「I follow you」


 誰もが同じ紙を持っていた。始終紙とにらめっこしながら、時々呻いたり、頭を掻いたりしながら項目を埋めていく。
 図書室でのこと、受験も着々と近付く十月現在では、三年生がちらほらと見られる。中等部の図書室であるが、図書館と言えるほどに大きい。天井も高く、立っている人間の肩に足を載せて立ち上がっても、まだ手が届かない。当然本棚の一番上にも手が届かないので、必ず可動式のはしごが本棚ごとに取り付けられている。
 本棚の数も多いが、置かれている机も多かった。本棚から少し離れた場所、大きな窓の近い日当たりの良いスペースに、読書コーナーがある。そこには長机が四つ一組で幾つも並んでいた。
 その一角に、男子生徒が集まっていた。彼らは手にした白紙の紙を机に押し付け、クラスと名前と出席番号だけを記入していた。
 さも面倒だとでも言うように、視界を阻む長めの黒髪をかき上げ、少年がシャーペンを置いた。
「別に、こんなもん書かなくても良いやろ。どうせエスカレーター式に大体の奴が高等部に進学するんやから」
 小学時代まで関西に住んでいた少年は、東京の暮らしに慣れた今でも関西のなまりが強い。その少年の言葉に、長い髪の少年が頷く。後ろで無造作に束ねている髪には癖一つなく、つややかだ。
「本当だよ。何でわざわざ他の学校も考えておかなくちゃいけないんだ……。なぁ、どっか適当な高校近くにないか?」
 言って隣に座る少年を振り返るが、あからさまに顔をしかめた。
 隣の少年は机に上体を載せてぐっすり眠っていた。とても気持ちよさそうである。癖の多い色素の抜けた髪が、さらに変な方向に曲がっていた。起きたら妙な寝癖がついていることだろう。時々、寝言なのか、訳の判らないことをつぶやく。
「またかよ、ジロー……」
「ええやん宍戸、放っときや。どうせいつものことやんか」
「そりゃそうだけどよ」
 長髪の、宍戸と呼ばれた少年は、シャーペンでジローの頬をつついてため息をついた。
 宍戸はジローの近所であるため、幼い頃、同じ幼稚園に通っていたことがある。それから小学校の高学年の時同じクラスになって再会したわけだが、宍戸から見たジローの印象は、いつまで経っても「よく寝る奴」だった。それだけ昔からよく寝ていた。
「なーなー、忍足〜。どうして他の学校まで書かなくちゃいけないんだよ」
 関西弁の少年、忍足の隣に座る、おかっぱ頭の少年が忍足の制服の裾を引く。彼だけは机の上に紙を出していないが、どうせ未記入のままだろう。
「お前も話聞いてなかったんかいな。エスカレーター式言うても、試験はあるもんや。全員通るとも限らない……とか言われとる。それに、他の学校行く奴もおるしな。念のため、希望校と併願校を決めておく必要があるらしい」
「まじで?」
「嘘ついてどないすんねん。俺の目を見てみぃ、本気の目やろ」
「うさんくさい眼鏡越しじゃ判らねぇなぁ」
 宍戸が口を挟む。忍足は度の入っていない眼鏡を、中指で押し上げた。
「じゃかーしーわ、宍戸。レンズには何も仕掛けはあらへん」
「ダテ眼鏡のくせに」
 間髪空けずに宍戸が言って、くつくつと笑った。
 彼らが今にらみ合っているのは、進路希望の紙であった。配られたのは先週で、今日が提出日である。
 二年生の彼らにとってその紙はまだ現実とは程遠いものに思えた。提出日ギリギリまで放置していたわけだが、さすがに提出日当日ともなると、焦らないわけにはいかない。部活仲間で集まって、似たような回答を書き合っていた。
 まだ当面は部活に励むつもりだった。そうするだけの情熱も実力も彼らにはある。負けたら試合に出させてもらえないという完全実力主義の中、トップにいるのが彼らだった。三年生が引退した今、氷帝学園テニス部で、彼らは最強だった。はっきり言って、全国制覇という大きな目標を前に、進路などかすんでしまう。むしろ、そんなものはどうでも良かった。近日部長になったばかりの友人が、進路希望調査用紙の提出を急かさなければ、もしかしたら白紙で出したかもしれない。
「跡部はいつのまにか出してるしなー。面倒くさいよー」
 おかっぱの少年が元凶となった新任部長に対しての愚痴をこぼす。部員数が二百人近いテニス部を担うだけあって相当な統率力を持つ少年だ。責任感も強く、やるべきことは出来るものから片っ端からこなしていった。進路希望も既に決まっているだろう。もしかすると配られたその日に提出したかもしれない。少なくとも、急かされたときに「お前はどうなんだ」と聞いた時点では既に出してしまっていた。
 資料を探しに図書室まできたもののその場しのぎではなかなか書けないものである。いまだ真っ白い紙を見つめて、少年たちはため息をついた。
「忍足、宍戸、岳人、まだ出していないのか」
「……?!」
 背後から降ってきた声に、三人はそろって背筋を伸ばした。条件反射である。降ってきた声は、いつも聞きなれたものだった。
 まだ声変わりの来ていない綺麗なボーイソプラノだが、いつでも自信に満ち溢れている。知人友人にも容赦のないテニス部部長の声を聞いた瞬間、誰もが一国の主を迎えるがごとくに改まるのだ。付き合いなれた彼らにとって、普段ならばそんなことはないのだが、不意をつかれればさすがに凍りついた。
「や、やぁ……跡部。生徒会の仕事は終わったんか?」
 忍足が引きつった笑みを浮かべながら恐る恐る振り向く。錆付いたロボットのようにぎこちない。跡部の愚痴を言ったばかりの岳人は、おかっぱ頭を押さえてうずくまる。怖くて振り向けなかった。
 少し青みがかった跡部の瞳が細くなる。
「ああ、終わった。それで借りていた本を返しに来たんだが……何やってるんだ、集まって」
「まぁ、作戦会議というかなんというか」
 ごまかすように笑って、宍戸がイスを引く。微妙に跡部から遠ざかっていることは言うまでもない。跡部はさらに瞳を細くした。
「真っ白い紙を前によく討論が出来るものだ。何の話をしていたかぜひ聞いてみたいものだな」
 そして持っていた本で宍戸の頭を軽くはたく。
「痛ぇっ!」
 長い髪の先がはねる。反射的に声を上げて、頭を押さえた。恨みがましそうな目で跡部を見つめた。
 跡部はいつものように背筋をピンと伸ばして三人を見下ろしている。背はそこまで高くないものの、姿勢が良いので高く見える。色素の薄い髪に、日本人離れした端整な顔立ちは、どこか神々しかった。
「文句があるならさっさと書きな」
 本を持ち直して、不敵に笑う。
「常に余裕を持て。それが氷帝学園だ」
「はいはい」
 忍足がどうでも良さそうに返事をする。
「ここはテニス部じゃないってーの」
 宍戸もイスの背に背中を預けてつぶやく。跡部も新部長とはいえ同学年、一年の頃から共に練習に励んできた友人だ。ちょっと間が空いてしまえば、先ほど抱いていた緊張感もすぐに吹っ飛んでしまった。
「同じことだ」
 跡部がきっぱりと言って、きびすを返す。ロボットみたいにきっちりした足取りで、素早く遠ざかっていく。本棚の影にその後姿が消えたのを見計らって、岳人が口を開いた。
「最近、ピリピリしてるな、跡部」
 忍足がため息をつく。
「仕方ないやろ、跡部だってそれなりに緊張しとるんや」
 部長とは孤高だ。テニス部には副部長もいない。たった一人で膨大な部員数を抱え込み、統率していかなければならない。おまけに、実力主義の中では仲間はいないのだ。誰もがライバルなのである。
 他の部員とは実力が離れていて、レギュラーの座もしばらく安泰である彼らはお互いよくつるんでいるが、そうでない者たちは、同じ部でもいがみ合うことさえある。部をけして分裂させることなく管理していくのは、中学生の身には、少々厳しすぎるのではないだろうか。
 跡部が部長に選ばれたとき、誰もがうなずいた。それだけ実力は圧倒的だった。羨望の眼差しを向けた。しかし、同時に哀れにも思えるのである。もとから集団行動をするタイプではなかったが、ますます人を遠ざけている感があった。
「いつか壊れるんじゃないのかね、あいつ」
 宍戸がつぶやく。一番悔しいのは、跡部がいなくなったら、笑う人間がいることである。跡部を慕う者は悲しむだろう。しかし、周りはみんなライバルなのだ。これ幸いといわんばかりにのし上がろうとするものも出てくるだろう。そんな中で安らげるはずがない。安らげる時間がなければ、いつかつぶれてしまうことは目に見えている。
「力になれたら良いのにね」
 頬杖をつきながら岳人はうなだれる。しょせん、自分のことで手一杯なのだ。他人にかまっていれば自分が足元をすくわれる。同情はいらない。ただ蹴落とし、のし上がるのみである。
 だんだん暗い気持ちになってきて、三人はため息をついた。近くを通りかかった三年生がちらりと彼らの机を見る。忍足がそれに気づいて、ペンを握り直した。何もしていないのに図書室の一角に陣取っていては、必死である三年生に対して申し訳がない。
「それで、どこにする?」
「やっぱ近いとこだろ」
 何もなかったかのように宍戸が答える。岳人は机の下で足を揺らして、「とりあえず、このまま高等部に進むよね?」と尋ねる。
「親の金次第やな」
 忍足が苦笑した。
「忍足は良いだろ、頭良いから。岳人はきっと他のところは入れないぜ」
「何だよ、宍戸だって成績そんなよくないだろ!」
「それはどうかな。俺の成績表見たことないくせに」
「そうだけど……」
 岳人は思わず机の上に乗り出したが、しおれて席に戻る。
「意外と頭いいのは……」
 宍戸はちらりとジローを見た。少し眠りが浅いのか、先ほどから何度か寝返りを打ってはうなっている。起きたか、と思ってみればまだ寝ているのだから、油断は出来ない。
「ジローかな」
「え、そうなの?」
「う〜ん」
 ジローと岳人の声が重なった。名前を呼ばれたせいだろう、うっすらと目を開ける。視線がジローに集中した。
 ジローはゆっくりとした動きで起き上がる。冬眠の近い亀のようだ。甲羅の中から手足を出すみたいに腕を伸ばす。大口を開けてあくびをした。
「おはよう」
 まだ眠たげに目をこする。呆れながらも、三人は「おはよう」と返した。
「やっと起きたんか」
「うん。夢見たから」
「へぇ、いつもは熟睡してるくせに珍しいな」
「どんな夢〜?」
「えっとね」
 口々に聞かれて、ジローはしばらく虚空を見つめた。何度か瞬きをする。多分、頭の中を整理しているのだろう。まだ完全に目覚めきってはないようだった。
「跡部が出てきた」
 忍足が納得するようにうなずく。
「さっき来たもんな」
「そうなの?」
「まだそこら辺にいると思うけど、探すか?」
 宍戸が背もたれ越しに振り返って、図書室を見渡す。本棚がいくつも突き立っていて、跡部の姿は見えない。ジローはゆっくり首を振る。
「部活で会えるから良いや」
 忍足が顔をゆがめた。
「……今日定休日やで?」
「……そうだっけ?」
 やはりまだ完全に目覚めてはいないようだ。三人はあきれて肩を落とす。
 不意に、本棚の間を移動する跡部を見つけ、岳人が声をかける。
「跡部!」
 大きな声で叫んだ。慌てて忍足が岳人の口を押さえる。非難の視線が集まって、忍足は愛想笑いを浮かべながら軽く会釈を繰り返した。小声で「静かにせぇ」としかりつける。岳人は不服そうに頬を膨らませるが、何も言わずにうなずいた。



戻る   次→