「黒の陽炎2」――Act.1



 緑の香りを運ぶ風は、少し強かった。暖かくなった春の風は、どうしても「穏やか」というイメージをぬぐえない。しかし実際はとてつもない強風が吹き荒れる。「春一番」の存在を、どうして忘れてしまうのだろうか。春先は風の強い季節だ。
 教室の窓をきっちり閉めていた。窓ガラスがせせら笑うかのように揺れて、忍足は歯噛みした。
「うるさい」
 思わずつぶやいてしまう。
 隣の席に座って紙パックを吸っていた岳人が、視線だけを忍足に向けた。切りそろえられたおかっぱがかすかに揺れるが、すぐにもとの形をキープする。奇妙な髪形だが、相当時間をかけているのには間違いない。でなければこれほど美しい形を保ち続けられるはずはない。髪形は変だが、本人にはとても似合っていた。
 岳人が息を吸い込むと、残り少ない紙パックの中身が、音を立てて口の中へと吸い込まれていく。紙パックの両脇がくっつくほどにへこんだ。
 岳人はストローを抜いて紙パックをたたむ。「何が?」と、ようやく問い返した。
「風の音が。春が来て嬉しいのはわかるんやけどな、はしゃぎすぎやろ」
 岳人は小さく息を噴出す。
「何だよそのロマンチックな表現」
 忍足は形の良い、薄い唇を横に引き伸ばした。
「せやな。もっとええ擬人法があった。――岳人みたいな風や」
 その比喩表現は、うるさいにかかっているのか、それともはしゃぎすぎにかかっているのか。少なくともあまり良い使い方をされなかったことを感じ取って、岳人は腰を浮かす。イスが下がって、後ろの席にぶつかった。
「何だと!」
 岳人は紙パックを忍足に投げつける。忍足は左に身を傾けてそれをよけた。右耳から数センチ離れた虚空を紙パックは掠めていく。
 岳人は盛大な舌打ちをした。忍足があからさまに唇を吊り上げる。岳人は地団太を踏んで反論したかったが。
「いてっ」
 どこからか声がした。二人の視線が泳ぐ。放課後の教室だった。たいていの者は部活に行くか帰るなりしていていない。
 かくいう二人も、本当は部活に行かなければいけない身なのだが、今日は部員の実力を測るのもかねた、部内一斉練習試合が行われていた。実際には今日だけでなく、今週はほぼ全て練習試合だ。何せ二人の所属するテニス部は、部員二百名を抱える大所帯である。一日二日で試合しきれるものではない。二人は昨日自分の試合をあらかた済ませいて、今日は試合の無い日だった。先輩方の試合を見ておくのもいいのだが……二人にはあまり興味は無かった。
 新学期から一月もしないのこの時期に、まだ部活をサボる者はいない。教室の中にはほぼ二人だけ、と言っても過言ではなかった。いるとしたら二人と同じ事情のテニス部員くらいだ。
 岳人が小さく声を上げて、窓際を指差した。忍足が振り返る。意味は無いが、度の無いだて眼鏡を押し上げる。ガラス越しに忍足が見たのは、春の日差しのような明るい茶色の髪だった。かすかに動いている。
 日当たりのいい窓際の席に陣取って、その人物は寝転がっていた。窓際のイスをいくつもつなぎ合わせてベッドにしていた。少し低い位置にいたため、廊下側にいた二人からは見なかったのだ。
 よくこの環境で眠れるな。
 忍足は妙に感心していた。窓はうるさいしイスは硬いし、利点と言えば柔らかな日差しくらいだ。
 一方紙パックを投げた張本人は思わず忍足に隠れるようにして後退する。
 教室の端にいる見えない人間にクリンヒットするとは大したコントロールだ。忍足は一ついやみでも言ってやろうと思ったが、自分がよけたせいとも言えなくはないので黙ってやることにした。……基本的に物を投げてはいけない気もするが。
 同じ教室にいるということは、相手も同学年だろう。果たして、それは見知った顔だった。
 机の下から、癖が強くあちこちには寝た髪が生える。どこまでが寝癖なのかはよく判らない。まだ幼い顔立ちは、中学生のそれだった。服はテニス部のユニフォームだった(はじめからサボる気だった二人は当然のように制服のままだ)。
「ジローじゃん」
 岳人は安心したように息を吐く。机の隙間を通って、窓際に行く。しっかりと掃除された後の机は整っていた。岳人が遠慮なくぶつかっていくため、どんどん汚くなっていたが。廊下側からそれを眺め、忍足は内心呆れた。机を直しながら岳人の後についた。
 芥川慈郎は、同じテニス部だった。そこまで親しい仲ではないが、それなりに強いのでよく同じグループで練習した。いつもボーっとしている少年で、寝起きのせいか、今も焦点が定まってなかった。
「ごめん、ジロー。ちょっとふざけてたら、紙パックが当たっちゃって」
 一応身をかがめて、「平気?」と尋ねる。岳人が顔を覗き込んでも、慈郎はどこを見ているのかわからなかった。
 岳人はまゆを下げる。表情が読めないから不安になった。怒っているのかもしれない。もう一度謝ろうと思って薄く口を開ける。
 慈郎の目玉が急に岳人を見た。岳人の肩が跳ね上がる。足の力が急に抜けて、後ろに傾く。
 後ろから見ていた忍足も異変に気がついた。
「岳人!」
 とっさに手を伸ばし、机と岳人の背中に入り込む。忍足の体が机に当たって、大きな音を立てた。はじかれた机は他の机にぶつかって止まった。かろうじて岳人の体を支えた。
 岳人は大きく瞬きをした。唖然として虚空を見つめる。はじけるように起き上がって、忍足の顔を見上げる。
「ごめん、ありがと」
 顔は笑っていたが、声は震えていた。忍足は眉をひそめる。慈郎の方を見たが、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。
 何があった、という問いは、忍足の口の中で飲み込まれた。何かを訴えるような、慈郎の目。視線は虚空を向いているのに、直接にらまれるような錯覚をした。
 慈郎は忍足に見られていることに気づくと、ゆっくりと顔を向ける。特に何の表情も見せず、「おはよ……」と呟いた。正面にあるその眼差しには、もう何の異変もなかった。
「おはよ」
 やや戸惑いながらも、忍足は返した。
「起こしてもうたか? 岳人がいらんことしよって」
 慈郎は首をかしげる。
「そう? 特に判らなかったけど。そういえば、何か当たったような気がする」
「ああ、それ。ちょっと紙パックがな」
 忍足は苦笑してみせた。それにつられたのかは判らないが、慈郎も苦笑する。
「なるほどね」
 慈郎が「別に良いよ」と言うと、忍足は「そうか」と応えた。
 忍足は岳人の体を起こす。忍足の横に並ぶと、頭半分ほど岳人の方が背が低い。成長期はこれからなので、まだまだ変動するだろう。
 岳人は頭を下げて、もう一度謝った。慈郎は「別にいい」と繰り返した。
 気まずくなる前に、忍足は何かを言おうと思った。何でここにいたのか、まずそれを話題に出そう。決めたはいいが、それが実際に言葉になることはなかった。
「おい、ジロー! どれだけ時間かかってるんだ!」
 廊下から声が飛び込んできた。反射的に心臓が収縮する。忍足と岳人は廊下に顔を向けた。慈郎だけは予測していたかのように、はじめから廊下を見ていた。
 顔を出したのは、テニス部のユニホームを着た少年だ。色素の薄い髪は、ドイツ系の血が混じっているからだと言う。顔立ちも日本人離れしている。形のいい高い鼻に少しつりあがった大きな目、全体的に整った顔立ちは一度見たら否が応でも忘れられない美しさだった。
 テニス部がどれだけ大きかろうと、誰もがこの顔だけは知っている。跡部景吾、中学二年にしてテニス部トップの実力を持つ「王者」だ。
 なぜこいつがここに。一瞬そんな疑問がよぎったが、忍足はすぐに納得した。慈郎がいるからだ。
 慈郎と跡部は小学生時代からの付き合いで、中学はじめの頃は一緒に部活に行く姿も見られた。部内ではあまり一緒にいないので、実際に二人が並んでいるところはなかなか見られないのだが。一年の頃、慈郎と同じクラスだった忍足は、何度か跡部が教室まで迎えに来る風景を見たことがあった。跡部はすぐに委員会や生徒会で忙しくなり、顔を見せなくなった。
 別に友情が冷めたわけではなかったらしい。跡部の保護者ぶりは今でも健在だ。
 当の保護されている身である慈郎は、主従関係を理解しているのかしていないのか、力の抜けた笑みを浮かべて跡部に手を振る。
「跡部、おはよー」
「ああ、おはよう……って、お前また寝てたな!」
「うん」
「認めるな! というか寝るな!」
 跡部は地響きがしそうな勢いで教室に入り込んできた。忍足と岳人は思わず道を開けてしまう。机を崩さずに来るあたりは几帳面というか何というか。一瞬、激しく乱れた机の列を目にしてとまるが、すぐに慈郎の方を見た。
「それで、あったのか?」
 何を探していたのかは判らないが、慈郎はうなずいた。跡部は慈郎を一瞥して「行くぞ」と短く言う。慈郎はもう一度うなずいて、イスの上から足を下ろした。
 跡部は端からどんどんイスを元の場所に片付けていく。慈郎も手伝ったが、片付けた数は跡部の方が多かった。
 おいてけぼりにされた二人は、呆然とそれを見ているしかなかった。あっけにとられて何もいえないでいる。跡部には二人の姿が見えていないのではないかとすら思える。
 忍足はため息をついた。跡部が顔を上げる。忍足の方がほんの少し背が高い。
「何だ」
「いや、相変わらずの過保護ぶりやと思って」
 跡部はかすかに眉間にしわを寄せた。
「こいつが仕様がないからだ」
 跡部は「それに」とつなげた。
「随分余裕だな、忍足に向日。今、明日お前らが戦う相手も試合をしている。見ていかないのか?」
 跡部は肩をすくめた。忍足は口角をわずかに上げる。
「跡部が試合をする頃には見に行ったるわ」
 その言葉の裏にある意味を読み取って、跡部は「だろうな」と呟く。
 忍足の実力もかなりのものだ。先輩相手でも引けを取らない。それどころか、三年生でも忍足と張り合える者はほとんどいないだろう。結局のところ、忍足の敵は目の前にいる、跡部くらいだった。
 跡部は最後に乱れた机の列を直した。慈郎はいつの間にか、ラケットを持っていた。黒いラケットカバーは大切に使われているようで、生地はしなびていたがほつれている箇所はなかった。
 教室を出る前に、跡部が振り向く。
「お前らも、最後のあいさつのときくらいユニホームに着替えて顔を出しな」
 まるで先輩を相手にしているような威厳だ。岳人が思わず「はい」と返事をした。口を押さえて顔をしかめる。忍足は笑いを噛み潰しながら「はいはい」と応えた。跡部と慈郎は廊下へと消えた。
 今度こそ、教室には二人以外誰もいなくなった。跡部のおかげで、机は最初よりも綺麗に整っている。近くにあった机に腰掛けて、岳人は息を吐いた。
「……ビックリした」
 忍足はなんとなく修飾語を読み取って、「何に?」ではなく、「何で?」と聞いた。おそらく、さっきジローに謝ったあと、急に倒れ掛かったときの話しだろう。
「さっきのジロー」
 予想通りの切り出しに、忍足は頷く。
「にらんだような気がした。俺のこと」
 少し驚いて、忍足はまぶたを持ち上げた。しかし忍足は自分も似たような場面を見ていることに気がついた。
 目を合わせてもいないのに、まるでにらまれているかのような威圧感。気のせいではなかったのだ。
 普段の慈郎からは思いもよらない。眠ってばかりで、起きていてもボーっとしていることが多い。しかしときどき口を開けば意外に無邪気なことが判る。テニスをしているときは誰よりも楽しそうだ。負けても楽しそうにしている。テニスがすごく好きで、テニスの全てが好きなのだ。
 どちらかと言えば、春の陽気のような、やわらかい印象を受ける。天気でたとえれば快晴だ。だが先ほどの慈郎は、まるで今にも雷雨を伴いそうな、曇天だった。どんよりとしていて、まがまがしい。少なくとも、今まで見たことのない態度だった。
「ジローの家、家庭事情やばいんかなぁ」
 考えられるのは、学校外での変化だろうか。親の離婚話でもあれば、学校での態度も、誰も判らぬうちに変わってしまうものかもしれない。岳人は首を横に振る。
「そんな話し、聞いたことないぜ。宍戸も小学校一緒だったって聞くけど、仲のいいお父さんお母さんだって言ってた」
 忍足は首をかしげる。原因がよく判らない。あるいは、首を突っ込むべきではないのかもしれない。そこまで親しいわけでもないし、もし家庭の事情ならば、むしろ深入りするべきではないのだろう。
 しかし、それだけで割り切れない何かがあるような気がしてならない。なにか、大きな闇の片鱗を見たような。
 ――でも、跡部がついているんだし、俺らが首突っ込む話でもないか。
 忍足はそう結論付けて、考えるのをやめた。
「まぁ、早いとこ着替えよか。今度は跡部ににらまれてまう」
「うわ、それも嫌!」
 岳人も深入りするつもりはないらしく、素直に忍足の言葉に従う。机から飛び降りた。机が少しずれて、慌てて直す。忍足は今度は堂々と声を上げて笑った。
 岳人は吠え掛かるが、どうしても周りの机を気にしていた。それがまたおかしくて忍足は声を上げる。逃げるようにして廊下へ出て行った。
 左右を見ても、跡部と慈郎の姿は見えない。昇降口に向かったのだろう。それとは反対方向、部室に向かって、忍足は足を進めた。
 後ろからドアの空く音がする。足の速い岳人はすぐに追いついて、子犬のようにきゃんきゃんわめいた。
 窓は激しく揺れている。廊下には、ガラス越しに暖かい日差しが降り注いでいた。

 跡部はゆっくりと歩いていた。慈郎はその隣を、同じ歩調で歩く。慈郎はラケットカバーを揺らす。不安定なリズムだった。
 廊下には誰もいない。どこからか吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。音合わせをしているのか断続的に音を鳴らすばかりだ。入ったばかりの新入生が吹いているのだろうか。防音のきく音楽室でやっているのか、妙にくぐもっていて、遠くの音のように聞こえた。
 窓からは野球部の審判の声や、陸上部がランニングしている時のかけ声も入ってくる。廊下が静かなせいかどの音も遠い世界の物のようだった。
「お前が起きるなんて、珍しいな」
 跡部がポツリと漏らす。慈郎は前を向いたまま「そうかな」とだけ言った。
 いつも眠たげに下ろされるまぶたは、今は気だるげに閉じかかっていた。眠たい時はいつも不機嫌そうにまぶたを半開きにしているが、それではない。先生に……進路を聞かれた時のような心情だ。
 長めのまつげが、下まぶたに影を落とす。眠気は覚めているようで、背筋はまっすぐだった。
「今回は起こされちゃったよ」
 話の流れからして、起こしたのは教室にいた二人だろう。慈郎は普段何をやっても起きないが、時々スイッチが入ることがある。不意に起きるのだ。それが普段の慈郎なのか、それとも彼なのか……判っているのは、跡部くらいのものであろう。
「――気づかれたかな?」
 言いながらも、どうでも良さそうだった。何も感じていないようだった。淡々としていた。
 跡部はため息をついた。一言だけ言った。
「気にすることではないだろう」
「そうだね」
 慈郎が即答した。
 どうでもいいことなのだ。何があろうと、彼の気にすることではない。全ては慈郎に関係することであって、普段はずっと眠っている彼にとっては、現実の全てがどうでもいいことだった。
 ただ一つ、跡部のことを除いては。
「でも、久しぶりに跡部に会えて嬉しいかも」
 はじめて慈郎は、屈託がなく笑う。年相応の顔になる唯一のときだ。跡部も、苦笑ではあったが、笑って返す。
 もう少しだけ歩調を緩めた。それは、跡部の方からであったか、慈郎の方からであったか。
「また、眠るのか?」
 跡部が問い掛けると、慈郎は少し黙った。考えている、というより、彼の気分に聞いているのだろう。気分的には、どうしたいか。
 たっぷり数十秒の間をおいて、慈郎は口を開く。
「しばらく起きてる」
「珍しいな」
 跡部は純粋に驚いたようで、大きな瞳を更に開いてみせた。慈郎は苦笑する。今度は自覚があったようだ。
「そうかな」
 そう言って、今度は慈郎も跡部も口を開かなかった。ゆっくりと昇降口へ向かう。それはほんの少しの距離。そのほんの少しの距離が、彼にとって全ての時間だった。
 また眠りぬつくまでの、ほんの少しだけの、彼の時間。
 今日はよく晴れていて、日差しも暖かだった。眠気を誘いそうな気温だ。だけど、今日は起きていよう。
 隣を歩く、まつげの長い横顔を見て、彼はこっそりそう思った。



続く



 慈郎二重人格ネタ第二弾(いえ、こっちの方が先に書いてありましたが)。続きを書いたのでシリーズものに昇格。第一話はそのままに、第二話から追加です。どうしても忍足が書きやすいので忍足が出張る予定……。跡部様やジローちゃんより忍足が書きやすいです。おのれ忍足(何)!



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