「タイトル未定」
煌びやかなネオンが場違いなほどに闇を照らす。夜とは静かなもので、ただ眠る時間だと思っていた勇也には、にわかには信じられない光景だった。町には人があふれかえっていて、下手な時間、昼間の二時や三時よりも、よほど人通りが多かった。ときどき車がさして広くない道路を駆け抜けていくが、それより人の数の方が多い。道路の向こうの通りも似たようなものだった。 贅沢なほど店内から漏れる光は通りを明るく照らす。前にも後ろにも店が建ち並んでいて影が見えないほどだった。そもそも人が絶えず歩いているので、自分の影を見ることはまずない。開いている店はほとんど飲み屋で、しきりに勧誘する声が飛び交っていた。 それに比べて、勇也は地味だった。癖のある髪は、これでもかと言うほど純粋な黒だった。 小高いビルをボンヤリと見つめ、道の中央に立ちつくす。人の肩にぶつかる。金色に髪を染めた、恐らくまだ二十歳前後の若者が振り返る。赤いシャツに黒いジャケットを着込んでいて、あからさまに派手だった。 「なんや兄ちゃん。よく見て歩かんかい!」 「あ、すみません」 間が抜けた声で答えたので、若者は舌打ちして去っていった。喧嘩を売る気も失せたらしい。勇也は自分が命拾いしたことも知らず、頭をぶんぶん振る。まるで異世界に来た気分だった勇也は、頭がボンヤリとしていた。そのおかげでいつもなら目に付いたはずの若者の姿に文句を付けずに済んだのだが。いささか頭の固い勇也は今時珍しい堅物でもあった。 前方から今度は若い女性がやってきて、勇也は道の端に寄る。道幅は勇也が両手を開いたくらいの大きさだが、ど真ん中に立っていたのでは、さすがに邪魔であった。 いつも見慣れた道に、たった数時間時間をずらしてやって来ただけである。それだけで姿を豹変させた町に、一瞬自分が浦島太郎になったのではないかと錯覚した。道行く人も派手な格好をしていて、異人のようだ。 勇也のアルバイト先がこの近くにあった。大体部活が終わってからの七時から十時頃までバイトをしていた。全国にチェーン店を持つコンビニエンスストアで、荷物運びの作業をしている。柔道部と空手部の兼部により鍛えられた体は部活後の重労働もきっちりとこなしていた。むしろ、体を動かすことが好きな勇也には、動き回っていられるのが嬉しかった。その代わり宿題のできはいつも壊滅的だった。 今日もまだ宿題をやっていないのを思い出して嫌気が差した。時刻はすでに十一時を回っている。普段なら床に就く時間だ。朝練もあるため、勇也の夜は早かった。 時間を認識したことで一気に眠気が押し寄せてくる。夜になると、暦の上では冬に差し掛かった今の季節、トレーナー姿の勇也にはやや肌寒い。コンクリートに覆われた土地の空気はなおのこと冷たく乾燥しているように思えて、勇也は身震いした。 このまま帰ってしまおうか。ふと考えが浮かんで、頭を振った。そう簡単には帰れないと思った。冷たくなる耳を押さえて、目を閉じる。同居人の言葉が、脳内に響いた。 「世界の住人全てがお前と同じだと思うなよ」 うずくまってしまいたかった。聞いた当初は酷く腹が立ってつい飛び出してきてしまったが、考えれば考えるほどに訳が判らなくなる。足が勝手にバイト先に動く最中も、必死で頭から追い払おうとしていた。ずっと付きまとっていた。肌に染みる寒気の如くに、身を締め付けるように、勇也を責めているようだった。 いつもの、ちょっとした口論のはずだった。勇也は両親を失っている。幼い弟と妹もいる。勇也はまだ学生で、とても弟妹を養っていけるほどの力はなかった。身よりもなかった。そんなこんなで施設に入ったのが二年前だ。しかし、同居人たちとは一向に意見が合わなかった。 勇也は元来真面目な性格で、生きた化石の如くに「男はこうあるべきだ」という持論があった。それが同年代の同居人たちと口喧嘩になる原因だった。 最近の高校生が勇也の持つ男児像に当てはまるケースは少ない。やはり同居人たちも多少制服をラフに着こなしたり、アクセサリーの類をつけたりもしていた。勇也にはそれが気に入らなかったし、同居人たちも態度を改める気はさらさらない。両者一歩も引かなかった、と言うよりむしろ、勇也がまるで相手にされない状態だった。 今日もそんな調子で勇也は帰ってくるなり叫んだ。 「その耳のやつ取れ、耳の!」 同居人の一人、緑山悠大が、肩をすくめる。長身の割に肩幅が狭いので、やや細身に見えた。 「ピアス、っていうんだけどこれ。全く、カタカナぐらい言おうよ。それだか英語が致命的なんだよ〜」 「じゃかあしい! いつも軽い格好しくさりおって!」 勇也は酷くなまった言葉を喋る。両親が関西出身で、家でよく関西弁を喋っていたためそのなまりがうつってしまったのだ。しかし両親以外の関西弁を聞いたことがないので、本当の関西弁はよく判らない。 悠大は捲し立てる勇也に笑顔で「はいはい」と答える。聞き流しているのをまるで隠していない。悠大の方が施設での生活は長く、口達者だったので、勇也は悠大に口喧嘩で勝てた試しがなかった。 それがさらに気に入らなくて、妙に突っかかってしまった。今日は疲れていたのかも知れない。週末で、一週間の疲れもたまっていた。勇也は眉毛をつり上げ、諸悪の根元となった一言を叫ぶ。 「そんなんで学校の大黒柱やっていけるんと思っとんのか?」 悠大の背中がピクリと震える。端正な顔にあからさまな怒りを浮かべて勇也を見下ろした。 「……ああ?」 すごみのきいた声に、勇也は思わず怯む。妙な殺気があった。孤児として生き抜いてきた者の貫禄がある。実年齢以上に歳の差を感じさせた。 「聞くけどさ」 背筋をぴんと伸ばして、威嚇してくる。勇也はどうしても背筋を伸ばす気にはなれなかった。自然と背中が丸まる。完全に力の差が見て取れた。 「俺のピアスはそんなに偉大なわけ? 俺のピアスでどれだけの人間を動かせるわけ? 人間てそんなに軽いもんなんだ」 軽く鼻で笑われ、勇也は息を飲んだ。 「俺って、そんなピアス一個分程度の存在なんだ」 何も言い返せなかった。返す言葉がないどころか思い浮かびもしなかった。頭の中は真っ白だった。その時自分がどれほど間の抜けた顔をしていたか、勇也は想像したくない。 悠大は生徒会長だ。勇也とは違う、近くの私立高校の会長だが、その活躍ぶりは勇也の耳にまで届いてくる。どれだけ努力しているのかが判る。人望の厚さがそれを示している。生徒会長ゆえの悩みも抱えているだろう。 それを傷つけたのは、勇也にも判った。余計な一言を言った。すぐに謝ろうと思った。しかし、悠大も一言だけ付け足してしまった。 「世界の住人全てがお前と同じだと思うなよ」 妙に悟ったようなその言葉が、勇也は無性に気に入らなかった。かちんときた。 頭に来たものの、手は出さなかっただけまだましだったと自分では思う。勇也はそのまま何も言わずに出ていった。誰も止めなかった。玄関先での口論を見る者は誰もいなかった。勇也の弟妹もすでに眠りに就いていただろう。いつも勇也が帰ってくる頃には眠っていた。悠大は黙って背を向けていたし、勇也も振り返らなかった。 幸いだったのはバイトに行ったときのままの格好だったことだ。それなりに温かい格好をしているし、財布もちり紙ハンカチも、最低限の物は持っている。夕食もすでに済ませてあるし、当面の問題は、これから施設に帰らずにどうするかだった。 真面目な勇也が十一時以降に床に就かなかったのは初めてかも知れない。帰ったら風呂に入りそのまま熟睡だった。そんな勇也に夜の町は目映すぎた。 いつまでも道路に立っているわけにもいかず、適当に人の波に流される。流れていく景色をテレビ画面に映る映像のようにボンヤリと眺めていた。どこか座れる場所でもあったら座ろうか。そう思って、店の途切れる所まで歩を進めようと決める。 それですんなりと先へ進めるほど、夜の町は甘くない。 「そこのお兄さん、浮かない顔してるねぇ。一杯飲んでいったらどうですか?」 客引きの男が勇也に近付いてきて口元をつり上げている。あからさまな作り笑いに勇也は不快そうに眉をつり上げた。男はそれに気づいてか気づかないでか、勇也の腕を引いて「特製のカクテルは一度飲んでみるべきですよ」とマニュアル通りに喋り続ける。カクテルの意味がよく判らずに、勇也はあいまいな返事をした。 飲むって言うとるし、みそ汁の類かな。 そして、全く見当違いのことを思っていた。横文字というか、外来語が理解できない勇也である。もちろん英語の成績は壊滅的だったし、逆に国語は大得意だった。 「あのっ……」 腹も減っていないし、とりあえずここで金を使う気はない。そう言って断ろうとしたが、勢いに逆らえず、男に引かれるまま階段を数段下りる。紺色のドアが眼下にあって、ランプがそれを照らしていた。小綺麗な看板がある。「ナイトブルー」と書いてあった。 男の手がドアノブにかかった。少し開いて、ベルの音が鳴る。機械音ではなく実際にベルが鳴っていた。それ以上ドアが開かれることはなかった。 男が客寄せ用の表情を作ることも忘れて、眉間にしわを寄せたまま振り返る。掴まれていたのは、勇也の肩だった。その後ろには、勇也と同年代の少年が立っている。少年はにこやかな笑みを浮かべて男に話しかけた。 「すみません、僕たちは未成年なので遠慮しておきます。まさか、未成年だと知った上でお酒を出すわけはないですよね?」 口調こそ穏やかだが、言葉には明らかな侮蔑の色が含まれている。夜の町に慣れているのは明らかだった。男は舌打ちして、それでも建前上なんとか「大人びているから気づきませんでしたよ。成人したらぜひ来てくださいね」と言葉を絞り出した。少年はただにこやかに「はい」と答えた。 男は通りの方へ上っていく。一瞬振り向いて睨んだが、少年は知らんぷりをしていた。また舌打ちをして、男は町の中へ消えた。 男がすっかり見えなくなってから、少年は口を開く。 「何の用でここにいる」 「えっと?」 思いの外事務的な口調に、勇也は戸惑った。 「夜遊びでもなさそうだし、かといって別段目的の店があるようにも見えない。用がないんだったらさっさと帰った方が身のためだな」 あまりの変化に驚いた。驚きのあまり、声が出なかった。本当に未成年かこいつは。疑って顔を覗き込むが、やはり顔つきはまだ幼さが残る。しかし、勇也は今度は別の意味で驚いた。 「たけ……る?」 一瞬、少年の表情が歪む。すぐに無表情に戻った。 「そいつは人違いだな」 少年は背を向けてそさくさと勇也から離れていく。勇也は呼び止めようとして、言葉が見つからなかった。取りあえず後を追う。コンクリートの階段を駆け上る。冷たい外気がふわりと肌を包んだ。 先程は薄暗くてよく見えなかったが、店から漏れる明かりに照らされる少年は、確かに勇也の良く知る人物と酷似していた。 草壁虎琉。悠大と同じ学校で、歳は勇也より一つ下だ。柔道部に所属しており、その関係で何度か大会や練習試合で会っている。目の前の少年は、髪形も、顔も、背格好も、虎琉と似ていた。 ただしあまりにも夜に溶け込んだ雰囲気がまるで違う。少年は濃い灰色のシャツの上に黒いジャケットを羽織り、紺色のジーパンをはいている。色すらも闇に溶け込みそうだった。夜の車道を歩いていれば真っ先に車に轢かれそうな色だ。 「あの、すまんな!」 見失ってしまいそうで、大きめの声で言った。少年が立ち止まる。ちょうど勇也の進行方向で、衝突する寸前に勇也も足を止めた。 「何で謝る」 少年がつぶやくように言う。低い声で、少し聞き取りにくかった。周りの会話に混ざってしまいそうだ。 まさか逆に聞かれるとは思っていなかった勇也は、また言葉が出なかった。どうも調子が合わない。勇也の言うことは上手く伝わらないし、少年の言うことは上手く伝わってこない。 「ほら、一応……助かったし。あと、何か人違いしたみたいで……すまん」 やっと言葉を見つけても、今度は少年の方がまるで反応を返してこなかった。無言のまま通りに立ちつくす。奇妙な雰囲気に、勇也はいたたまれなかった。それでも何も言わずに立ち去るのはもっと嫌で、じっと待っていた。 「あんた、名前は?」 「え」 「名前は」 「勇也……赤桐勇也」 言う言葉言う言葉いちいち唐突な奴だと思いながら、勇也は思わず口を開く。少年の方は「零治だ」とだけ名乗って、「付いてこい」とキッパリと言った。答えを待たずに背を向けて歩いていく。相変わらず訳が判らなかったが、何となく勇也は付いていった。 どうしても他人のような気がしないのは、知人と瓜二つのせいだろうか。それだけでもないような気がして、何も言わずに、取りあえず零治と名乗る少年の背を追った。 |