「I follow you」


 跡部が近寄ってきて、「何だ?」と尋ねる。手には新しい本を持っていた。これから借りるのだろう。岳人はタイトルを目で追ってみるが、英語だったので諦めた。忍足はごまかすように笑ってパタパタと手を振る。
「ただ見かけたから声かけただけや」
 なら呼ぶな、とでも言いたげに跡部が眉間にしわを寄せる。
 ジローが背もたれに寄りかかり上を向いて、跡部を見た。さかさまに映った。ぼんやりとつぶやく。
「おはよう」
 跡部は顔をジローに向けた。
「起きたのか」
 その問いにこっくりとうなずく。跡部は微笑んだ。
「この本を借りたら俺は帰るが……一緒に帰るか?」
 ジローは、今度はすばやくうなずいた。宍戸が気づいたように言う。
「そっか。家近いんだっけ」
「それなりにな。宍戸の家も近いだろう」
「そうだけどな」
 ジローと跡部は小学校時代も氷帝学園だったためよく下校を共にするが、宍戸は特に一緒に帰ったことはなかったので、あまり家が近いという自覚はなかった。ジローと跡部以外は皆他の小学校から受験でやってきた者たちだ。宍戸も小学生の途中から編入した口である。小学生の行動範囲などしょせんは狭く、学校が同じでもない限り付き合いもない。別の学校にいた数年の分、宍戸は二人の過去を知らない。
 ジローはとたんに嬉しそうに笑って、いそいそと動き出す。足元に置いてあったかばんをひざの上に置いて、忘れ物がないか確認する。その様子を見て、忍足がつぶやいた。
「でもジロー、まだ進路希望の紙書き終わっとらんのとちゃうか?」
 ジローが首をかしげた。跡部も、場違いなものを見るような視線を忍足に向けた。忍足はギクリとする。何かいけないことでも言ったのかとびくびくした。
「ジローはもう、進路希望の紙は出したはずだぞ?」
「へ?」
 意外な答えに、忍足はすっとんきょうな声を出した。他の二人も意外そうな顔をする。
「何々、ジローってもう進路決めてんの?」
 今度はなるべく声を押さえて、それでも机に身を乗り出しながら、岳人が聞く。ジローはこっくりとうなずいた。岳人は目を輝かせて、「どこどこ?」と聞く。ジローは少し照れたように口を開いた。
「トレーナーとか、コーチとか、そっち方面に行こうと思ってて。高校は氷帝学園の付属校に進むけど、体育科に行こうと思う」
 ジローの答えを聞いて、三人は感嘆の声をあげた。
「夢、決まっとるんやな〜」
「やベーよ、俺何にも考えてない」
「ジローは絶対布団屋さんに勤めるんだと思ってたよ」
「それじゃあ、こいつは寝てばかりいるだろ」
 最後に、跡部が苦笑した。誰もがうなずいて、ジローが照れ笑いを浮かべる。事実なだけに言い返せない。
「でもなんでまたトレーナーになりたいんや。まさか榊に感化されてとか」
「だったら音楽教師とかになるだろう」
「確かに」
 でも榊みたいにはなりたくない。誰かがぼやいて、みんな笑った。音楽教師のくせにテニス部を指導する榊は、実力は確かだが個性派だった。
 そのまま話題は榊の方へと移っていき、結局ジローの進路について追求する台詞は出てこなかった。ジローはわずかに安堵する。聞かれたくないわけではない。むしろ誇らしい夢があった。しかし、口に出すのはいささか気恥ずかしい。
 話題が戻ってくる前にジローは逃げるようにして背を向けた。「じゃあね」と楽しくしゃべっている三人の背中に告げると、同じ言葉が返ってくる。ジローは嬉しくて頬が暖かくなるのを感じた。
「寄り道するなよ」
「判っとるわ」
 先生みたいな跡部の言葉に、忍足は笑いながら答える。この様子では仲の良い岳人と一緒に、どこかに寄ってから帰るのだろう。言っても聞かないと判ってても言ってしまうのは、跡部の世話焼きの性分である。
 二人は図書室を出ていくが、忍足たちの話し声は入り口まで届いていた。注意してやろうかとも思ったがわざわざ戻るのも面倒で、跡部はそのまま図書室の扉を閉めた。
 授業が終わってしばらく経つ廊下は静かだった。下手をすると図書室よりも静かである。
 閑散とした廊下が思いの外心地よかったので、しばらく二人は何も話さずに歩いていた。肩を並べると、ジローの方が跡部より小柄だった。母親の後をついていく子供のように、跡部の半歩後ろにくっついて歩いていく。
 この後、跡部は後悔することになる。やはり注意しておくべきであったと。
 図書室で騒ぎまくった忍足と岳人と宍戸が、司書に追い出されるのは、二人がちょうど昇降口から校舎を出た頃のことだった。

「結局、何だったんだ?」
 人通りの少ない道に入ったところで、跡部はようやく口を開いた。跡部はあまり人目に付く道を好まない。あまりにも顔が知られているからだ。正確には、跡部自身ではなく、跡部の親の名前が有名すぎた。
 跡部の親は会社を経営している。父親も母親も素晴らしい働きぶりだ。その甲斐あって跡部の家は金持ちだった。氷帝学園でも一、二を争う。
 当然、商売敵やこびを売ろうとする輩が後を絶たない。その魔の手は跡部にもおよび、見知らぬ奴におごられたことや拉致されかけたことはごまんとあった。
 幸い大事に至ったことはないのだが、今度動き出したのはボディーガードである。跡部を守るため校門に待機したり、尾行したり、車で送り迎えしたり……。実のところ、跡部が嫌っているのはボディーガードの方だった。
 ハッキリ言って迷惑である。ボディーガードたちの行動の方が、よほど犯罪だ。だけど犯罪にはならないから質が悪い。
 今日も校門で待ちかまえていたリムジンをまくのに大変苦労した。こっそり校門を通過して、後は全力ダッシュだ。隣を歩くのがジローでなかったら、今頃とっくに掴まっていただろう。跡部の足についてこられるのはテニス部でもレギュラーたち数人しかいない。
 額に浮き出た汗を拭い、跡部は補足する。
「お前の夢って」
 ジローは跡部の質問に答える前に、息を整えなければならなかった。全力で走ったのでさすがに疲れた。平然と歩く跡部を盗み見て苦笑する。同じ距離、同じ速度で走ってきたのに、明らかに跡部の疲労は少なかった。
 鍛え方が違う。そして、成長も跡部の方が早かった。未発達なジローの体ではそれほどトレーニングを積むことができない。成長しきっていない体に過度なトレーニングは毒だ。
 夏が過ぎたとはいえ、残暑はまだ残っている。すっかりほてった肌に張り付くシャツは汗で濡れていた。道の両脇には背丈の低いビルが立ちはだかっているので太陽の光は遮られる。少しだけ涼しくなった。シャツの裾をはためかせて、ジローは大きく息を吐く。
「俺は、跡部にはきっと追いつけない」
 寂しそうに呟いた。跡部はジローの方に振り向く。うつむいたジローの表情は跡部からはうかがえなかった。
 始めから確定していた。跡部には追いつけないという真実。生まれた時点、持って生まれた才能から、跡部は別格だった。持って生まれた原石は、日々の努力によって確実に高価な宝石へと精製されていく。いつか跡部は誰よりも輝くだろう。
 ジローは自分の限界を判っていた。跡部の傍にいた分、ジローは早期に気付いてしまった。
 敵わない。絶対に超えることのできない壁が、自分のすぐ側にある。跡部という強大なプレイヤーがいつも目の前に立ちはだかっていた。
 壁を見せつけられた少年がテニスプレイヤーの道を諦めるのに時間はかからなかった。
 ジローは跡部の方に視線をやる。ジローは微笑んでいた。跡部は安堵感に襲われる。力が抜けていくのを感じた。
 ジローが泣いているように思えなのだ。とても寂しそうに言ったから。跡部にもジローは掴みきれない。見えない部分がいくつもあって、それはいつも跡部を不安にさせる。
 本当は、すぐ側にいる。ただ。
 ジローがいつまで経っても横に並ばないので、跡部は歩きながら離すことを諦めた。後ろを向きながら歩くのは首が疲れる。
 ジローは跡部の少し後ろで立ち止まった。
「だから俺は」
 横に並ぼうとはしない。けれど。
「追っていたいんだ」
 ぴったり後ろにくっついている。
 ジローはもはや壁を超えようとは思っていない。壁はどんどん高くなっていくのだ。自分が成長するよりも早く。自分と壁との差は開くばかりである。
 手を上に伸ばしても、指の隙間から微かに天辺がうかがえるだけ。横手にある四、五階建てのビルなんて目ではない。頂上はきっと見えないくらい高い所にある。
 嬉しかった。壁が高くなるほどに、ジローは誇らしくなった。自分の友人が、はるか高みに登っていく。
 でもね、高くなりすぎた壁はきっともろくなる。ジローは心の中でそっと呟いた。プライドの高い跡部にそれを言うと反論されることは目に見えているので、言わないが。
 きっと倒れやすくなる。ならばジローは、支えていこうと思った。
「跡部の夢が俺の夢だから、俺も跡部の夢を追っていきたい」
 ジローはまぶしそうに目を細めた。優しい茶色の瞳に、無表情の跡部が映る。どう反応したらいいか判らなくて、表情を作り損ねた顔だった。唇は何かを言いたげにうっすらと開いている。
「それを叶えるために、俺はトレーナーになりたいんだ」
 ジローは口の端をいっぱいに広げて、にっかりと笑った。本当に嬉しそうに笑うものだから、跡部はつられて口元を歪めた。困ったように眉毛を下げて、笑っている。
 跡部が手を伸ばせば、ジローの頭はすぐそこにあった。軽く手を置いて、癖の強い髪を撫でる。跡部がジローの毛先を指で引っ張ると、弧を描いた髪がまっすぐになる。指を離すと、逃げるように髪が丸まった。
「良いんじゃないのか? 俺は立ち止まらないけどな、付いてきたいなら付いてこい。歓迎してやるよ」
 ジローは大きく頷いた。
 跡部は前を向いて、すたすたと歩き出す。歩幅は跡部の方が大きいので、跡部のペースで歩くとジローは小走りになってしまう。ジローは背負ったリュックをがちゃがちゃと鳴らしながら、跡部の後ろを行く。
 ジローは、跡部と並んで歩く道より、跡部を支える道を選んだ。それは選手として跡部に追いつこうとするよりも、ジローにはふさわしいように思えた。
 テニスをすることは楽しい。できればずっと続けていたい。しかし同じくらい、ジローは好きだった。跡部がプレーしている姿が。
 きっと跡部もテニスが大好きに違いない。ジローは大好きな友人と、大好きなテニスを続けていられたら、最高に楽しいと思った。
 跡部は少しだけ首をひねる。横目でジローの顔を見れば、やっぱり笑っていた。跡部の口元も自然と上がる。
 中学を卒業しても、高校に行っても、大人になっても。ジローの定位置は、跡部のすぐ後ろ。少し振り返れば、笑顔が見える。


FIN.

 跡部の夢が俺の夢だから、俺も跡部の夢を追っていきたい。ジローにそう言わせたいがために書きました。ジローと跡部は信頼し合っていると良いな、というのが私的妄想。
 実際に書いていて楽しかったのは、忍足と岳人と宍戸の会話でした。彼らは書いていると自然にテンポ良く喋ってくれるので楽です。ノリに任せつい色々書いてしまいました。図書室での場面は前ふりなのですが、明らかに重点より長いです(汗)。どうでも良い日常をだらだら描写するのが大好きです。



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