「陸の孤島」



 空が端の方までよく見えた。今日の空は少し曇っていた。空を縁取る家並みの上は、雨雲ではなさそうだが、白い雲が覆っていた。
 雪夜は屋上で寝ころんでいた。屋上に来る日は、晴れでもなく、雨でもなく、それなりに曇っている日の方が都合が良い。何も遮るものがない屋上では、真っ白な太陽の光はまぶしすぎた。それに、暑い。
 じっとりと湿った風が流れた。天気予報ではあさって辺りから雨が降るそうだ。週末にはまた晴れ間が見えるらしい。
 前ボタンの全部開いたブレザーの裾が風に揺れる。どこかのクラスが調理実習をやっているのだろうか。風に乗って中華料理のにおいが運ばれてくる。後輩である彼女が今日調理実習だと言っていたのを思い出した。
 昼休み前のせいか小腹がすいてきた。今頃は四限目の授業で体育をやっているだろう。校庭から笛の音が聞こえるが、それが雪夜のクラスかも知れない。
 雪夜はまだ先日の風邪が治っていなかった。風邪の諸症状は引いたが微熱が残る。朝部活に出たのだが、それがたたって午前中はずっと体が重かった。大事をとって体育は休んだ。
 保健室で寝ていれば良かったのだが、あいにく保険医は出張中だった。それに、屋上にいればある人物に会えると思ったのだ。頻繁に屋上で授業をさぼっている(それを知っている雪夜も同じくさぼっているのだが)不真面目な同居人。今日はまだ来ていないようだった。
 雪夜は腕時計を見る。シンプルな銀を基調とした時計で、黄銅色で縁取られている。昼休みまでまだ時間があった。昼休みになれば、その同居人は生徒会の仕事があるはずだった。不真面目な生徒なのに、驚いたことに歴代でもトップクラスの権威を持つ生徒会長だ。確かに人を引きつけるカリスマ性と、人をまとめるリーダーシップを兼ね備える人物だとは思う。
 今日は来ないのだろうか。諦めかけたところで、屋上に誰かが上がってきた。足音が響く。
 ドアの向こうに人影が現れた。ドアノブが回され、錆びた鉄扉が重苦しく開く。実は屋上には鍵がかかっていなかったりする。真面目な一般生徒はそれを知らないのだが、不真面目な生徒たちは、入学早々めざとくそれを発見していた。
 人一人がやっと通れそうなくらいにドアが開く。身をかがめて緑色の頭が入ってきた。鴨居よりも背が高いために、どうしても多少頭を下げなければ通れない。
 身長の割に細身で、スタイルはかなり良い。同じく顔もかなり整っているので、町を歩けば人の目を引くことは間違いなかった。おまけに頭も良い。スポーツは人並みくらいだが。
 嫌になるほど条件をそろえたこの男こそ、雪夜が待っていた人物だった。緑山悠大。UT学園三年生になる。
 悠大は雪夜を見るなり口を開く。
「珍しいじゃん。最近あまりサボりはなかったのに」
「今体育」
「なるほど」
 素っ気なく返ってきた答えに、悠大はうんうんと頷く。人付き合いが好きではない雪夜が基本的に無口なのは分かり切っている。もっと話せと強要すればますます話さなくなるばかりだ。それに慣れれば端的な分意外とわかりやすかったりするのだ。
 雪夜と悠大が同じ施設に入ってもう六年ほどになる。児童養護施設だ。二人には親がいない。
 UT学園には比較的両親がいなかったり、片親のいない者が多かった。同じ児童養護施設から通う者は他にも何人かいる。年も近く、同じ学校に通う雪夜と悠大は、学年が違うながらも親友だった(時々一緒にサボっているので、悪友とでも言うべきか)。
「聞きたいことがあるんだけど」
 雪夜は身を起こして悠大を見上げる。代わりに悠大は雪夜の横に腰を下ろした。
「何?」
 雪夜が尋ねてくるのは珍しく、悠大はどこかうきうきしていた。嫌味なまでにさわやかな笑みを浮かべる。雪夜は何となく聞きたくなくなったが、ここで渋っても仕方がない。
「原田シンヤって知ってる?」
「ああ、原田さんか」
 答えは思いの外すぐに返ってきた。
「俺が一年の時に生徒会にいたよ。何で知ってんの?」
「一昨日病院で会った」
 風邪を引いて雪夜が病院に行ったことは、悠大も知っている。
「大学病院か。確かに原田先輩、医学系に進んだって言ってたからな。そこの大学に進んだんだ。それともボランティア?」
 雪夜の語らない部分を悠大が補う。雪夜は「後者」と呟いて、悠大の後半の補足が正しいことを肯定した。
「ボランティアを頼まれた」
「引き受けたのか?」
 驚きの混じった声を上げる。ほんの少し期待の色を含んでいた。
「まさか」
 雪夜がきっぱり言うと、悠大は肩を落とす。苦笑して「それもそうだよな」と言った。雪夜の性格は十分に把握している。自分のことは自分でやる。自分にも、そして他人に対しても、そう言う奴だ。
「光石千昌って子と時々面会してやってほしいって言われたけど、ボランティアだし、平日は部活で行けないし」
 雪夜は剣道部だった。淡泊な雪夜が唯一情熱を燃やせるスポーツだ。幼い頃の病気を完治させた後、体力作りのつもりで始めた。思いの外熱中した。才能も発揮した。今では全国大会にも顔を出すほどの実力である。
 断った理由は、ほとんど部活があるからだった。雪夜にとって剣道は一番だ。何よりも優先すべきものだった。剣道に並ぶものは何も……今つき合っている彼女以外には何もない。天秤にかけるようなことをするくらいなら、すっぱり断った方が良いと思ったのだ。
 悠大は制服のポケットから白い箱を取り出した。タバコだ。むろん成人などしていないが、悠大もいろいろなストレスを抱えていた。精神安定剤のようなものだった。
 箱を押して、一本取り出そうとする。数秒それを見つめて、引っ込めた。また制服のポケットにしまう。
 雪夜といる時には絶対に吸わない。雪夜の体には猛毒だった。煙を吸いこんだだけで咳が出る。雪夜とは血はつながっていないものの、大切な家族だった。
 代わりにガムを違うポケットから出して、一粒出す。銀色の包装を解いて緑色の粒を口の中に放り込んだ。噛むとミントのにおいが口に広がった。
「それで、その子がどうした」
 雪夜がいつになく喋るので、何か言いたいのだということは判った。しかし悠大はすぐに、それを聞いたことを後悔する。
「代わりに面会行ってくれ」
「何でそうなる!」
 あっさりと口を出た言葉に、悠大は思わず叫んでいた。校庭にいた生徒が屋上を見る。遠すぎて認識できないだろうが、目があった気がして、悠大は慌てて身を引っ込めた。
 声のトーンを落とす。雪夜の耳に直接話すように顔を近づけた。
「そんなに気になるんだったら、自分で行けばいいじゃないか」
「だから部活が」
「週末だけでも良いだろう」
 当たり前だが悠大は乗り気ではないようだった。自分が乗り気でない話を他人に押しつけたところで乗り気になれないのは当然だ。
 雪夜は口ごもった。本当は週末にも先約があるのだが、それを口にするのはどうしても気恥ずかしい。口を横に引っ張ってそっぽを向く。
 悠大はめざとく何かを察知した。とたんににっこりと笑う。女子だったら間違いなくときめくだろう。しかし雪夜はこれがどんな笑みなのかを知っていた。裏側に黒い面を忍ばせた笑みだ。これに乗せられてぺらぺら喋るとろくなことにならない。いつの間にか悠大の思う通りに事がまとまってしまうのだ。
 雪夜はそれを見ないようにした。反対に悠大は至極機嫌が良さそうに笑っている。完全におもしろがっているのだ。おそらく悠大の予測はほとんど当たっているだろうから。
「あれ〜、もしかして週末に何か予定があるのかな〜?」
 白々しく聞いてくる。完全にバレバレのようだった。週末に、雪夜がどんな先約を入れているか。
 口でこの男に勝てるわけがない。対応する術は沈黙しかないのだ。しかし今回は自分から話を振った手前、無視することも出来ない。
 雪夜はお手上げと言わんばかりに両手を小さく上げた。深くため息をつく。
「ゆりと……出かける約束があるんだよ」
 俗に言う「でーと」というやつである。
 ゆり、というのは雪夜の彼女の名前だ。一つ年下で同じ学校に通っている。料理上手で、雪夜の弁当はほとんどゆりの手作りだった。ゆりは雪夜の、UT学園に入学する前からの知り合いらしく、入学当初からラブラブカップルとして有名である。毎年文化祭で行われる「ベストカップル賞」は、今年雪夜とゆりのカップルで確定だろうと、今から噂されている。
 昼休みに入れば、ゆりは雪夜を捜しに来ることだろう。調理実習で作った料理を持って。
 悠大はしてやったりと言わんばかりににっこりと笑った。その後、昼休みが来るまで、雪夜は悠大にさんざんからかわれたことは言うまでもない。
 二度とこいつに頼み事なんてするもんか。
 雪屋は心に固く誓っていた。



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