【Building-1】


 一条の光が闇をないだ。それは小さく、しかも一瞬だけの光であったが、少年の目はとらえていた。屈みながら身をひねる。分厚い靴底がコンクリートの床にこすれて甲高い音を立てた。
 小さな音が彼の耳元をかすめる。髪の毛にかすかな衝撃を覚えた。何かが真横を通過していったようだ。少しだけ焦げた臭いが漂う。少年の残像を貫いたそれは終着点を探して壁へとぶち当たった。コンクリートの壁が風船のようにはじけ、小さなクレーターを描いた。
 破片が床へと転がる。少年の足が破片を蹴飛ばした。はじかれた破片は回りながら対峙する男の元へと転がっていく。男は大股で破片を飛び越えた。そのまま少年へ向かって駆ける。まだ硝煙の上る銃を眼前に構えた。熱のこもった銃口は少年の額に向けられる。
 この時点まではまだ良い。しかしいざ引き金を引こうと思うと、すでに少年は残像となっている。先ほども弾は残像を打ち抜くのみであった。男の攻撃は無駄がなく、たいていの相手であれば反応する前に銃弾の餌食となる。今、圧倒されているのは、むしろ男の方であった。
 ここで攻撃すれば、自分の行動が一瞬止まることとなる。何とか引き金に添えた人差し指の力を抑え、床を蹴った。いったん少年と距離を置く。暗くて男からは少年の容姿は確認できないが、少年には闇の中の光景が手に取るように判っているのではないかという奇妙な恐怖に襲われた。そうとしか思えないくらいに的確な動きをする。未来が見えているのでは、と思うほどだ。本当に今対峙しているのは人間なのだろうか。くだらないと思いながらも、男はそう考えてしまう。
 少年は背中に手を回し、タンクの栓をひねった。口元につながったパイプの中を高圧のガスが駆け抜ける。音がしたのは一瞬。次の瞬間には、ガスは炎に変わって少年の口から放たれていた。
 炎の長さはおよそ二メートル。まさか遠距離の攻撃が来るとは思わず、男は一瞬炎に飲まれた。急激に光にさらされ、目が焼かれそうになる。とっさに目を閉じたが、まぶたが襲い来る炎の中でじりじりと痛んだ。
 男は身を床に伏して転がった。床にこすりつけられた全身からは炎は消えるが、痛みは激化する。服に守られていない顔面や腕は針山を服の内側に付けて着込んだかのような痛みに包まれる。炎の向こうに一瞬見えた少年の姿は、やはり奇妙だった。
 年の頃はまだ十代であろう。完全に成長しきっていない体格が闇の中に浮かび上がる。炎のように逆立った髪は銀色だった。顔つきはまるで判らない。目元は昆虫を思わせるようなゴーグルで覆われ、口には時代錯誤のガスマスクをつけていた。マスクの口の部分から炎は出ている。口の横には赤いパイプがあり、背中のボンベとつながっていた。
 今は戦時中じゃないんだぞと、男はわざと笑みを浮かべた。マスクだ。顔を覆う二つのマスクがやっかいだった。まずはそれを外すことから考えようと、気合いを入れて男は立ち上がる。
 少年が炎を止めると、辺りにはまた闇が戻った。その瞬間、男は走り出す。ドアが男の傍にあったのは幸いだった。少年の吐き出す炎を見た今となっては、うかつに側へは寄れない。致命傷にはならないが火傷の痛みは十分に動きを鈍らせる。
 いきなり背を見せた男に少年は一瞬だけ動きを止めた。すぐにどこからとなく刃物を取り出して、投げる。窓からわずかに入ってくる月光にきらめく刃物は、ナイフと言うにはあまりにも奇怪な形をしていた。
 刃物は男の背中へ緩やかな弧を描きながら飛来する。男は肩越しに振り向いて撃った。弾は綺麗に刃物を一本、横に弾く。弾かれた刃物は並んで飛んでいた刃物をさらに弾き飛ばした。
 第二陣の刃物が男の背に近づいていたが、その前に男はドアを開けた。自分が通れるだけの隙間を作ってそこに細身の体を滑り込ませる。鉄製のドアに刃物が突き刺さった。恐ろしい切れ味だ。男は冷たい物を背筋に感じたが、なぜか顔は笑っていた。
 ドアの向こうには階段が二つあった。上へ向かう階段と、下へ向かう階段。下からは死臭がする。男が先ほど「掃除」した人間たちが変わり果てた姿となって転がっているのだ。
 今別れを告げたばかりの部屋にいた人間も、一緒に掃除するはずだった。そこに先客がいなければ。砂糖に群がる蟻のようにうじゃうじゃしている雑魚をたたきのめして、上の階でのうのうとイスに背を預けている親玉をぶっ潰して……それで今回の仕事は完了するはずだった。今日の調子は良かった。いつになく掃除がはかどっていた。楽な仕事だと思いながらいざボスの部屋へと入り込んでみれば、これだ。
 そこに生き物はいなかった。ただ焼けこげた人の形をしている物が転がっているだけだった。何があった部屋なのかも判らないほど真っ黒だった。全てが焼かれていた。観葉植物は跡形もなく焼けて、鉢植えだけが部屋の隅に置かれていた。その他には机が置かれていたが、それ以外は何もなかった。
 突然少年が降ってきて、戦闘にもつれ込んだのが数分前の話だ。お互い正体も判らないまま、本能に従って命を削り合った。「こいつは敵だ、倒せ」。
 頭の中で不条理な成り行きをほんの少し恨んでから、男は真っ先に上に行く階段を選んだ。背後でけたたましい音が鳴り響く。少年がドアを突き破ろうとしているのだろう。さりげなく鍵をかけておいたから、簡単には開かない。音は階段の中で反響を繰り返し、男の耳を強く突き刺した。耳が痛い。
 踊り場を曲がってさらに上を目指す。窓は一つもなく、完全なる闇がうずくまっていた。手すりをつかむことで何とか自分が真っ直ぐ進んでいることを認識できる。電気を点けてから上れば良かったかと思うが、一層大きな音が、そんな余裕はないことを告げた。
 ドアが突き破られた。意外に早い。男は舌打ちをする。よほど激しく突き破ったのか、騒音はしばらく鳴りやまない。鉄のドアは勢いに任せて階段を数段上った。
 ドアを踏み少年は一気に階段を上がる。一歩で踊り場まで到達する。その視線は男の背を再びとらえていた。ちょうど最後のドアを開けるところだった。これ以上上に続く階段はなく、残されているドアは一つだけだった。
 男がドアをくぐった直後、少年も外へ飛び出した。冷たい外気が肌を包み込む。男の焼けた肌には、その冷たさが心地よく感じられた。
 ビルの構造を知らなかった少年は、一瞬ここが何の部屋だか判らなかった。ビルの一番上、屋上なのだが、そうとは気付かず間近に見える男に飛びかかっていく。男は当然避けたが、少年はつっこんだ勢いのまま壁を蹴ってさらに突進するつもりだった。思い描く壁が存在しないことを知って、初めてここが屋外だと気付いた。
 フェンスに少年の体がめり込む。フェンスをつかんで外に投げ出されるのを何とか防いだ少年の体は、隙だらけだった。男の銃が鳴る。音を極限まで抑えらた銃は空気が抜けるようなふぬけた音を出した。
 フェンスを支点に横へと飛んだ少年だが、今度は銃弾の方が早かった。直撃はまぬがれたものの顔の側面をえぐり取られる。マスクのベルトが切れ、どす黒い血が吹き出した。
 かすった衝撃で少年の頭は床に叩きつけられる。受け身を取って意識を失うことだけは避けた。だが男は次の弾を放っていた。少年は刃物を投げて弾を弾く。刀身に眼下のネオンに彩られた町並みが映し出された。
 少年は口元を抑えた。もう片方の手で床を何度も叩く。弾みでどこかへ飛んでいったガスマスクを探っていた。月明かりが届く屋上では、男にもその様子がうかがえた。少し視線を下に下ろすと、ガスマスクが男の足下に転がっているのが見えた。
 ……先は見えたな。少年のうろたえぶりを視界の端にとらえながら男は確信した。けして視線は少年から逸らさずに、ガスマスクを拾う。男の仕草に気付いた少年がはじけるように顔を上げた。興奮しているのが判る。血は耳の後ろ辺りからだらだらとこぼれていた。
 男は少年に照準を合わせた。狙うのは口。失敗すると嫌なので、確実にむき出しになっている部分を狙いたい。少年は口を押さえたまま何か呻いている。「返せ」とでも言いたいのだろう。立ち上がり、男に飛びかかって来るも、動きは完全に遅かった。
 すれ違い際に回し蹴りを少年の背中に落とす。少年の体はフェンスにへばりついた。衝撃で空気が大量に肺から逃げていく。少年はさらに強く口元を抑えて背中を丸めた。
 少年は瀕死の動物のように、動かず震えるばかりであった。脅える余裕さえない。生命の危機を警戒するので精一杯である。もはや男のことなど目にも入っていないようだった。出血のせいか、顔は青ざめていた。
 男は最後に一発だけ弾丸の残っている銃を構える。ゆっくりと少年の頭に照準を合わせた。少年はほとんど動かない。こんなに都合のいい生きた的はないな、と男は思った。
 引き金を引く。人の命を最終的に奪うのは人差し指だった。反動でかすかに腕が上がった。弾丸は少年に真っ直ぐ向かっていく。ゴーグルにめり込む。少年の体が弾んだ。



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