少年にとって絶好の間合いに入ってやったのだ。それでも少年は動こうとしない。男は少年の眼前で手を振る。ようやく瞬きをした。やはり意識はちゃんとあるのだ。
 少年の視線は、しばらくさまよっていた。どこを見るわけでもなく、うろうろしている。やがて少年は視線だけで男を見やった。
 何かを呟く。聞き取れないくらいに小さなぼやきだった。独り言だろうか。男は思わず「何だ?」と聞き返したが、少年は答えなかった。
 ゾンビのようにぬっと立ち上がった。顔にほどこされた、どこかの民族のような赤いペインティングが、まるで血のように見えた。少年は夢遊病者のようにおぼつかない足取りでフェンスへと歩み寄る。判然としない瞳が男の姿を見つけた。
「なぜ、俺は死なない?」
 今度の呟きははっきりと聞こえた。意外なことに言葉は日本語だった。町の明かりに照らされて、輪郭がぼんやりと見える。奇妙な問いかけをするその瞳は子供のように素直な色を灯していた。本気で疑問に思っているらしい。「なぜ殺さない」ではなく「なぜ死なない」と。
 自分が撃たれたのだと勘違いして、そう言うのだと思った。しかし少年は続けた。
「俺は、息を吸った。だのになぜ死なない」
 男は形のいい眉をゆがめた。言葉の意味が判らない。当たり前のこと過ぎてなんと答えたら良いのか判らなかった。とりあえず「普通そんなことじゃ死なないだろう」と、当たり障りのない返答をしておく。
 ところが少年は至極不思議そうに眉を八の字に下げる。「なぜ」と繰り返し繰り返し呟いた。不思議に思っているのはこっちの方である。最初から奇妙だとは思っていたがふたを開けてもやっぱり奇妙だった。奇妙な少年の扱いにほとほと困り果てる。何もなかったことにして置き去りにするのが一番平和である気がした。
 少年は、ゆっくりと息を吸って、思い切り吐く。口を開けて舌の上に空気を載せる。呼吸を味わっているかのようだ。空気の味など判るのかが疑問だが。
 恐る恐る呼吸を繰り返していたが、少年はやっと空気が普通に吸い込める物だと認識したらしい。打ち震えた声で「吸える」と呟いた。
 今度は思い切り空気を吸い込む。「おいしい」呟いて、何度も何度も息を吸う。肺に収まりきらなくなるまで、彼は息を吸い続けた。
 代わりに少年の瞳から熱い水が押し出された。少年がきつくまぶたを閉じると、水は彼の頬に小さな川を二つ作った。
 彼は泣きながら、この排ガスに侵された空気を「旨い」とむさぼる。飢えた獣のように空気にかみついた。引きちぎって飲み込む。
 男は神聖な儀式を見つめるかのように、黙して少年を見ていた。少年が息をする。それだけのことだ。無意識の内に紡がれる命に感動する少年の姿は、美しくさえあった。
 彼の眼下では、道路に並ぶ光の川から、今でも排ガスが生産され続けている。一秒一秒この星は汚れていく。
 少年の視線が、闇にたゆたう町へと投げ込まれた。涙に屈折して町の明かりがゆらゆらと揺れる。闇の中を泳ぐ光の群れに少年は「綺麗……」と呟いた。フェンスに寄りかかり、光を間近で見ようと、身を乗り出す。
 小柄な彼の体が浮き上がった。フェンスにぶら下がる形となる。錆びた接合部が鉄のこすれ合う不快な音を立てた。少年の体重自体はさほど重くはないが、背中にはガスボンベがある。建設以来手を加えていないであろう屋上のフェンスは、少しずつ変形していった。
 足を揺らしながら、少年は澄んだ空気を吸い込み、夜景を鑑賞する。今までに味わったことのない心地よさに彼は包まれていた。
 もしかしたら、これは毒に侵された空気が見せる幻想なのかもしれないと思った。それでも良かった。こんな幸せな気持ちで死ねるのなら、本望だった。
 もしも、もう一度だけ仲間に会えるとしたら、真っ先に息をすることの幸福感を教えてやろうと思う。冷えた空気が喉を通る爽快感、鼻に入ってくる不思議なにおい。美しい空気が吸えれば、生きることは最高に楽しい。素晴らしく思える。無表情な岩と毒ガスに覆われた故郷を思い出し、やはり帰れなくても良いかと思った。
 光の群れから一匹だけ離脱した光が寄ってきた。ただ車が脇道に入り、二人がいる建物に近づいてきているだけだ。少年には、とても近くに光があるように思えてならなかった。それをつかもうと、手を伸ばした。
 世界が反転する。少年の見ていた光は、頭上に移った。何が起こったのか判らないまま、体が落下していく。数秒間、少年は自分が空を飛んだのだと思っていた。
 上下逆さまになっていく少年を見て、男はぎょっとした。フェンスを軸にして少年の体はくるんと回転する。上半身がどんどん見えなくなっていく、ごつい軍靴のようなブーツを履いた足だけがかろうじてまだ見える。
 とっさに走り出していた。地面を蹴り、倒れ込むようにして地面すれすれを跳ぶ。フェンスの隙間に手を突っ込んで指を伸ばす。靴が目の前を通過していった。
 足首をつかんだ。少年の体重と落下の勢いに引っ張られ、男の頭がフェンスに激突する。反対の手でフェンスにしがみつきながら耐える。
 落下が止まり、衝撃が片腕に集中した。関節が外れそうな感覚に力が緩む。痛みに襲われながらも、男はけして靴を放さなかった。
 ふと、腕が軽くなる。多少の重みは残っているのだが、人間一人の重さにしてはずいぶん軽い。ボンベを捨てたのかとも思ったが、それにしても軽い。
 男はおそるおそる腕を引き上げた。つかんでいるのは、少年が履いていた靴。
 それだけだった。
 まさか、靴が脱げた? そんな馬鹿な、と自分自身に言い聞かせながら、下を見る。フェンスの隙間からでは真下の様子はうかがえない。立ち上がって、改めて建物の下をのぞきこんだ。
 そこには、入り口の前に止まる黒いベンツ。けして安くはなかったであろうベンツは、見るも無惨にその形を変形させていた。代わりに屋根の部分には、最初はなかったオプションがくっついている。
 ガスボンベを背負った、十代半ばほどの少年。血はないから、おそらく落下の衝撃をベンツが吸収してくれたのであろう。ぐったりと気絶している様子で今は動かないその生き物が、へばりついていた。
 どうせ男が掃除した誰かの車であろうから、ベンツの件は良しとしよう。もはや持ち主はこの世になく、処分されるはずだった車だ。本来の用途とは違うが、人の命を助けて壊れたのだから、ベンツも本望だろう。
 男は天寿を全うした車に合掌する。そして、落下音を聞きつけこちらに寄ってくる光を見つめ、どうやって少年を回収しようか考えた。とりあえず、まっ先にやるべきことは決まっている。
 男は盛大にため息をつき、頭を抱えてフェンスに寄りかかった。



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