アルルの放課後
0.「白き闇の訪れ」





むせ返るほど緑の濃い、森の最奥の地。
木が視界の全てを覆い尽くすそこは、まさに樹海という言葉が相応しい。
普通の人間ならばまず、繰り返し生える木々に惑わされ、方向感覚を削がれてしまうだろう。
実際に、森を作る老樹達は意志を持つかのように、磁界を狂わせている。
狂った磁界の中には、生き物は近寄らず、植物だけが世界を支配していた。

しかし、背丈の高い雑草をバキバキとへし折りながら、少年は進む。
全てを見通す千里眼でもあるのかの如く、確信を持って歩いている。

癖のない、青銀髪の少し長めの髪が、汗で少年の顔にへばりついた。
彼はその白く細い手で、神経質に髪をかきあげる。
年の頃は14くらいであろうか、見目は随分と若い。
一見しておよそ樹海に相応しくないような、端正な顔を持つ少年だ。

少年は疲弊していた。
ぎこちなく動く手が、体力の限界を告げている。
噴き出す汗が、体力がさらに奪われていることを知らせる。
精神的にも、どこか苛立っているようであった。

少年は、後ろを振り向く。
そこには、少年に手を繋がれた少女が、発作を起こしたかのように苦しみながらも、着いてくる。
少年はまた前を向き、念入りにくさをかき分けるようにして、ゆっくりと進むようになった。

少女は、少年と同じくらいの背格好である。
着ている服も、今は傷だらけだが、似た民族衣装だ。
決定的に違うのは、頭に巻かれた鮮やかな色のバンダナと、長い黒髪。
それと、疲れの度合いだろうか。
少年が未だ少女の手を引き進むのに対し、少女には意志の光すらも薄い。
疲弊した体は精神まで支配し、意志の力を削いでいた。

彼らはひたすらに進んだ。
正確には、進んでいるのは少年だけで、少女は引きずられている形になる。

不意に、少年の足が停止した。
驚いた少女は止まりきれずに、少年の背中にへばりつく。
少年は少女を引っ張って体側まで連れてきて、一息に抱え上げた。
「きゃ」
いきなり足場を失った少女は驚きの声を発する。
疲れていて、覇気はなかった。

「この辺りに来れば、もう追っ手は来るまい」
歩きながら、少年は呟く。

しばらくすると、二人は森が浅くなる地域まで来た。
草は、もう二人を傷つけるほどに牙をむかない。
土を避けるための、柔らかいカーペットの様だった。
少年は比較的木の少ない場所に少女を下ろし、彼もその正面に腰を下ろす。

一呼吸、慎重に行うと、青銀色の瞳を少女に向けた。
「よく、聞け」
諭すように言う。
少女が小さく頷く。

「主は、人間になりたいか?」

今度は大きく頷く。
勢いでバンダナがずれて、中から白い物が見えた。
巨大な、長く白い耳。
兎のような耳をしていた。
それは、少女がけして人間ではないことを示す。
少女は嫌悪するように、バンダナを荒っぽく戻した。

「ならば、方法を授けよう」
少年は淡々と続ける。
二人の表情は、今や疲れの色よりも真剣みを帯びた色の方が濃い。
二人にとっては、それこそ、彼ら自身の世界に大きく影響を及ぼす決断なのだ。
例え、それは世界から見れば、ほんの小さな事であっても。

彼らにとっては、これが最後の決断になるかも知れなかった。

少女は、こくりと息を飲む。
反して、少年は出来るだけ残酷に、事を告げた。
「百兎の血を消すために、人間の力を取り込めばいい。
人間の力で百兎の血を薄め、お主に流れる人間の血を勝らせるのだ」
理屈は納得できるが、不吉な単語に、少女は曖昧に頷いた。
人間の力を取り込む。
まるで、"摂取する"という言葉に聞こえた。

果たして、少女の不安は、現実の物となった。
「人間の力を百人分、食らうのだ」

少女は、首を横に振って泣きわめきたくなった。
食らうという言葉が何を示しているのか、判らないわけではなかった。
判っていたからこそ、突きつけられた現実の意味が直に流れ込んでくる。
背負うには重すぎる。
まだ子供である、少女にとってはなおさらだ。
自らの、世界全体にとってはさほど重要ではない願望のために、秤に掛けてはならない。

それでも少女に選択肢はなかった。
既に道を誤りすぎた。
しかし、戻るなら今が最後のチャンスであろう。
引き返しても、一つの道しか用意されていないだろうが、それでも他人の力を奪うよりはずっとましだ。

それでも少女は、決定づけられた選択肢を選んだ。
斬首の瞬間、振り下ろされる刀のように、少女は頷いた。



そして少女は、まず、少年を食らったという。


  ***


その人物ははっと顔を上げた。
光り輝く水晶が、彼の輪郭を浮かび上がらせる。
下唇をかみしめ、口元は苦々しく歪められていた。
目から上はフードですっぽりと覆われ、表情は見えない。
しかし苦渋に満ちているのはよく判った。

水晶には白い染みのような物が映っていた。
濃い緑色が敷き詰められる中、それは不自然なほどに白かった。
白はやがて緑を浸食し始める。
ゆっくりと、確実に。

白い染みが動いたと思ったところで、水晶から光が消えた。
辺りはいったん闇の中に落ちる。
何かに阻害されたようで、彼がもう一度水晶に映そうと努めても、上手くいかない。
激しくノイズがかった映像なら何とか呼び出せるが、それではあまり意味もなかった。
阻害しているのは先程までは感知していなかった力だ。
おそらくは、あの白い染みのような物の仕業だろう。
彼が少し本気を出せば取り払えるのであろうが、あえてそこまではせず、水晶にかざす手を膝元に載せる。

彼が口の中で何かを唱えると、部屋の中に電気がついた。
光の元にさらされてみれば、彼がいるのは随分と広い部屋で、大半は本棚によって埋め尽くされている。
背表紙は読めない物が多い。
彼は唯一本棚のない空間に、イスと机を置いて、腰掛けていた。
彼の目の前には透明な水晶が置かれているが、その水晶は向こう側の景色を映し出しているだけである。

彼は手を虚空にかざす。
何もない空間から、突如ペンと紙が現れた。
彼が得意とする召喚魔法である。
使い慣れた無機物であったら割と簡単に別の空間から自分の手元まで呼び出すことが出来る。
とはいえ召喚魔法は空間に関係するため、それ自体が高度な魔法なのだが。
彼にとっては造作もないことだった。

紙に何かを書きつづる。
美しく流れる文字だが、彼の表情は重々しい。
「東の森、直ちに調査せよ」
短くそれだけを書くと、再び紙を別の空間へと送った。
それは彼の兄の元へと届いたはずである。

魔界の貴公子であり、この学校の校長でもある双子の兄。
サタンの元へ。

「一体、何が動き始めた……?」
ペンを長い指でもてあそびながらぽつりと呟く。
魔導士育成の最高峰、魔導学校の東にある森。
そこで何かが、誕生した。
今はまだ、彼だけがそれを知る。
占いによって多くを見通せる、サタンの双子の弟であるルシファーだけが。

ルシファーは腕を組む。
「さて、どうした物か」
魔導学校の一室に、静かな緊張が流れた。




続く



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