【Building-3】


 揺れている。ぼんやりとする頭でまず最初に認識したのは、振動だった。一定のリズムで体が揺れる。緩やかなテンポは心地よく、心臓の鼓動のようだった。
 暖かい。背中は冷え込んだ夜風が当たるけれども、腹の方は暖かかった。一度覚醒しかけた意識は、今度は眠気によって薄らぎ始める。少年の瞳はうっすらと開くが、それ以上開くことはない。隙間からのぞく赤い眼球が、どこを見るともつかないまま動いている。
 小さく息を吐くと、一緒に力も抜けていった。代わりに眠気が押し寄せてくる。少年は抗うこともなく睡魔に埋もれた。
 異臭が鼻を突いた。白いもやが少年の眼前をかすめる。何かが燃えるにおいに少年は息を止める。軽く咳き込んで、いつも口元にある物がないことに気付いた。
「ガスマスク」
 はじけるように少年の頭が飛び上がった。しかし下半身が思うように動かない。誰かにがっしり掴まれているかのようだ。掴む力は一層強くなり、少年の体は上体だけ垂直になる。支点となる足を失った上半身は勢いのまま反対側に反り返った。もし下に地面があったのなら見事なブリッヂの体勢になっただろう。実際には地面はもっと下にあり、行き場を失った少年はエビ反りのまま宙にぶら下がった。
「何やってんだお前」
 後ろを振り返って、男は呆れた声を出す。突然動くから思わず落っことすところであった。男がしっかり足を掴んでいなかったら、今頃少年の頭はコンクリートに激突していただろう。
 男は上体を倒して、少年の体を起こす。男の体が傾いた分、少年の体は再び垂直になる。
「そのまま動くな」
 釘を刺してから男は体を起こした。「肩をつかめ」という男の言葉に従うと、少年は男に背負われる形となった。
 少年は男に負んぶされて移動していたのだということに気付く。少年が密着していた男の背中はまだ暖かい。
 少年がしっかり掴まったのを確かめると、男は歩き出した。歩くリズムに合わせて少年の体は揺られる。先ほど感じていたのとちょうど同じリズムだ。
 ため息混じりに、男が白い息を吐く。また何かが燃えるにおいがした。正確に言えばもう少し苦いにおい。吸い込むと、喉がいがいがした。少年は口元を手で押さえる。軽く咳き込むと、その振動が首の後ろから男に伝わった。
「悪い、煙かったか」
 男はくわえていたタバコを口元から外す。赤い火の粉が闇の中に落ちた。
 再びタバコをくわえて、タバコを持っていた手は上着のポケットの中を探る。少しだけジッパーを下ろして上着の内側に手を突っ込んだ。指先に当たる金属の感触。中から携帯灰皿を取りだしてフタを開けた。澄んだ金属音がかすかに響く。口元からタバコを灰皿の中へと落とした。
 携帯灰皿を元の場所に戻して男は問う。
「お前、家はどこだ?」
 少年がこのまま起きなければ自分の家に連れて行くつもりだった。少年は身分を証明するようなものは一切持っていなかったからだ。
 男も仕事に出る時は足がつくものは一切持たないが、そういう次元ではない。ガスマスクやガスボンベに書かれた文字は見たこともなかった。男は一応何ヶ国語かは理解できるのだが、そのどれにも当てはまらない文字だった。――二言三言話した日本語はとても流ちょうだったのに。
 唯一日本を感じさせるのは、少年の着るシャツに書かれた「極」の文字。だからといって、そんなもので少年の正体がわかるはずもない。国籍さえも不明な少年をそのまま放っておけば警察に連れて行かれるのは必至だった。
 本来ならば得体の知れない相手を自分の住処に入れたくない。だが翌朝にニュースで少年のことが報じられるとさすがに寝覚めが悪いので、男は仕方なく少年を背負い帰路についていた。
 少年が自分の家に帰ってくれるならそれに超したことはない。男は足を遅めながら、呻いている少年の口から答えが出るのを待った。
「家はない」
 男は「住処は?」と聞き返した。予想していなかった答えではない。むしろガスマスク姿で戦う少年が日本在住でちゃんとした家まで持っている方があり得ない。
「住んでいるのは……」
 少年が答えた地名はまるで知らないものだった。それどころか聞き取れない。発音自体がおかしいのだ。日本の地ではないことは明白だった。アジアかヨーロッパの、名も知れぬ土地かもしれない。
 それどころか……。男は浮かび上がった考えをうち消すかのように首を振った。
「それじゃあ、名前は?」
 ごまかすように言う。名前を聞くことなど意味はない。男の職業では名前などあってないようなものだからだ。使われるのは通称のみ。本名を忘れている者も多い。名前は便宜上付けられる「ラベル」でしかなかった。
「俺はMr.KK」
 男の名もまたあからさまな偽名だった。自分で「ミスター」をつける時点でおかしい。もっとおかしいのは、国籍さえも判然としないその名前を、親しげに呼ぶ者たち。
「Kでいい。みんなそう呼ぶ」
 Kさん、と不思議な呼び方をする人物を思い出しながら苦笑する。少年は上手く発音できないのか「ケー」と呟いた。なんだか鳴き声みたいだった。
「俺は、ジャック」
 ファミリーネームはないのか、それともやはりただの通称なのか。どちらもあり得そうで、男は追求しなかった。
 不思議なものだった。少年のことはまだ何も判らないのに、名前を知っただけで少年の人間像が見えてきた気がした。普段通称しか使わない男にとって、名前のありがたさなどなかった。
「良い名前だな」
 何となくそう言っていた。理由などない。不意にそう思った。少年は男の背中で大きく頷く。小さく笑っている声が後頭部に響いた。
 無言の信頼関係とは良いものだ。もし少年が敵ならば、後ろから男の首を切断することなどわけない。だが、彼がそうしないという自信があった。悪い奴ではない。職業柄、滅多に人を信用しない男であったが、それだけは確信できる気がした。
「どこへ行くんだ?」
 背中越しに尋ねる少年に向かって、「俺の家だ」ときっぱり返す。「良ければしばらくうちにいるか?」と続けた。少年が男の肩を掴んで乗り上げる。少年が男の頭に寄りかかったため、男の首はがっくりと垂れ下がった。
 男は急に移動した重心によろめく。「重い」という抗議は少年のはしゃいだ声にかき消された。
「いいのか?」
 男の頭上からきらきらとした笑顔を落とした。男が何とかその顔を見上げると、あまりの笑顔に言葉を失ってしまう。肯定以外の道はなかった。この笑顔を裏切ることはできない。
 男が「もちろん」と答えると、少年は男の首を両腕で絞めた。少年の額が男の後頭部に密接する。少年の笑い声が振動となって直接男に伝わった。何か呟いている。「家だ……」と繰り返しているようだった。
 よほど嬉しいのだろう、少年の力は強かった。うっかりすると息が止まりそうだ。少年の息がかかる首筋は熱かった。
 「苦しい」と言いつつも、男は無理に少年をふりほどこうとはしなかった。少し速度を上げて住宅地の裏の細道を行く。
 少年を背負う背中は暖かい。男は大きく息を吐いた。タバコの煙みたいに白くなって、夜空を上っていく。家の細い隙間から、星が一つ二つ、きらきらと輝いていた。


FIN.



 ジャック&K遭遇編。一応ジャンルはほのぼのですが、注意書きには「流血描写あり」……。どっちだっ!
 本当はこういう終わり方ではなく、神とかヒューとか出てくる予定だったのですが、長くなりそうなのでカット。当初の予定ではジャックを異世界に返すところまでのストーリーでした。さすがに長い、というかジャック帰っちゃったらジャックの話これ以上書けないじゃん、ということでKの家に居候するまでにしました。連載にした割にはしょぼい話(それは言ってはいけない)!



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