「タイトル未定」



 がこん、と缶が自販機の中から落ちてくる。公園の遊歩道。自販機の横に置かれたベンチに勇也は腰掛けている。
 零治が自販機で飲み物を買っていた。もう一度缶が落ちる音がして、二つ買ったのだと判る。勇也は片方を渡された。熱い缶を受け取った。冷たい手に熱いと言うより痛いという感覚が走る。熱に感覚を慣らしていくと、すぐに心地よう温かさに変わった。緑色が基調のデザインだった。緑茶だ。
 自販機の中からもう一本缶を出して、零治は勇也の隣に腰掛けた。プラスチック製のベンチは冷たく外気に冷えていた。
「これ……」
「良いから飲め」
 よく判らない内におごられて勇也はしばらく缶を見つめていた。しかし買われてしまった物を飲まないのは失礼だと思って、数回振って缶を開ける。小さく空気が抜ける音がした。勇也は熱い缶に口を付け、一口お茶を飲んだ。喉を暖かい物が通っていくのが判る。背中が震えた。
「ありがと」
 小さな声で言った。吐く息が暖かくなっていた。
 夜中の公園はひっそりとしている。大きな公園で、広場から離れた遊歩道なので、夕方の犬の散歩ラッシュが過ぎると、道行く者はほとんど無かった。時々走り込みをする人もいたが、さすがに十一時を回るとそれもなくなった。
 誰もいないものだから照らす街灯も少ない。スポットライトのようにベンチを照らす街灯が真上にある他は、左右に小さく明かりが見える程度だった。
 自販機の光が道を照らす。自販機側にいる勇也の横顔が白く照らされる。零治目を細めてそれを見ていた。零治が買ったのは午後の紅茶のミルクティーだったが、開けずに横に置かれていた。
 奇妙な沈黙だった。ここは沈黙するべき場ではないと勇也は思ったが、なぜか二人とも黙っていた。少なくとも零治が何か言っても良いはずだった。連れてきたのは零治なのだから。
 零治は手を袖の中へ引っ込めて、両手で缶を持つ。上下に振った。缶が熱いのだろう。それからノブを上げようとするがなかなか上がらない。
「開けようか?」
 見かねて、勇也が口を開いた。零治は黙って缶を渡す。缶はすっかりぬるくなっていた。缶を開けて零治に返してやる。
 零治は袖から手を出して恐る恐る缶をにぎった。熱くないことを知ると缶を持って口を付ける。数回息を吹き込んでゆっくり缶を傾けた。湯気が出る。ちょっとだけ口を付けて缶を下ろした。
 その動作に勇也は何かを彷彿した。頭に浮かんだ動物を素直に声に出す。
「猫?」
「何がだ」
「ああ、いやぁ」
 そのまま初対面の人間に「猫みたい」というわけにもいかず、勇也は言葉詰まらせた。
「猫舌なんか?」
「まぁ、そうだな」
 何とか誤魔化して一息つく。何となく落ち着かなくて、缶に口を付けた。
 慌てていたせいか思っていたより多くお茶が口の中になだれ込んでくる。熱さに咽せた。何とかお茶を飲み込んだが舌が痛い。軽く火傷したようだ。
「猫舌なのか?」
 意地悪く零治が口角をつり上げた。勇也は顔をしかめる。
「うっさい」
 つぶやいてそっぽを向いた。膝に肘を置き、頬杖をつく。缶を持っていた手は熱く、冷えた頬に触れるとじんと染みた。
 それを見て零治はくつくつと笑う。
「まぁ、あんたはどちらかというと犬だな。
 飼い主はどうした? 喧嘩でもして犬小屋を飛び出してきたのか?」
 喧嘩、という言葉にギクリとする。一体どこまで見透かされているのだろうと疑問に思った。平常心を保って、言い返す。
「失礼なやっちゃ」
「おあいこだろう。そっちこそ人を猫扱いした」
 しっかりばれていたらしい。勇也は一層顔をしかめる。人が隠したいことをすでに知っていて、それが判らないフリをして、さらにそのことをばらすのは、たちが悪い。
「性格悪いって言われないか?」
「百人中二十人は俺を性悪だと言うね」
「やっぱ性格悪いんか」
「何を言う。残り八十人は俺を善人だと言うんだぞ」
「嘘や」
「お前こそ、百人中九十九人に阿呆だと言われないか?」
「そんなこと」
 正直ムッと来たが、言い返せなかった。確かに成績は悪い。理系分野はことのほかできない。成績表が帰ってきて笑うことができない。他人に見せれば、あまりのできに笑われる。
 なぜか周りにはマルチ人間が多かった。施設内には悠大にしろ沙羅にしろ常にトップクラスの成績を維持する者がごろごろいる。
 実のところ沙羅は占いで山をかけて勉強しているだけなのだが、それも実力ということにしておこう。マークシート形式のテストで彼女に六角形の鉛筆を握らせてはいけないというお触れ書きまであるくらいだ。
 勇也は空手のスポーツ特待生として推薦で高校に入っている。だから勉強でそこまで引け目を感じることはないのだが、どうしても、やりきれない何かがあった。
「べ、勉強だけやないし」
 勇也の声は、無意識の内に震えていた。しょせん自分は何をやってもダメなような気がしてきた。急に自信がなくなる。
 自分の主張してきたものが、何だか戯言のような気がしてきた。負け犬の遠吠えのように滑稽に思えてきた。人が通りかかるたびに吠えかかる犬のようだ。あまりにうるさければ声帯を切除されて声を出せなくされるに違いない。小屋の中で鎖に巻かれて喚くだけの負け犬は、哀れだった。
 何も言えなくなった。否定できるものは何もないような気がした。勇也は落ち込んだ犬のように頭を垂れた。
「どうしたんだよ勇也」
 零治は楽しそうに勇也の頭を撫でた。犬を撫でるように髪の毛をわしゃわしゃにする。寝癖よりも酷く髪の毛がはねた。勇也は恨めしそうに零治を横目に見て、後頭部を手グシで梳く。
「大和高校空手道部期待のエース、赤桐勇也君が落ち込んでいたら、後輩たちに示しがつかないだろう?」
 驚きに勇也の上半身が浮いた。
「知ってたんか?」
「有名人だろう。俺も一応地元の高校に通っているからな。顔までは知らなかったから、名前聞いてから判った」
「なら気付いた時点で何か言えや」
「確信できなかったんだよ。人違いだったら間抜けなことこの上ない。どこかの阿呆とは違って俺は慎重なんだ」
「悪かったな」
「悪くはない」
「何が?」
 予想を裏切る答えに、勇也は思わず聞き返した。零治はその反応を待っていましたと言わんばかりに口角をつり上げる。
「悪くはない。世の中、考えても無駄なことは沢山ある。考えることよりも、判断力が問われる場合も多い。無論、両方の力があるに越したことはないが」
 勇也は呆けた顔で零治を見ていた。数秒の沈黙を飲み込んだ後、口を開く。
「キザ男やな〜」
「人がせっかく慰めてやって言うことがそれか」
 缶の中身を飲んだ。勇也も少なくなったお茶を飲む。すっかり冷えて冷たくなっていた。零治の方は中身がたくさん残っているので、そこまで冷えていないだろう。
 勇也はお茶を飲み干して缶をひねり潰した。アルミ缶はあっさりとひしゃげる。雄ネジのようによじれた空き缶を、隣にある空き缶入れに捨てる。
「そこで遠くからシュートするのが男だろう」
「何でやねん。物で遊んだらあかん」
「堅いね」
 零治は自分の持つ缶を握る。両手で力を込めるが、スチール缶はなかなかへこむ気配を見せない。数秒で諦めてまた一口飲む。
「友達と」
 空いた手を組んで額につける。ちょうど目が隠れて見えなくなった。勇也は息を吐いた。零治は缶に口を付けたまま「うん」と応える。
「喧嘩した」
「殴り合い?」
「いんや、口喧嘩」
「何だ、ロマンのない」
 本気で殴り合いなどしたら退学処分だ。どこまで本気でどこまで冗談なのかいまいち掴めない零治の口調に、勇也は突っ込む気も失せた。
「それで?」
 零治が静かに聞き返す。零治はうつむいていて、勇也にはその表情が見えなかった。ちらりと見えたその顔は、無表情だった。
「そいつ、耳に、ピアスしとって。学生なのにそんなもんしてええのかーって思って、言った。そうしたら、『俺の価値はピアスで決まるのか』って言われた」
 零治はため息をつく。
「何でそんな些細なことが気になるかな、勇也は。そんなに旧日本的な思想をお持ちなら、いっそ坊主頭にしてしまえばいいのに」
「そうやな」
「いや、冗談だから」
 半ば本気ともとれる勇也の口調に、零治は慌てて訂正した。勇也の顔立ちなら坊主も似合わなくはないだろうが、勇也を尊敬する後輩達からクレームが来そうで怖い。
 本人はまるで自覚がないようだが、他校の生徒の人望も厚く、零治の学校にも勇也の活躍を知るものはいた。特に空手部では勇也に憧れて空手の道に進む者もあると聞く。だったら最初から同じ高校に通えば良いと思うのだが、おかしな現象だ。
 零治は足を組む。足の重なった部分が暖かくなった。
 勇也は零治からの言葉を待って沈黙していた。零治の方を見てはいなかったが、零治には何となく判った。こいつは話を促されない限り話し始めはしないだろうと。いっそこのまま放っておくとどうなるのか見てみたい気もした。
 黒い上着の袖を数センチ捲り、腕時計を見る。移動に時間が結構かかったようで、すでに十二時を回っていた。これ以上待つのも時間の無駄だと判断し、「それで?」と言う。それがスイッチであったかのように、直後に勇也が口を開いた。
「世界中の人みんながお前と同じだと思うな、って言われた」
 零治は顔をしかめる。冷たい視線に、勇也はギクリとする。
「俺の苦手なタイプの人間だな」
「誰が」
「お前の友達」
 勇也は首を傾げる。会ったこともないのにどうして苦手だと判るのかが判らなかった。
「俺と同じタイプの人間なんだよ、そいつ」
「そうか? 悠大は零治と違うてちゃらんぽらんやと思うけど。あ、でも頭はええで。すごく」
「悠大って誰だよ」
「誰だよって……ああ、スマン。例の、友達」
「なるほど」
 勇也はつい知り合いと話している気分になっていた。零治が虎琉と瓜二つのせいもある。喋っている最中、本当自然に、虎琉が隣にいると錯覚した。零治がよく喋るのもそうだ。あまりにも気の知れた友人のように話してくるものだから、ついつられて同じ調子で喋ってしまうのだ。
「キザな言い回しに世の中を悟ったようなコメント。それだけでも何となく性格は読めてくる。確かに口喧嘩じゃ勇也は敵いそうにもないな」
 勇也は何となく不公平であるように思えた。勇也ばかりが口を滑らせている気がする。相手の手の内は全然見えない。零治は、緩やかな笑みさえ浮かべていた。
 色んな顔ができる奴だと思った。恐らくそのほとんどが意図的に作られた表情なのだろう。誰もが仮面を持って生きているが、この男はきっと数え切れないほどの仮面を持っている。そのどれもが本心ではないのだろう。勇也は、零治の本性に、永遠に辿り着けないような気がした。
 零治がどんな思いで笑みをたたえているのか、勇也には判らない。むしろ、感情などどこにもないような気がした。







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