「夜桜」
「あんた、最近調子悪いんじゃないの?」 朝食を食べている時に、母がぽつりと言ってくる。俺は「別に」と返してもくもくとご飯を口に運んだ。 今日は朝練がないので、のんびりしている。夜中に起きている俺にとっては、ありがたかった。これで朝練があると、とても辛い。体育なんかあると、その日俺は過労死するんじゃないかと思うほどだ。 確かに最近、体がだるい感じがした。なぜだかは知らない。多分寝不足のせいだと結論づけている。 母は珍しくため息をついた。寛容な人なので、滅多にため息をつくことはないのだが。 「あんたここのところ、夜に徘徊してない?」 一瞬ぎくりとするが、「別に」とまたつぶやいて、何でもないふりをする。 「近所の方がね、夜中にあんたを見たって言うのよ」 いつか。いつかそういうことになるとは思った。内心、俺はひどく焦っていた。口の中がカラカラで冷や汗が出る。 それでも、何とかしなければと、本能的にごまかそうとする。 「違う人だ。 夜中なのに区別なんか付かないだろ? ……ごちそうさま!」 心配する母をよそに、俺は逃げるように席を立った。頭の中は混乱しっぱなしだった。 どうしよう。 ばれたらもう、サクラの木の下へは行けない。彼女に会えない。 どうしてそんなことを思うんだろう? そんな疑問までわき上がってくる。でも、自分にだって分からない。 自分の気持ちが分からない。俺は何をしているんだろう。 どうでも良い事じゃないか。 ただ、彼女と話をするのが好きなんだ。 確かなことは、ただそれだけだった。 あの日から早一週間が過ぎた。いつもは何となくサクラの下へ出向いていったが、今日はそうする気になれなかった。 毎晩夜中に目が覚めるせいか、眠い。 睡魔に任せて、今日は眠っておこう。俺はそう思い、再び目を閉じる。 サクラの木の下にいる霊に会いに行くと、必ずと言っていいほど盛大なイタズラで出迎えてくれるのだ。あれは眠たい日には結構こたえる。 それに、あんまり毎晩抜け出すと、さすがに怪しまれる。昨夜など、母が夜中まで起きていてびっくりした。いつもは帰りの遅い父を待たずに眠るのに。 ばれている。 隠し事をしている立場から、俺はすごく罪悪感を感じていた。この部屋から出られなかった。 なのに、窓の方から、こつこつという音を聞いた。 そのせいで俺の眠気は吹っ飛んでしまった。 気のせいだとは思うが、俺は心霊現象を体験してしまった人間である。そう無視できない。 とりあえず窓を開けて何もないことを確認すると、窓を閉めた。 さて眠ろうかとベッドの方を見ると……そこには一面のサクラ吹雪。 「は?」 突拍子もない光景に、俺は唖然とした。 ……風、吹いてなかったよな? 窓の外を見て確認する。だけど部屋の中はサクラ吹雪。 俺は気にせず寝ることに決めた。 「ちょ、ちょっと!」 上からあわてた女の声が聞こえる。 「驚かないの?」 「昨日はサクラの津波だった。それよりはまし。寝るのに支障はないし」 「なるほど」 女は納得した声を出す。納得するなよ。 どうせ、幽霊のイタズラだと思ったんだ。 彼女は、なぜだかサクラの花に執着している。彼女が見せる幻想は、必ずサクラの花なのだ。ここ数日彼女と会って、俺は知っていた。 まだそこら辺の話は聞いていないから、理由は知らない。以前その話に触れて、気まずくなってから、俺はその話はタブーなんだと思った。彼女も話したがらなかった。 俺は目を閉じて布団に潜ったまま、女を手で追い払う仕草をする。 「今日は眠いから他をあたって」 「いるわけないじゃない、他にかまってくれる人なんて」 「俺が変な奴に聞こえるじゃないか」 「普通じゃないわよ」 それもそうだ。幽霊と会話ができること自体普通じゃない。 だけどそれを肯定してやる気はなくて、「そんなことない」と主張した。 「それにしても、サクラの木から動けるんだ? 地縛霊の類かと思ってたんだけど」 俺は寝返りを打って、窓際の女に尋ねる。この先、毎晩僕が足を運ばなくても、自分の部屋に出てこられたんじゃ、身が持たない。 どんな答えをするのかと、頭だけ布団から出した。俺と目が合うと、彼女は首を振る。 「そうよ、地縛霊。だからそんなに遠くまで離れられないし、ここにいるのも本体とは違う、いわば思念のような物。断片的な物を飛ばしているに過ぎないの。 この状態は長くは続かないし、力も使うんだ」 だから早く来てよ、と彼女は呻く。 何でそんなことまでしなくちゃならないのさ。俺も呻く。 俺は特別な力があるわけじゃない。幽霊だって、見えるのは彼女だけなんだ。霊感だってない。 確かに、彼女が嬉しそうに話す姿を見ているのは、楽しい。だけど夜中に来るのだけはやめて欲しかった(昼間に幽霊と会話してたら、俺は変質者扱いだろうけど)。 とにかく、眠い。その意志が一番強かった。 俺は禁忌に触れてしまった。 「そんなにこの世がヒマなんだったら、成仏すればいいじゃないか」 彼女は見る間に顔を赤らめて、怒りをあらわにした。怒りのイメージが赤なのだろう。体全体が赤い。 俺はびっくりして、口の中で悲鳴を上げた。 「成仏しろって? 冗談じゃないわよ! あんた死ぬの怖いでしょ? 死後の世界に何があるかなんて知らないでしょ? 私たちだって同じよ! 成仏した後の世界に、何があるか何てわかんないじゃない! そこには何もないかも知れない。本当の死が待っているかも知れない。 成仏しろだなんて、私たちにもう一度死ねと言っているようなものだわ!」 イメージが強烈に伝わってくる。恐怖が渦巻いていて、それを消すために怒りが渦巻いているんだ。 彼女は死ぬのが怖くて、俺に八つ当たりしている。 彼女に恐ろしい言葉を吐いたのは……自分。 「ごめん」 強烈な感情がダイレクトに伝わってきて、俺は彼女を怒ることができなかった。 そうだよな、実体がなくて、そのはかなさに対する恐怖は、人間の想像を絶する物だろう。俺だって「死ね」だなんて言われたら嫌だよ。しかも本心から。 成仏して欲しいだなんてうそだ。本当はもっと側にいて欲しい。それをさせない傷害を越えるのが面倒で、つい心にもないことを言ってしまっただけ。 ……少し、彼女の色が落ち着いた。俺の感情を読みとってくれたのかも知れない。 「私も……少し言い過ぎた。今日は帰るね」 彼女がつぶやく。 力無く、覇気のない言葉が、少し怖かった。消えてなくなりそうで。 俺は身を起こして彼女を見る。彼女は悲しげに笑って、小さく唇を動かした。 「時間がないのよ」 彼女はそう言って、姿を消した。 ……時間がない? 意味が分からなくて、俺は彼女を呼び止めようとした。 でも俺は彼女の名前すら知らないことに気づいて……制止しようと動いた手が、空しく宙に止まる。 サクラ吹雪は消え、彼女の気配はない。 追いかけようかと思い、ベッドを降りようとすると、母の声が聞こえた。 「物音が聞こえたけど、何?」 俺はあわてて言いつくろう。 「何でもない!」 今出ていったら、完全に母に見つかるだろう。 俺はしばらく悩んだが、その日はそのまま寝た。結局一睡もできなかった。 俺は、今日が小テストだということを忘れていた。 見事にバッテンばかりの小テストが帰ってきても、俺は特に反応を示さずに、ぼーっとしていた。 周りでは自分の点数の良さ、あるいは悪さをひけらかすクラスメイトでうるさい。時々俺の点数をのぞき込んできては、何か反応を残してまたおのおのの友人との会話に戻っていく。 ……どうせ頭悪いよ、俺は。 ぽつりと口ぱくだけでつぶやいたが、どうにも怒りが込み上がってくることはなかった。 何というか、だるい。昨日一睡もしなかったせいか。完全徹夜なんて初めてだった。睡眠時間が足りなさすぎて、かえって眠気もない。 先生が「席に着け!」と怒鳴り、号令がかけられても、立ち上がる気になれなくて、俺は結局「起立・礼」の指示に従わなかった。 号令と同時に昼休みに入り、とたんに教室は騒がしくなる。ランチタイムに突入した教室は、席を移動する音でうるさかった。 「夏樹、しおれてんな〜」 机に伏せっていると、うっすらと開けた目に黒色が飛び込んできた。しばらくぼーっとして、ようやく自分が名前を呼ばれたことに気づく。そうだ、笹原夏樹は俺の名前だ。 ちらりと上を見ると、ニカッと笑っている浩二の顔があった。 「テストの点でも悪かったのか?」 極力気に障らないような口調で話しかけてくるのは、浩二の配慮だろう。浩二は見た目に似合って、頭が良いからテストの点に心配することはないだろう。 「テストは惨敗だったよ」 俺は机に張り付いたまま言う。自分の体温でぬくもった机の感触が、眠気を誘った。 浩二は眉をひそめる。 「テストじゃないのか?」 言わんとしていることが分かって、俺はあいまいにうなずいた。 浩二は特に聞いてこなかった。それが一番だと思ったらしい。代わりに俺の前の席にどっかりと座って、俺の机の上で弁当を広げ始める。席の主には許可なんて取ってない。 浩二の弁当箱のふたが開くと、おいしそうな匂いがこぼれる。俺は自分の腹が鳴る音を聞いた。 とりあえずコンビニ弁当を鞄の中から引きずり出して、食べることにした。食べなきゃこの原因不明のけだるさも治らないだろう。 浩二の今日のご飯はエビフライだった。一匹食べさせてもらった。旨かった。 エビフライの感想だけをぽつりと漏らしただけで、それ以外は特に浩二と話を交わさなかった。それで昼休みは終わってしまった。 放課後、真っ先に家に帰ろうとする俺の腕をひっつかみ、浩二は神妙な顔で尋ねた。 「お前、最近おかしいよ」 浩二は母と同じようなことを言う。 そんなことはない、と、俺は返した。 「あの幽霊のせいじゃないのか」 彼は厳しく言った。 俺はむかっとした。何の根拠があるのか。 彼女は幽霊でも、普通の幽霊とは違う。怨恨ですがりついている霊とは、違うのだ。もっときれいな物を持っている。 そうでなきゃ、あんなきれいな瞳ではきはきと話をできるはずがない。 浩二は腕を放さなかった。神妙な顔つきを崩さず、なおもきっぱりと言う。 「あの幽霊のせいだ」 いよいよ腹が立って、俺は叫んだ。 「お前に何が分かる!」 浩二の手がゆるんだ。 その隙に俺は駆け出す。教室を飛び出て、まだ生徒のまばらな廊下を駆け抜けた。 反射的に教室を飛び出してきた浩二の顔は、呆然としていた。 俺が奴を怒鳴ったのは初めてだった。 浩二は悪くない。分かっている。 でも、彼女だって悪くないんだ。 俺は、家路を急いだ。 |