「夜桜」



 夜中にふいに目が覚めた。ほんと急に、何の前触れもなく。
 夢も見ずに突然目覚めたものだから、俺はしばし自分が覚醒したことに気づかなかった。
 闇に目が慣れ、外の明かりが窓から入ってくるのが見える。若者の叫び声が、部屋の中にまで入ってきた。
 こんな時間にまで何をやっているんだか。騒音に苛立つというか呆れたところで、俺はようやく現実の中にいることに気づく。
 今何時なんだろう。外はまだ暗い。
 電気をつけるのが面倒なので、カーテンを少し引き、入り込んできた明かりに枕元の目覚まし時計をかざす。
 アナログ時計は、三時を指していた。
 まだそんな時間か。
 変な時間に目が覚めたものだが、眠気もなく、することもなく、何となく身を起こす。
 何で目が覚めたんだろう。特に理由は見あたらない。時々電気をつけっぱなしにして寝ると、変な時間に起きることがあるのだが、今日はばっちり電気を消して寝た。床に就いたのも一時頃だし、目を覚ますには変な頃合いだ。
 手持ちぶさたで、携帯でもいじろうかとベッド脇の机に手を伸ばす。家はマンションなので自室は狭い。だいたいの物に、座ったままでも手が届く。
 暗闇に目が慣れたとはいえ、全然周りが見えないので、俺は頭の中に部屋の地図を思い浮かべた。
 左側にあるはずの机を探り、思い描く物を探すが、なかなか届かなかった。かったるくなってカーテンを半分全開にする。町の明かりが多少部屋を照らした。
「あった」
 思いの外遠い所にあった携帯をひっつかんで画面を見ると、メールが届いていた。
 送信元不明のメール。
 迷惑メールかと、一瞬思った。
 少し様子が違うことに気づいたのは、メールを開けてから。
「サクラ」
 その三文字だけが刻まれていた。
 奇妙に感じ、送信元のアドレスを見てみる。
 そこには何も書かれていなかった。
「なんだよコレ……」
 送信元アドレスのないメールなんて初めて見た。携帯の故障か? それとも手の込んだイタズラなのか?
 不気味なメッセージにとまどっていると、携帯がまたバイブレーションを鳴らす。
 長い震動は、電話だ。
 少し迷った。
 夜中に電話をかけてくる無礼な友人は持たなかったはずだ。
 イタズラ電話だろうと決めつけ、無視することに決めた。
 携帯を閉じ、枕の下に押し込んで、バイブがやむのを待つ。
 数秒後ようやく切れたのでほっとした。
 ごろりと仰向けになった俺の頭の下から、ハッキリと聞こえた。
「サクラの花が……咲かない……」
 脳みそを浸食されたような気がした。
 背筋に奇妙な感覚が走る。悪寒とも、何ともつかない震えが走った。
「う……うわああああっ!」
 恐怖というか、気持ち悪さに、俺は携帯を壁に投げつけた。
 がんっと、鈍い音がする。携帯電話が床に落ちて、少し開いて、画面から明かりが漏れた。
 俺は耳を押さえた。まだ声を聞いた時の感覚が残っている。感触というか。耳の中で、気持ち悪い物がわだかまっているのを感じた。
 低い、しかしハッキリと女のものだと分かる声。とぎれとぎれ雑音混じりに聞こえた声は、不気味なほどよく響いた。
 あれを聞いたら確実に寿命が縮む。再び背筋に悪寒が走った。
 恐怖に駆られ、何かしないではいられない。
 電気をつけて、好きな歌を口ずさんだ。
 急についた明かりに、目が痛んだ。
 よく判らない嗚咽を吐いた。首を振ってしきりに何かを否定する。違う、違うと、繰り返した。
 いきなり電気が消えた。
 心臓が跳ね上がる。
 停電か?
 まだ冷静である部分で考え、外を見てみる。
 しかし、他の家からは明かりが見えた。どうやら家だけに起こっている現象らしい。
 ならば接触不良か、ブレーカーが落ちたか。
 少し開いていたカーテンを閉めようとして……俺はそいつと目が合った。
 目の前にある、学校のサクラの木の下。
 髪の長い、白い服を着た女が、にたりと笑う。
 白い肌に、血のように赤い唇が異常に映えた。
 黒い瞳に見つめられた時、恐怖がダイレクトに俺の脳を突き刺した。
 そして、ぷっつりと俺の意識は途切れることとなる。
 最後に覚えていたのは、満開に咲き誇るサクラの色だった。

「はーっくしょん!」
 朝の登校ラッシュの道に、盛大なくしゃみ一発。
 言うまでもない、その主は俺である。
 俺は鼻をかんだ。ゴミをポケットに押し込めば、ポケットティッシュが一個空になったことに気づいた。
 俺は風邪を引いた。昨日、気絶するように眠った時、うっかり布団をかけ損ねた。
 まだサクラは七分咲き。まぁ、暖冬も手伝って温かいと言えば温かいが、布団をかけずに寝ればそれは風邪を引く。
 畜生、あの女のせいだ。
 うろ覚えの女の顔(もともとハッキリ顔を見たわけじゃない)を思い出しつつ、密かに心の中で呪った。
 ガンッ。
 突然、そんな鈍い音が聞こえた。
 同時に襲う、白い光と頭痛。
「痛ぇ……」
 光は一瞬で消えたが、痛みは治まらなくて頭を押さえてうなる。
 何事かと顔を上げれば……。
 そこには電柱があった。
 電柱にぶつかっていたらしい。何てベタな!
「スクープ!」
 声が聞こえて、振り向く前に光が降ってきた。同時にカシャッという音がする。
 これは……。
「何だよ、浩二! 何撮ってんだよ!」
 俺は黒縁眼鏡の少年の名を呼び、振り返った。
 案の定、そこでは黒縁眼鏡の短い髪の少年が、カメラを構えていた。インスタントカメラとかデジタルカメラとかじゃない。ちゃんと普通のカメラを持っている。
 俺はむかついたけど、呆れて声も出なかった。こいつはいつもこうだから。
「な〜に、勝手に人の写真撮ってるんだ」
 言ってる言葉にも力がない。浩二は、眼鏡の奥の鋭い瞳に似合わず、ニッと笑う。
「衝撃! 電柱にぶつかる伝説の瞬間」
 ブイサインを俺に見せ、「撮らせてもらったぜ〜」と楽しげに奴は言った。
「また校内新聞に載せる気か? 以前は授業中にくしゃみをした瞬間の写真を張り出されて、すっごく恥かいたんだからな!」
「怒るなよ。五円チョコ三枚で手を打とう」
「安いよ!」
 消費税すらもつかないじゃないか、と言って、俺は叫び返した。いや、じゃあ二十円の品物なら妥協するのかと言われたら、しないけど。
 俺の高校に入ってからの友人……高山浩二。この男は、俺にいつも騒がしい時間を与えてくれる。
 我が校に新しくできた新聞部。浩二が入学したての頃に無理やり作ったものである。公立高校の不自由な規則の中、よくもやってくれたものだ。
 浩二はそこの部長である。俺は不本意ながらも、副会長。カメラ小僧である浩二は、毎日カメラを所持していて、嬉しそうに写真を撮っては部が発行する校内新聞に載せている。
 その一番の被害に遭っているのは俺である。友人として近くにいる分、浩二のネタに使われやすいらしい。おかげでむやみに俺は有名人だっ!
「まぁまぁ」
 浩二はなだめるように口を開く。
「有名な笹原夏樹くんの写真を載せると、みんな喜ぶから」
「誰のせいで有名になったんだ!」
 どうやら彼に反省の気配は全くないらしい。俺はついに諦めて、ため息をついた。
 入学から一年過ぎた今でも浩二と俺が友人でいるのにはわけがある。
「……で、何かあったのか? 大したことじゃなさそうだけど、おもしろそうなオーラを背中に背負っていたぞ」
 何だかんだ言って、浩二は一番理解し合える友人なのだ。青春真っ盛りの、色々情緒不安定にもなるこの年頃に、浩二の存在はありがたかった。
 俺は苦笑して、ポツリポツリと話し始める。
 昨夜の出来事、奇妙な恐怖体験を。

「う〜ん」
「何か分かったか?」
 うなる浩二に問いかけると、浩二は神妙な顔で振り向いた。
「分かるわけないだろう」
「だったら紛らわしい表情すんなよ」
 俺もカメラ小僧に心霊現象が解決できるなんて思っちゃいないけど。
 時は過ぎに過ぎて放課後。浩二に全てを話した後、とりあえず現場に向かおうということで、俺たちは中学校の前まできていた。この学校の裏側に俺の家がある。
 浩二はすたすたと敷地内に入っていく。俺はその後を追った。
 職員玄関のすぐ側にある事務室に声をかけると、六十近いおじさんが顔を出した。
「すみません、通りがかりの善良な高校生なんですけど、サクラを撮らせていただいていいですか?」
 自分で善良とか言うな。
「良いですよ」
 良いのかよ。スムーズに進む事に、俺は脱力した。
 適当だなぁ……。
 外部からの侵入者にあれこれ警戒態勢がとられているこのご時世、こんなんで良いのだろうか。中学校だから気を抜いているのか?
 浩二は会釈して俺の方へ向き直る。「行くぞ」と一言言って、またすたすたと歩き始めた。
「ずいぶん手際が良いな。ここ、お前の母校なのか?」
「違うよ。取材し馴れてるからね、このくらいはできる」
 重々しい眼鏡をかけている見かけからは、想像も付かない行動力だ。眼鏡を取ったって目つきの悪い無愛想な顔が出てくるだけだから、本当見かけを裏切ってくれる。見かけ通りの人間なんてそうそういないけど。
 ちなみに言うと、ここは俺の母校でもない。俺は高校入学前に今のマンションへ引っ越してきたばかりだから。
 そういえば昨夜、気絶する前に満開のサクラの花を見たような気がした。昨年も自室から夜の花見に興じたものだった。だからまだ花のないサクラを見て、サクラの花の幻覚を見たのか。
 花のない?
 おかしいな、今の時期サクラは七分咲きだ。
 疑問に思いながら現場に着いてみると、やはりどのサクラの木も花が咲いていた。日当たりの悪い場所の木だって、五分咲きくらいにはなっている。
「んで、どのサクラの木なんだ?」
 浩二はカメラを空に向けながら尋ねる。フラッシュがたかれ、一瞬白い光がサクラを照らす。
 俺は数あるサクラの中から、女のいたサクラの木を探した。
 しかし夜に見たせいか、どうにもよく分からない。全然風景が違うため、なおのこと区別が付かない。
 俺はしばらく困って、うろうろしていた。俺の様子に気づいてか、浩二は写真を撮り続けていてくれる。その間に探せという、彼なりの心遣いだろう。
 どんなサクラだったっけ。
 頭を掻いて思い出そうとする。
『サクラの花が……咲かない……』
 生々しく声を思い出してしまい、俺は悪寒が走るのを感じた。
「うぇ……」
 思わずその場に座り込む。気づいた浩二が、「大丈夫か?」と顔をのぞき込んでくる。
 それに答えようと顔を上げ。
 俺は見つけた。
「あれだ」
 指さした方には、サクラの花のない木。幹を見れば、何となくサクラと分かる。
 ちょっと並木にはずれた、手前の方に生えていたから、気づかなかったんだ。
 俺の記憶通りに、サクラには花がない。女の主張(?)ともつじつまが合う。
 俺が反応を示すより先に、浩二がその木に触れた。
「特に、異常は見られないけど」
 俺もその言葉に頷いた。
 何で花が咲かないかも分からない。十分元気に育っているように見える。
 他のサクラと違う位置に生えているから、生えている場所が悪いのか?
 浩二は木の周りを歩いて、木の幹を叩いたりして観察している。俺はとても近寄る気になれなくて、しゃがんだままその様子を見ていた。
 しばらくして、浩二は肩をすくめる。異常なし、ということらしい。
 浩二が肩をすくめるのは、そういう時だけだ。疑問があったらすぐ調べる奴だから、分からなくて行き詰まった時にしか肩をすくめない。
 浩二はまた数枚写真を撮って、俺に尋ねる。
「なぁ、もしかして」
「何?」
 まじめな顔の浩二に、何か分かったのかと、期待して答えた。
「お前、彼女ほしさに女の幻覚見たんじゃないのー?」
 違った。
 見当はずれどころか、逆に冗談とはいえ罵られて、俺のこめかみに青筋が浮かぶ。
「この野郎、もう一度言ってみやがれ! カメラおたくが!」
 売り言葉に買い言葉。叫んで、俺は浩二につかみかかった。浩二は眼鏡の奥の切れ長の瞳をさらに細める。なまじ顔が良いだけに、怖い。
 かくして、俺たちは小学生が聞いても呆れるような、幼稚な口げんかを始めたのだった。







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