「タイトル未定」



 その零治の微笑みが勇也に向けられる。笑うと、虎琉に一層似ていた。
「だけど、悪い奴ではないんだろう?」
『だけど、悪い奴ではないだろ?』
 勇也は目を見開いた。重なったのだ。言葉も、面影も。
 いつしか、虎琉に愚痴をこぼしたことがあった。そう前の話ではない。やはり、施設の者と上手くいかず、どうにも苛立っていたときだ。
 施設の者は大体虎琉と同じ学校に通っている。勇也だけが公立高校だ。皆が通う私立高校には、空手部がなかったから。施設の者のことならある意味同じ学校の虎琉の方が知っているのかも知れない。
 その時からなるべくみんなのことをよく知って、理解しようとしてきた。しかし数ヶ月経った今でもやはりよく判らない。判らなくてイライラして、理解するどころか否定してしまう。
 これではいけない、と思う。だが勇也は判っていた。数ヶ月の間に、勇也は一つ判ったことがあった。
 みんな悪い奴ではないのだ。家族思いの良い奴なのだ。
 ただ判りにくい。単純で一直線な勇也には、どうにも伝わりにくかった。それがとてももどかしい。だけど、時折ふいに伝わってくることがある。「おかえり」とか「気を付けて」とか、些細な言葉の中にある優しさが。
 嫌いな訳じゃない。不器用だから、どう接して良いか判らないのだ。
「うん……そうやな」
 大きく間を空けて、勇也はうなずいた。空白の分だけ、思うものがあった。結局、「悪い奴ではない」という回答に行き着いた。
 ピアスも校則違反も勇也はやっぱり気にくわない。良い奴ではあるけれど、悪くないとも言い難い。「良い奴だ」とは余程のことがない限り言えないだろう。譲れないところもあるし、第一、素直に言えるほど、器用な奴でもなかった。
「まぁ、大した喧嘩じゃなければ謝ればいいだろ。悪い奴じゃないってお前が思っていれば充分大丈夫だ」
 零治はキッパリと言った。キッパリと言っているくせに、何かあいまいで、勇也は苦笑する。
「お前が思ってればいいって、あいまいな」
「仕方ないだろう」
 零治は上を向いて缶の中身を飲み干す。空になった缶を勇也に渡して、「捨ててくれ」と言う。勇也が受け取った缶はすっかり冷えていた。いっぱいになった空き缶入れに缶をねじこむ。
「他人のことが理解できるはずがない。まして俺は悠大とかいう奴に会ったことがないんだぞ? 決めつける方が失礼だ」
 零治は乾いた手のひらに息を吹き込んで、腕を組んだ。長い間室外にいたから耳が冷えて赤くなっていた。
「世界には自分一人じゃないんだ。空気がなければ、食物がなければ、水がなければ、人間の場合、群れを成す仲間がいなければ、生きていけない。他人を理解することは避けて通れない道だ。他のものを無視して生きることは、余程強いものでない限り、不可能だろう」
 勇也はうなずいた。何だか大きな話を持ってこられて、少し戸惑う。零治もその様子を察したか、ゆっくりとした口調で話す。
「だけど無理なんだよ。人間は自分さえ完全には理解できない。他人のことが理解できるわけもない。
 だから中途半端で良いんだ。何となく相手を判っていて、知らないことも沢山あるってことを、判っていれば。
 世の中はバランスを保ちながら何とかなり立っているもんだ。中途半端なものでも上手に使えば上手く生きられる。完全に理解しようだなんて頑張らなくて良い。それよりも上手い利用法を探した方が利口だな」
 さも、自分は上手く生きてますとでも言いたげな言葉だった。だけど零治だって、きっと上手い生き方などできていない。理解することよりも実現させることの方がはるかに難しいのだ。口で言うよりもはるかに難しいのだ。
 現に零治は苦笑していた。偉そうに吠える自分が滑稽だとでも言いたげに。言葉とは裏腹に、偉そうなことを言ってしまったことに後悔しているかも知れない。
 それでも瞳は自信に溢れていて、目があった瞬間、勇也は思わず首を縦に振った。説得力のある瞳だった。
 言葉に意味を持たせるのは、ある意味零治の義務だった。そうでなければ、零治の言葉に意味はなくなる。会話の時間は全て無駄だったことになる。わざわざ勇也を連れ回した意味もなくなる。
 零治は息を吐いた。深いため息だった。肺の中の空気を全部追い出して、冷たく澄んだ空気を吸い込む。冷えた鼻孔が痛かった。寒さのせいか、時間帯のせいか、まぶたが重い。
「で、俺の講義は理解できたかな、勇也君?」
「理解できませんでした」
「あっさり言うな」
「理解できなかったけど」
「うん」
「何か、どうでもいい気がしてきた。」
「それは良かった」
 零治はほおを緩ませる。勇也は自然と微笑んだ。多分今のが、零治の本当の、微妙だけれど、「笑顔」なのだと思ったからだ。本当かどうかは判らない。ただ勇也は、自分でそう思ったから、それだけで満足だった。
 何かどうでも良くなった。判らないことだらけでもどかしかった。だけど、意外と知っていることは沢山あった。知らないことが多すぎてつい見落としていたが、本当は十分理解できていたのかも知れない。
「さて、帰るか」
 零治が腰を上げる。手を組んで上に上げる。背筋を伸ばした。血液が一気に下に落ちた。一瞬脳貧血状態になる。身を捻って後ろを向いた。
「日暮園だっけ? 勇也の住んでる所」
「そうだけど」
「老人ホームみたいな名前だよな」
 勇也はがくりと頭を落とす。
「仕方ないやろ、児童養護施設は老人ホームもかねてる所が多いんやから」
 零治は肩をすくめて「それもそうか」と言う。少し口角をつり上げた。
 零治はポケットから携帯電話を取り出す。携帯電話さえも黒を基調とした色で、暗闇に落としたら容易には見つからないだろう。勇也は携帯電話を物珍しそうに見つめた。
 零治は片手をポケットに突っ込んで、左手でボタンを押す。寒さのせいか、指の動きは遅い。十桁の番号を押して、耳に当てる。アンテナは内蔵されているタイプだった。
 数回コール音が鳴って、相手が出る。
「もしもし、今からそちらのお子さんを届けに行くんで」
 相手は小さな声で短く尋ねる。
「そうです、勇也です」
 また小さな声で短く応え、相手の方から電話を切った。零治は携帯をしまった。
「何だったん? それ、携帯電話ゆう奴やろ?」
「電話したんだよ、日暮園に。これから帰るって」
「へぇ〜」
 勇也は感心したようにうなずく。縦に振っていた首が、途中で止まった。
「つか、何で電話番号まで知っとんのや。俺のファンか」
「まさか。俺の兄の友達が、日暮園にいるんだよ」
 何でもないことのように言って、さっさと行ってしまう。人を待たない奴だ。勇也はその背を恨みがましそうな目で見る。手足を軽く回して、後を追う。長いこと座っていると身体が固まってしまうような気がして、嫌だった。寒い日は特にそうだ。
 零治の隣に並んで、勇也は口を開く。
「……お前、最初っから全部事情知ってたんと違わん?」
 何となく思っていたことだった。たぶん零治は、最初から知っていることは多かった。勇也の存在を、噂でとはいえ知っていたし、勇也を知っている知人も側にいる。
 零治は後頭部を掻いて空を仰いだ。都会の夜空はあまり綺麗なものではない。すぐに視線を戻す。
「いや。ウソは言っていない」
「……さいですか」
 結局口で勝てるはずもないのでやめた。このお喋りな男には到底かないそうにもなかった。
 街灯の光がポツリポツリと道を照らす。街灯の下を通ると、薄い影ができ、二人の歩く速度に合わせて短くなっては、長くなった。
 その道を抜けると、しばらく街灯が消える。闇に目が慣れると、次第に闇に浮かぶ白い雲が見えるようになった。雲の合間からは秋の星座が瞬いている。もうじき冬の星座に変わるだろう。
 目映い都会のイルミネーションが周りに浮かぶ中、星空は弱々しく輝きを放っていた。

 そこそこ大きい駅ともなれば、必ずあるのが交番だ。あてもなく探すよりもまずはそこで聞いてみようかと立ち寄ってみた。勇也にはあまり土地勘がない。都会の似たような町並みがどうにも覚えられないようだ。寄り道をしない勇也はなおさら道を知らなかった。
 もしかしたら交番に立ち寄ったかも知れないという淡い期待を胸に、悠大は交番に入った。交番の中はストーブが付いているらしく暖かい。壁には当番表とハンガーが掛かっていて、ハンガーには上着が掛けられていた。
 思いもしなかった。交番で知人がお巡りさんにコーヒーを出してもらいながらくつろいでいるなどとは。
「あ、悠大、こんばんは!」
 屈託のない笑顔は、確かに学校で見慣れた顔だった。学年も違うし委員会も部活も違うが、悠大の知人は、彼と友人である者が多いのだ。
 少しはねた髪は真っ黒で、瞳も同じように真っ黒だ。純粋な黒髪は今時珍しいかも知れない。白いティーシャツの上にデニムのシャツを羽織っている。
 少し寒そうだが、年中健康的な彼には平気なのだろう。きっとシャツ一枚でも眉一つ動かさないに違いない。草壁虎琉。悠大の一つ下の後輩である彼は、色々な意味で伝説的な人物だった。
「お前こそ、こんな時間に何やってんだよ」
 微かに脱力感を覚えながら、悠大は一応訪ねた。この不自然な状況の中虎琉はきょとんと首を傾げる。
「ああ、そうだ、俺迷子なんだよ!」
「そんな重大なことを忘れるな」
 今更慌てた声を出す虎琉だが、それすらもタイミングが悪すぎて全然大変そうに聞こえない。それに、虎琉が迷子になるのはいつものことなのだ。虎琉伝説の一つ、一人で家にも帰れない高校生。毎日近所に住む幼馴染みが誰かしら登下校を共にするらしい。
 悠大は選択肢を激しく間違えたような気がした。とても面倒なものと出会ってしまったような気がする。どうにかして逃れようと考えたが、無理なことは判っていた。
 せめて話題を変えようと思って口を開く。
「どうしてくつろいでるんだよ。早く帰れよ」
「良いんだよ、夜勤と言っても暇だったから、引き留めたんだ」
 白髪の交じり始めた初老の男性が応える。警察官の服装をしている。この交番で、この時間帯働いている人だろう。あまり賑やかな街でもないし、そこまで問題が起こらないせいか、確かに暇そうにしていた。
「それに俺、いくら説明されても道が理解できなくて」
 虎琉が照れたように言う。お巡りさんが諦めたということは、相当説明しても無理だったのだろう。悠大は段々お巡りさんが哀れに思えてきた。
 虎琉伝説その二、小学生以下の理解力。どうして高校に入れたんだ、そもそもどうして義務教育を無事終えることができたんだと誰もが叫ぶ頭の悪さ。もちろん試験の順位はぶっちぎりで最下位である。
 これ以上関わっても無益だ。そう悟って、悠大は入口の方へ逃げる。立ち去る準備は万全にして、お巡りさんに勇也の特徴を話して、彼が来たかどうかを聞く。
「いや、虎琉君以外誰も来ていないよ」
 お巡りさんは申し訳なさそうに言った。悠大は礼を述べて頭を軽く下げる。お巡りさんは嬉しそうに笑った。
「君や虎琉君のように誠実な若者を見ると嬉しくなるよ」
 本当に嬉しそうにそう言って、自分の分のコーヒーを飲む。悠大は少し申し訳なく思った。建前で言った言葉に感心されても、それは本当の自分の姿ではないから。あいまいに笑って、とりあえずまた礼を述べた。
「虎琉、俺はこれから勇也を探しに行くんだけど、どうする? 一緒に行くか?」
「行く〜!」
 虎琉は元気良く手を挙げる。その言動を見ているとまるで子供のようだ。コーヒーを飲み干して席を立つ。腰のベルトに付いたチェーンが音を立てて揺れた。
「コーヒーおいしかったです。ごちそうさま」
「また遊びにおいで」
 交番に遊びに来るというのもどうかと思うが、虎琉は元気良く「はい」と応えた。
 不思議なものである。なぜか見ていて微笑ましくなるのだ。悠大は口元をゆるめた。
 時計を見て、その顔を引き締める。時間は刻々と過ぎてゆく。あまりのんびりしているわけにもいかなかった。明日も平日で、学校は普通にあるのだから。悠大は遅刻するなど今更だったが、勇也の場合は違うだろう。
 よくよく考えたら、ただ荷物が増えただけのような気がする。なぜかうきうきしている虎琉を見て、悠大はため息をついた。







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