「陸の孤島」



「さっきは本当にありがとうございました」
 結局原田は礼を言うことにした。雪夜は別に何をしたという気もないので適当な返事をした。
 診察を終え、会計も終えた後、雪夜は原田と共にファミリーレストランに入っていた。昼食も兼ねて、と原田に誘われたのである。
「ちょっと個人的に頼みたいことがあるんです」
 そう言って、原田は雪夜を引き留めた。
 そのとき同時に軽く自己紹介も聞いた。原田は現在大学生で、ここからは少し離れる大学の医学部に通っているらしい。大学病院へはボランティアとして来ているそうだ。何でも、九ヶ月前交通事故に遭い、長期入院したとか。看護士の顔も覚えてしまい、そのまま何となくボランティアをするようになったと笑いながら言った。
 雪夜も名前くらいは名乗った。原田は雪夜を無難に「青海君」と呼んだ。
 昼食時なので店内は混み合っている。病院の近くにあるせいもあるだろう。おそらく、客の大半が看護士なり大学生なり面会者なり、大学病院関係の人間だ。
 原田はボランティアのエプロンははずしていた。元々午前中で切り上げる予定だったらしい。大学の講義が午後から入っているそうだ。
 軽い食事を頼んで、それを待っているところだった。とりあえず頼んでから話を始めようという、原田の方の提案である。
 手元にあるのは、セルフサービスでとってきたホットコーヒーと水。水は雪夜の分だ。コーヒーは原田の頼んだランチセットで付いてきたもので、お変わりは自由である。白い湯気の立つコーヒーは黒く、ストレートだ。
 熱いコーヒーに少しだけ縁に口を付けた後カップを置く。一息置いて原田は口を開いた。
「おおざっぱに言いますと、さっきの女の子のことです」
 雪夜も水を一口飲んで、頷く。予想していた内容だ。出会ったばかりで原田とは接点がない。それなのにものを頼むならば、千昌のことくらいしかないだろう。
「話し始める前に、一つ聞きたいことがあります」
 話を聞く気だった雪夜は、少し拍子抜けした。
「回答次第では、僕は何も話さないでおくつもりです」
 ますます様子がおかしかった。最初から並々ならぬ展開だとは思っていた。よほどのことがなければ初対面の人間を食事に誘うわけがない。一昔前のナンパではあるまいし。
 しかしどこまでも不思議な状況だ。雪夜は怪訝そうな瞳を原田に向けた。
 とにかく、その最初の質問を聞かないことには始まらない。雪夜は「良いですよ」と答える。
 原田は息を吐いてほんの少し頬をゆるめた。悪くはない反応に安心したようだった。反面、瞳は真剣だった。まっすぐぶつかってくる視線で、雪夜はそれを感じた。
「青海君は、UT学園に通っていますね?」
 意外な言葉に雪夜は口を開けた。まさにその通りなのである。
 UT学園はここからは離れるのだが、結構規模の大きな私立校である。雪夜はそこの高等部の二年生だが、中学や大学も付いている。地域では有名な学校ではあるが原田の通う大学とはあまり関係がないはずであった。
 どうして知っているのか判らなかった。それを聞く前に、原田は「出身校なんですよ」と言った。
「そうでなくとも、失礼ですが……君の髪の色を見れば多少想像が付きます」
 雪夜は顔をしかめた。眉間にしわが寄る。原田が困ったように眉を下げる。申し訳なく思っているようだ。雪夜は指で眉間のしわを伸ばした。
 雪夜の髪の色は生まれつきだ。生まれつき藍色をしている。なぜこんな髪の色に生まれたかは判らない。しかしたまにいるのだ。そしてそういう人間は、得てして特殊な能力を持っていることが多い。
 雪夜の場合は意識的に刃を作り出せる。場所、大きさ、形問わず、想像した通りに制御できる。
 特異な能力を持った者が集まる場所、それがUT学園だ。もちろん普通の人間も通ってはいる。その中でも、家庭の事情があったり、人格的に問題がある人間が多かった。
 一見普通に見えるが原田も何かしらの苦境を経てUT学園に入ったのだろう。外見で判断される苦痛は十分に知り得ているはずだ。雪夜を外見で呼び止めたと言っても、原田を責めるのは筋違いのように思えた。
 今度は何を頼まれるのか不安になった。UT学園は特殊な学校である。それを前提に置いて進められる話が、常識に沿っているとはとうてい思えない。特殊でなければ対応できない特殊な理由があるはずだった。
 雪夜は水を一口飲む。腕を組んで、まっすぐ原田を見る。原田は意を決したように頷いた。
「先程の子は、光石千昌ちゃんといいます。半年ほど前、初めてボランティアにいった時知り合った子です。
 千昌ちゃんは普通の病気ではありません」
 ここまでは驚くべきことではない。しかしそれは、次の言葉で覆された。
「彼女の頭の中には魔物が巣くっています。魔物の、いわゆる卵が」
 雪夜は息を飲んだ。知らずに顔がこわばる。
 およそ非現実的な響きを持つ「魔物」だが、雪夜たちにとってはそうではない。魔物と遭遇する危険が最も高い地域である「A-AREA」に、UT学園は存在するのだ。「A-AREA」には普通住宅地はないので、雪夜が住んでいるのはそれに準ずる「B-AREA」だ。それでも魔物との抗争は日常茶飯事だった。
 問題なのは、魔物の食料が生物であり、また増殖も生物を介する場合が多いことだった。
 魔物は完全に地球の循環システムから外れている。死んでも死骸は残らない。土に還って命を育むことはない。地球上の生命にとって、魔物はエネルギー源にはなり得ない。エネルギーに変換することは出来ないのだ。
 魔物は地球にとって害悪だった。むしばむばかりの存在。さらに爆発的に増えている。
 しかしこの付近は危険区域から外れる地域のはずだった。そこに来てなお魔物の存在を聞くとは思ってもみなかった。
「一体どういうことですか?」
 ここにきて雪夜は初めて尋ねる。原田は長い指を絡めて手を組んだ。
「一年ほど前、光石家は『B-AREA』に住んでいました。両親が仕事で遅くなった日に、魔物の襲撃を受けたそうです。当時、新聞の片隅に事件のことが載っていたそうですが……。魔物は帰宅した両親によって駆除され、幸い死者は出さずに終わりました」
「しかし、卵を産み付けられていた、と」
 雪夜の言葉に、原田は頷いた。
 雪夜は、誰も千昌に近づこうとしなかった理由をようやく理解した。近づきたくても近づけなかったのだ。千昌は半ば魔物であると言っても過言ではなかった。
 魔物の卵はいつ孵化するか判らない。たいてい数年かかるのだが、魔物の生態系は未知数だ。そもそも「卵」と表現しているのも便宜上にすぎない。卵から孵化した魔物は媒体にした生命体を食らい、急激に成長する。その周りの生命体をさらに食べて、あっと言う間に成体になる。
 魔物は他の生物よりもずっと優れていた。ほとんどの生物は魔物に遭遇したら屈するしかない。魔物の対策は、近づかないこと。それしかないのだ。
 気づくと、ウエイトレスが机の横に立っていた。怪訝そうな瞳を向けている。会話を聞いてしまったのだろう。魔物という単語に馴染みのない地域の住人には、頭のおかしい会話に聞こえたに違いない。
 雪夜が顔を上げるとウエイトレスはあからさまに後ずさった。
「ランチセットをご注文のお客様」
 うわずった声で何とかそれを言ったのは賞賛に値するだろう。原田がそっと手を挙げて、ウエイトレスは放るようにサラダの入った皿を机に置く。ガラスが乱暴な音を立てる。ウエイトレスは逃げるように去っていった。
 慣れっこなのか、原田は気にせずフォークを脇の箱から選ぶ。フォークが新鮮なレタスに突き刺さり、音を鳴らした。一口だけ口の中に運んで噛む。雪夜も勧められて、丁寧に断った。
 原田は野菜を飲みこんだ。
「ここは『C-AREA』なので魔物への対策はほとんどありません。魔物に寄生された千昌ちゃんは、隔離されるしかないんです。それでも薬や手術で魔物の孵化を長引かせてはいます」
 そんな技術があるとは、初耳だった。おそらく「A-AREA」から流れてくる技術だろう。「A-AREA」自体には病院はほとんどない。戦場のまっただ中に病院を作ったのでは、病院自体が全く安全でなくなるからだ。
「でも問題なのは、千昌ちゃん自身は、純粋な人間であることです。魔物に寄生されているからって意識が魔物に浸食されているわけではありません。彼女はあくまで彼女自身なのです。
 だけど他人にとって彼女は半ば『魔物』そのものです。僕はUT学園を出ているとはいえ、しょせんは普通の人間にすぎません。傍にいてもいろいろ限界があります。何より、千昌ちゃん自身が遠慮してしまうんです。そんな必要はないのに、自分の傍にいては駄目だと、しきりに言うんです」
 気持ちは分からなくはない。雪夜も特殊な能力を持っているので何となく通ずるところがある。
 能力者やあるいは魔物に寄生された者――異端者にとって、ボーダーラインは「人を殺さないこと」である。
 魔物は生物にとって害悪だ。その生物に害を与えたとたんに、異端者は魔物と同様の存在になってしまう。異端者は、人間が人間を殺す以上に、人を殺すことを恐れているのだ。あるいは、傷つけることでさえ。
 だから異端者は他人から突き放されようとも、文句一つ言いはしない。むしろ人を遠ざけようとする。自分が人間であるためには、そうすることが一番なのだ。
 UT学園が存在するのは、異端者が少しでも孤独でなくなる空間を提供するためだ。そういった特殊な場所にでも行かない限り、能力者に安息の場はない。
「僕では、力不足なんです」
 強く拳を握り、原田は雪夜をまっすぐ見つめた。真剣な面もちだった。原田は他人ながらも、精一杯千昌のことを考えていた。同時に、とても悲しそうだった。
 原田は雪夜の表情を伺った。雪夜は顔が整っている分、無表情なのは妙に機械的に見えた。これまでの話を聞いてどう思っているのかまるで判らない。興味はなさそうだがまるで話を聞いてないということはなさそうだった。
 原田が大きく深呼吸をして、数秒の間が空いた。このすきに注文品を置きに行くかどうかウエイトレスがもめていた。
 ウエイトレスよりも先に、原田が意を決した。
「週末だけで良いから、青海君。千昌ちゃんの傍にいてやってもらえないでしょうか」
「お断りします」
 雪夜はきっぱりと言う。原田の目が点になった。
「どうして?」
 一応理由を尋ねてみる。
「面倒くさそうなので」
 きっぱりとした言葉が返ってきた。
 原田は次ぐべき言葉がなかった。困惑の中に沈んでいく。全く予想していなかった、あまりにもきっぱりとした返答に思考回路が完全に切断されていた。
 自然と沈黙が訪れる。それをどう見たのか、ウエイトレスが一斉に料理を運んできた。「器が熱くなっているのでお気を付け下さい」というウエイトレスの台詞も、どこか遠いもののように聞こえていた。
 最後に伝票が透明なプラスチックの筒の中に入れられる。両者ともあまり頼んでいないので、合わせても千五百円いかなかった。
 雪夜は箱からスプーンを出して、運ばれてきたキノコ雑炊にスプーンを刺す。スプーンを持ち上げると、下からわっと白い湯気が出た。何度か息を吹きかけて冷まし、口の中に運ぶ。
 雪夜はぴくりとも動かない原田を見た。放心状態だ。雪夜にしてみれば、最初から深入りするつもりはなかったのだ。ただ何となく気になったから声をかけてしまった。それだけだ。
「食べないんですか?」
 聞くと、原田はうめき声にも似た相槌をしただけだった。料理には手も付けない。
 少し悪いことをしただろうか。もう少しソフトに断れば良かったかも知れない。
 頭の片隅でそんなことを思うが、結局口にも顔にも出さない雪夜である。黙々と食べ続ける。
 原田は、しばらく放心状態から抜け出しそうにはなかった。



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