「夜桜」
俺は呆然と立ちつくした。家の前で、人が喚き合っている。あのサクラの木の下で。 何があったのだろう。フェンス越しに見ていてもらちがあかないので、校門から入ろうと思った。 しかし校門に回っても、大人が中学生を追い出しているだけだった。今あそこに行っても、入れてもらえないだろう。しばらく校門前でうろうろして、結局家の前まで戻った。 「このサクラは、伯母が植えたものなんです」 しわがれた男の声が聞こえた。とうに定年の年を越え、その頭には白髪ばかりが乗っている。髪の毛が多い分まだ良いのかも知れない。 このサクラ、と言って男がかばっているのは、いつも女の幽霊がいるあの場所だ。 あのサクラを植えたのは、あのじいさんの伯母だって? 初めて聞いた事実に、俺は眉をひそめた。 とにかく、話だけでも聞きたい。その一心で叫んだ。 「あの、何があったんですか!」 しかし、喧噪の中には届かない。しばらく叫んで、ようやく人が寄ってきた。 「危ないから離れていてください。これから工事があるんです」 「何のですか?」 「あの木を切るんです」 さらりと言った、おそらく工事現場のおっさんの言葉に、俺は青ざめた。 何だって? あのサクラを切る? 「何で!」 焦りとも怒りともつかない、とにかく不安が渦巻いて、俺は叫んだ。 工事現場のおっさんは困った顔をして答える。 「変な位置に生えてるから、邪魔だって。花も咲かないし」 それだけの理由で。俺にはそう思えた。 何てこった。 怒りがわき上がった。 無意識のうちにだ、俺は鞄を捨て、フェンスをよじ登っていた。平均身長より小さくて身軽な体は、すぐにフェンスの一番上に到達する。制止の声も聞かずに飛び降りた。 喚いているじいさんの側に駆け寄って、チェーンソーを構えた男達の前に立ちふさがる。 チェーンソーなんかで切られたら、痛いだろう! よく分からないことにまで怒りを覚えた。 「絶対に……絶対にこの木は切らせない!」 俺は、のどが張り裂けるほど叫んだ。 その日は、工事は見送りとなった。どうやって説得したのかは覚えていない。気づけば、親が側にいて、めちゃくちゃ怒られた。関係者の人に頭を下げる母の後ろ姿を見て、ちくりと胸が痛む。 「どうして……君は私をかばったんだ」 聞き取りにくい声で、じいさんが口を開く。 すんなり回答が出た。 「俺、知ってるんです。あなたのおばさんのこと」 じいさんは少し驚いた顔をしたが、真剣に話を聞いてくれた。 幽霊である、おそらくこの老人の伯母に会ったこと、話をしたこと、このサクラの木の下に、いつも彼女はいたこと。 じいさんはうんうんうなずいているだけだった。 あの木は、彼女が植えた物だと、老人は言った。昔この中学校に通っていた弟と植えたらしい。数十年も前のことだ。 このサクラは、彼女の遺品となった。サクラを植えた直後、弟の目の前で、事故で死んだから。 それから、彼女の弟は大事にサクラを育てた。しかし。 育たなかった。 土が悪いのか、植え方が駄目だったのか。とにかく、枯れていくばかりだった。 俺は彼女がここにいた理由を理解した。 このサクラを生かしていたのだ。このサクラは、彼女のエネルギーによって、何とかここまで育ったのだ。 だけど花が咲かなかったんだ。そこまでは無理だったんだ……。 彼女は一度。弟にサクラの花を見せてやりたかったに違いない。今は、弟の息子がこの年だということは、もう弟はいないようだけど。 ずっとずっと育ててきたサクラの花を、見てみたかったんだろう。 「サクラの花は咲かなかった。学校側も困ってね。生徒が気味悪がるんだ。だから、このサクラを切ろうとした。 私は必死で止めたよ。それで、何とか今年まで延ばしてもらえたんだ。 今年、サクラが咲かなかったら、工事を決行すると」 もうすぐサクラは満開だ。もう無理だ。もう手遅れなんだ。 でも。 「まだ今日がある」 「え?」 「まだ今日があります」 俺はきっぱりと言った。 どんなに駄目でも。もうすでに、このサクラが生きていることは非常識なんだ。なら。 もっと無理をやってやれよ。 「今日中にサクラを咲かせます」 「サクラを、咲かせよう」 俺は彼女に宣言した。夜中。と言っても、もう夜明けに近い。俺は家を抜けてきた。明日は土曜なので学校はない。工事が一日ずれたのは、それで、工事がやりやすかったせいもある。 さすがに騒ぎを起こした直後だ、両親は止めたが、説得して出てきた。数時間説得して、やっと出てきた。 こんなに熱心な俺を見るのは初めてだと言われた。そうかも知れない。 それだけ覚悟はある。 「無理よ」 「無理じゃない」 俺はきっぱりという。理屈好きの彼女は、納得できないようだった。 俺は理屈じみた物は苦手だ。そういうのは、他に得意な奴がやればいい。俺はどちらかというと感情論で動くタイプだ。 たとえ効率が悪くても。 たとえ無様でも。 たとえ無理でも。 俺は信じる。 「無理じゃない! サクラの花、見たかったんだろ? ずっとあんたが育ててきたんだろ? なら、見てやろう? 俺だって見てみたい。あんたが大切に育ててきたんだ。 絶対きれいなサクラに決まっている」 奇跡を起こしたかった。奇跡の花を咲かせたかった。夢物語でも、諦めたくないことがある。 俺は。 俺は、胸の奥に熱い感情が生まれるのを感じていた。何でもできる気がする。何でもやれる気がする。 たとえ、それが幻想でも、俺はこの気持ちを信じたかった。 彼女と出会って生まれた、この気持ちを。 俺は。たぶん。 「あんたが好きなんだ」 しばらく、沈黙が生まれた。 俺は心臓がばくばくいっていた。すごい緊張する。でも、えもいわれぬ達成感にも浸っていた。 俺は、彼女が好きなんだ。そのことに気が付いたのは、ついさっき。 出会ってたった数週間だけど、すごく好きになってしまっていた。否定できないくらいに。 軽い気持ちなんかじゃない。愛に時間はいらないとよく言う。理屈は嫌いだ。好きなもんは好きなんだ。 彼女は面食らったような顔をしていた。そりゃそうだ、死んで数十年、俺みたいな小僧に告白されるとはつゆとも思わなかっただろう。 俺は彼女から目を離さず、ずっと見つめていた。 「冗談?」 告白うけて第一声がそれかよ。 彼女らしいと言えば彼女らしい。 「本気」 俺はきっぱり言い切った。もう、迷いはない。 彼女は顔をピンク色に染めて、それはきれいな桜色だった。とたんに、辺りは桜色に染まった。 上を見上げれば、サクラの花は満開だった。 彼女の顔は、サクラのように赤らんでいて。満開のサクラのように、キレイだった。 「うそ……」 「愛の力さ!」 俺は喜々として彼女を抱きしめようとして……このとき、俺は彼女が幽霊だと言うことを忘れていた。見事にサクラの幹に激突する。 「痛〜〜〜〜!」 「ぶっ!」 ひどいことに、彼女は笑い出した。そりゃもう、大笑いだ。 俺も、なんだか笑える気分になってきて。 他人には彼女の姿が見えないことも忘れて、俺は笑い出していた。 夜明けが来る前に。 彼女は言った。 「お別れよ」 「……え?」 その言葉の意味が分からなくて、俺は呆けた声を出す。 だって、今まで、散々笑っていて。もしかして、もうすぐ夜が明けるせいかも知れないと、自分に言い聞かせる。 なのに心を読んだかのように、追い打ちをかけられた。 「永遠に」 涙がこぼれた。 なぜ、とは言えなかった。彼女は幽霊なのだ。この世の者ではない。 いつかこういう日が来ると。 考えなかったわけではない。 「あのね」 彼女はうつむいていた。 「私、幸せだった。あなたと会ってから。 脅かしに大げさに驚いてくれて……おもしろくて。 私のこと、初めて好きだと言ってくれた。 だからね。 私は今行かなくちゃいけないの」 心の中が急に冷たくなった。涙が凍り付くかと思うほど。心臓が凍るかと思った。 彼女は自分の中に、変な信念を持っている。頑固というか、何というか。 くだらなく思えるかも知れないけれど、彼女にとっては一番大切な。 幽霊である彼女にとっては、特に大事なものだろう。唯一自分を証明できるもの。 いわば、最後の砦だから。 「私、あなたのこと好きだった。愛とかじゃなくてね、もっと根本的なもの。 でもそれが……愛になって、恋になって、芽を出すのは時間の問題だと思う」 俺は、それが告白の返事だと気づいて、赤らんだ。つまり彼女は俺を好きになってくれて。でも。 離れなきゃならない。 俺は黙って聞くばかりだった。呼び止めることはできなかった。きっと彼女は困るから。 今、彼女が決断したことは、彼女の一生、いや、彼女に永遠に関わっていくことなのだと。 彼女は顔を上げる。 ぼろぼろと涙をこぼしていた。せっかくの美人が台無しだった。 泣いて泣いて。どうにか止めようとぬぐってもこぼれてくる。幽霊なのに、涙は流れないはずなのに。 彼女の悲しみがあふれているんだ。 「私っ……」 自分を説得するかのように、強く言う。 「今行かないと、永遠にこの世界から離れられないから……っ」 最後に、涙をぬぐって。 決意を決めたようだった。 「今死なないで、私はいつ死ねばいいのよ……」 瞬間。 彼女の体は輝きだした。まばゆいばかりに。 俺は彼女に手を伸ばす。無我夢中で手を伸ばした。 届きそうだった。手は、光の中に触れた。 温かいものが指先に触れ……それは腕を伝い、肩に入って胴を巡り、足にわたり、頭を満たしていった。 全身が淡い光に包まれて。 それだけだった。 彼女は完全に消え去り。 彼女の反対側、東の空からは、朝日が昇っていた。 工事は取りやめになった。代わりに、一晩で花の咲いたサクラは、奇跡の花として一躍有名になった。 俺の名前も危うく外に漏れそうになったけど、必死で止めた。誇らしいことでも何でもないんだから。 あのサクラはふられザクラだ。俺はあのサクラの主に恋して、あのサクラの下でふられた。はかない恋は散ったのだ。 でも、俺の中ではまだサクラが満開だった。散ることはなかった。 彼女の笑顔を忘れない限り。 彼女の言葉を覚えている限り。 俺の心にサクラは咲き続ける。 「何? その木」 尋ねられて、俺は振り返った。 部屋に遊びに来た浩二が、後ろにいた。彼は俺の机の上を指さしている。 俺の机の上には、サクラの挿し木が置いてあった。 そのサクラには花が咲いていて。とてもきれいなサクラだった。 まるで、誰かの笑顔のような。 「別に」 最近俺は、これが口癖になってきている。ごまかしの言葉。 浩二は納得がいかない、と言った顔で、でもそれ以上聞かなかった。ただし答えはきっちし分かっているので、浩二の顔は笑っていた。 「何だよ、笑うなよ」 「いーや、べ・つ・に!」 「なんだとぉっ!」 俺は相変わらず、普通の生活をしている。別に、華やかさのかけらもない、普通の生活だ。 ただ、彼女はいないけれど。 俺は、サクラの挿し木をちらりと見て、ほほえんだ。 胸が温かくなった気がした。 彼女は今も生きている。この場所で。 FIN. ――――――――――――――――――――――――― 四月に部活で書いた小説です。 さすがに季節はずれだ(現在一月)。 〆切に間に合わなくてものすごい勢いで書き上げた気がします。 私にしては珍しく、恋愛ものでした……。 |