「陸の孤島」



 春と梅雨の間にある、微妙な季節だった。
 少し水気を含んだ風が吹く。梅雨が近かいが、空は晴天だった。グラデーションを描く青空は真上で一番濃い群青色になる。ちらほらと浮かぶ雲は真っ白だ。西側には雲もない。
 視界の端には真っ白な建物があった。どれだけ上を向いても、完全に空が見えることはない。
 病院の中庭にいるのだから仕方がない。中庭の北側には九階建ての病棟が建っている。他方には囲むようにして木が植えられていた。
 西側には別の白い建物が見えた。木々を裂くようにして続く道の先に立っている、大きな建物。大学だ。
 大学と付属病院なので両者はとても近くにある。実習生やボランティアをする学生が、時々病棟の中にいるのを、雪夜は見たことがあった。
 雪夜は中庭のベンチに座っていた。病棟に平行して置かれている。雪夜の背後には下水道があって、ツツジが一直線に並ぶ花壇があって、そして病棟がある。
 本を読んでいた。題名はよく判らない。カバーがしてあるので見るのも面倒くさい。家から適当に持ってきた、暇つぶし用の本だった。外国の推理小説だ。
 短く咳をする。ほんの少し痰がからんだ。風邪で、微熱が少し長引いたので念のために病院に来ていた。
 昔からそこまで体が丈夫な方ではなかった。幼い頃は心臓に病気も患っていた。一応そちらの方は完治した、と言われたのだが、最近どうにも調子が優れない。そのことについても少し心配だった。
 ページをめくるスピードは速い。推理小説は大して好きでもなかった。内容は半ば頭をすり抜けている。診察結果が出るまで何となく読んでいるつもりだったから最後まで読む気もない。しかしこの分だと、診察結果が出る前に読み終わってしまうかも知れない。残りのページはずいぶん薄かった。
 もっと小規模の病院に来れば良かったと後悔する。退屈で仕方がない。ただの風邪なのにいらぬ時間を使ってしまった。あまり考えずにバスですぐ行けそうな所を選択したのがそもそもの間違いだった。
 ふと、桃色のカーデガンを羽織った女性が近寄ってきた。白髪だらけで、還暦はもうとっくに迎えているだろうか。顔にはしわだらけだがとても優しげだった。笑って人生を送ってきたのだろう。今も微笑みを浮かべていて、雪夜を見下ろしていた。
「隣、よろしいですか?」
 聞かれて、雪夜はほんの少し顔を上げる。短く応えて少し端に寄った。女性は雪夜とは反対側の端に腰を下ろす。
 また視線を本に戻す。目の前の道を車いすが横切った。まだノリのきいた白衣を着た看護士がそれを押している。道は車いすを配慮して凹凸がなく坂も緩やかだった。
 中庭の中央には大きな花壇がある。花の名前を知らない雪夜には何が咲いているかは判らなかった。青や桃色、黄色など、色鮮やかな花が植わっている。ミツバチが花の中に潜り込んで、花粉をいっぱい付けて次の花へ飛んでいった。
 女性は何をするでもなく、そういった光景にじっと目をやっていた。雪夜は機械的に本のページをめくる。大きな影ができた。
「おばあちゃん」
 顔を上げる前に声がした。小さな女の子の声だ。子供特有の舌足らずな発音だった。
「千昌ちゃん、こんにちは」
「こんにちは」
「お外に出て大丈夫なの?」
「うん」
 どうやら女の子の方が入院患者らしい。女性の方は面会だろうか。そう言えば女の子の声ははしゃいでいる割に弱々しい。
 相変わらず影はどいてくれなかった。女の子の影かと思ったのだが、それよりももっと大きな人物の影だった。仕方がないので顔を上げると、そこには長身の男が立っていた。
 茶色よりも薄い髪は天然のようで、髪を染めている者特有のぱさつきはなかった。癖が少なく、全体的に長い髪は、男の割にサラサラしていた。長い前髪を真ん中で分けている。瞳もライトブラウンだ。顔立ちもどことなく日本人離れしている。長身といい、純粋な日本人ではないのだろう。
 薄い青色のエプロンを付けていた。その胸元にはプレートがあり、写真と名前、その下に小さく役職が書いてあった。原田シンヤ。それが彼の名前だった。
 何度か見かけたことがある、ボランティアの格好だった。年齢的には大学生か。
 原田は女性と女の子の方を見ている。女の子の付き添いなのだろうか。この分だと女の子が女性と話し終えるまでここを動いてくれそうにはない。雪夜はため息をついた。
「すみません、そこにいられると本が読めないんです」
 声をかけると、原田はおもしろいくらいに飛び退いた。
「ああ、ごめんなさい、気づきませんでした」
 長身の体を折ってわびる。妙に小さく見えておかしかった。若いのにボランティアをしているくらいだ、少なくとも悪い人間ではなさそうだ。思わず雪夜は「別に良いですよ」と返していた。
 原田は照れたように笑って一メートルほど横にずれる。また一度頭を下げて、女の子の方に視線を戻した。
 女の子は入院患者が一様に着ている、パジャマのような服を着ていた。白を基調としていて、淡い桃色をしていた。長期入院らしい。真っ白な肌をしていて、全体的にほっそりとしている。まだ十歳くらいのせいか骨も細く、転べば折れてしまうのではないかという印象を受ける。
 悪いのは脳関係なのだろうか。暖かい季節だというのに帽子をすっぽりとかぶっていて、その下に髪の毛はなかった。うっすらと灰色に残る髪で、そられたものだということが判る。
 大学病院にはいろいろな患者がいる。雪夜のように風邪でやってくる者、事故の後遺症を持つ外来患者に、死の床にいる重症患者。互いに干渉し合う気はないし、同室の患者でさえ、互いの病名は知らないだろう。
 それでも見ていて少し病名を想像してしまう。そんな自分が何か嫌だった。奥歯を強く噛んで、雪夜は自分の思考を止めた。
 気づけば小説のページをめくるのを忘れていた。雪夜はしおりも挟まずに本を閉じる。どうせ続きを読むことはないだろう。何となくその場に居づらくて、腰を上げた。
 青年が一瞬雪夜に視線を向けた。うっかり目が合ってしまう。青年はにこりと笑って「お大事に」と言った。
 言われると思っていなかったので少しだけ戸惑った。あまり他人から干渉されるのが好きではない雪夜だったが、嫌な気はしなかった。軽く会釈をして病棟の方へ向かった。どちらにしろそろそろ呼ばれてもおかしくない頃合いだ。とりあえず病棟の中のホールで待とうと思った。
「オウミ、セツヤ様。一番カウンターまでお越し下さい」
 アナウンスが聞こえる。中庭に設置されているスピーカーから流れる音だった。それはちょうど、雪夜を呼ぶアナウンスだった。
「お兄ちゃんの名前だ」
 女の子が声を上げる。雪夜は驚いて女の子の方に顔を向ける。
「違うわよ、だってお兄ちゃんは、光石準哉でしょう」
 女性がなだめる。呆れの色はけして表に出さずに、努めて穏やかに言った。
「でもお兄ちゃんはセツヤだよ」
 女の子はお兄ちゃんに会いたいと言って騒ぎ出した。白い頬がほのかに赤く。興奮しているのは明らかだった。
 原田は困ったように首を傾げる。膝に手を当てて身を屈めた。女の子の目線に合わせる。
「千昌ちゃん、準哉君は今学校だよ。でも学校が終わったらきっと面会に来てくれる。だからもう少し待とうね」
 女の子は首を横に振った。大きな瞳からは涙がボロボロこぼれていた。
 雪夜はどう対応して良いか判らなかった。何かものすごく悪いことをしてしまったような気になる。別に関係のあることじゃない。ただ女の子の兄と同じ名前だっただけだ。雪夜が好きで選んだ名前でもない。無視してしまっても良かったのだ。
 だけど原田は必死で女の子をなだめていた。
「大丈夫、落ち着いて」
 しきりに言いながら頭を撫でたり背中を優しく叩いたりしている。あまり興奮すると良くない病気なのだろう。
 女の子は頭を押さえていた。「頭が痛い」と訴えては、さらに泣き出した。
 いつの間にか、周りからは会話が消えていた。視線が女の子に集中する。誰もが戸惑った表情で遠巻きに見ている。あるいは視線もやらずに通り過ぎる。よくあることなのだろう。患者たちの眉間にはしわが寄っていた。
 不意に自分の幼い頃を彷彿させた。雪夜も幼少時に長期入院していた時期があった。安静第一だから、という理由で個室だった。出歩くこともほとんどなかった。外に行きたい、と看護士に漏らしたことがあった。その時の看護士の顔がちょうど今のギャラリーと同じだった。
 幼い子供は自分の病気をよく理解していない。説明されたって理解できない。その分、余計に不安だったり、逆に無茶をしてしまったりするのだ。それが治療する側としてはわずらわしいらしい。思い通りに行かない患者に眉をひそめる。
 雪夜は方向転換した。女の子の隣で膝を折る。雪夜は小柄なのでそんなに身を屈める必要はない。近くで見ると、女の子は思った以上に小さく見えた。
「青海雪夜は俺だよ。君のお兄さんじゃない」
 女の子は顔を上げた。おえつを漏らしながらも、峠は越したようだ。涙を袖口で拭いて目を開く。少し茶色がかった黒い瞳が、雪夜を見つめた。
「お姉さんも、セツヤなの?」
 至極不思議そうに声を上げた。雪夜は苦笑する。
「俺は男だよ」
 女の子は、なおのこと不思議そうに雪夜を見つめた。
 華奢な体つきに少しだけ癖の付いたつやのある髪。整った顔立ちは中性的で、二重まぶたの瞳は大きい。今は私服だし、黙っていれば確かに少女のようにも見える。雪夜も「セツヤ」ではなく「ユキヨ」と読まれてしまったりして少々紛らわしい。
 雪夜は努めて笑顔を作る。それにつられて、女の子もようやく泣きやんだ。雪夜は普段多少(いや、かなり)目つきが悪いが、笑っている様はまるで天使のようである。夜空のような藍色に紫色の瞳は、幻想的だった。
 しかし、雪夜の本当の心境に気づいていた原田の方は顔を引きつらせた。
 握られた拳。どれだけの力が込められているかは……ぐしゃぐしゃになった小説を見れば、想像に難くない。
 まずは「ありがとう」と言うべきか「ごめんなさい」と言うべきか。原田は真剣に悩んでいた。



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