ソラノテガミ

Space

 肘を立てて組んだ手の上にあごを乗せ、鳴海清隆は息を吐いた。静まりかえった室内にその音はゆっくりと染み渡った。
 狭くはない部屋に人間は二人いた。一人は入り口向かいのソファーに座り、一人はソファーの横の壁に背を預けている。その他には棚が一つ置かれているだけで、装飾も何もない白い部屋だった。
「私が、代わりにやろうか」
「いや、いい」
 香介は即答した。清隆の方へ顔を向けることもしなかった。
 度の入っていないレンズ越しに、その目は虚空を見つめていた。しかし焦点は定まっていた。香介はもはや目指す場所を見つけ、なんの迷いもなく、終着点を見ていた。
 清隆も、香介の決意がゆるぎないものであることを分かっていた。聞いたのはほんの戯れだった。
 いや、聞かずにはいられなかった。まともな神経で考えれば、清隆はそうするべきだったのだ。
「亮子は、俺の手で」
 香介はぽつりと言った。感情の含まれない事務的な言葉だった。
 清隆はもう一度息を吐いた。

 二十年経った。ブレードチルドレン計画が決行されてから。最初八十人いたブレードチルドレンも、
「残るはあたしと香介のみ、か」
 亮子はカレンダーを見つめながら大きくなった自分のお腹をさすった。痛みが激しくなっていたが、今の自分にはちょうど良いと思った。
 十一月になっていた。もうすぐ自分の誕生日が近づいていた。芋色頭の幼馴染の誕生日はもう来ているはずだった。亮子が妊娠し大学を中退して以来、彼とは会っていないが。
 出産の予定日も奇しくも誕生日と同じ日だった。祝ってくれる人は多分いない。母親も大学在学中に死んでしまったし、幼馴染ももうここにはいない。
「誕生日くらいは会いに来なよ、薄情者」
 身を傾けてちゃぶ台に頬を載せる。次に会うときは決別のとき。それは分かっていたけれど。
 だって狂ってしまった。タイムリミットが来て、ブレードチルドレンは皆しかるべき運命に出会ってしまった。やはり逃れようがなかったのだ。呪いは解けなかった。
 かといって鳴海歩の苦労が水の泡になったわけではない。歩が希望を見せ、ブレードチルドレンがそれぞれの道を歩んだ数年間、確かに幸せだった。
 香介と同じ大学に行き、ただ平和に過ごした日々は、今思い出しても泣きたくなるほど幸せだった。
 その幸せがある限り亮子は自分を不幸だとは思わない。たった一点でも光があれば、闇は終わる。
 だから覚悟はできていた。どんな闇が目の前にあっても、亮子は恐れない。
 チャイムが鳴る。
 亮子はゆっくりと身体を持ち上げて立つ。チャイムが鳴る。入り口の方を見るが、ドアが閉まっているので外に立っている人物は見えない。チャイムが鳴る。
 亮子が玄関の前に立つ。チャイムがやむ。気配で分かっているのだ、長年付き合ってきた中だから、ドア越しに相手がいるのが、お互い分かっていた。
 ドアを開けると、外は闇だった。住宅地の少ない界隈では夜空を照らす街灯もなく、部屋からもれる光がかろうじてドアの前のシルエットを映し出す。
「よう、久しぶりだな」
 伊達眼鏡を中指で押し上げ、笑みさえ浮かべ、香介は飄々と言ってみせた。亮子は泣きたかった。すがり付いて蹴り飛ばして、いつものように「この間抜け眼鏡!」と罵倒したかった。
「まったくだね」
 亮子はそれだけ言って背を向けた。
「入り」
 なよ、と続けたかったが、香介は既に亮子の脇を抜け家の中に入っていた。土足のまま。
 カーペットに砂が落ちる。亮子はわざとらしくため息を吐いた。
「靴ぐらい脱がないのかい」
「ああ、悪い」
 ちっとも悪そうじゃなかった。
「清隆のところに行く癖でな」
「そうかい」
 清隆にはしょっちゅう顔を見せているのかい。そんなことを言うとまるで自分が清隆に嫉妬しているみたいだったから、何も言わなかった。
 香介は靴を脱いで玄関に放り捨てた。靴が転がってドアに当たる。その間に亮子はさっきまで座っていた場所に腰を下ろす。
 亮子は時計を見た。十二時に近かった。我ながらよくこんな時間に訪ねてきた男を簡単に入れたなと思った。
 予感は、してたのだ。
 香介は靴下でカーペットの砂をぬぐいながら亮子の隣に座る。亮子の腹を見て、「触っていいか?」と聞いた。
「いいよ」
 香介はちらりと亮子の顔を見て、腹に視線を戻して、少し間をおいて、壊れ物に触るようにゆっくりと手を近づけた。触れた腹は意外と硬かった。
「動かないな」
「出産直前は動かないもんなのさ」
「予定日はいつなんだ」
「明日だよ」
 香介は間の抜けた顔を亮子に向けた。その顔があまりにも見慣れたものだったので、亮子はつい吹き出してしまった。
 香介は眉間にしわを寄せて「心配してやってんのに」とぼやく。
「病院行った方がよくないか」
 亮子は首を横に振る。病院へは一番最初に検査に行ったきり行っていない。
「どうせ誰も祝福してくれやしないだろう?」
「それもそうだな」
 香介は腹をなでながら即答した。不思議と亮子は傷つかなかった。
「この子の父親は?」
「殺した」
 亮子は腹をなでる香介の手を見つめながら即答した。香介は「ふーん」と相槌を返す。どうせ香介は清隆経由で何もかも情報を手に入れていたのだろう。そうでなければ、香介は今日ここには来なかったに違いない。
 直接自分が出向くのが香介らしいと思った。清隆に来させることもできたはずだった。でも亮子は香介が来る気がしていたのだ。亮子の知っている香介ならそうしたはずだったから。
 香介は変わっていない。ただそれだけが嬉しかった。亮子も理緒もアイズも変わり果ててしまったけれど、香介だけが変わっていなければ救われる気がした。
「――あ、」
 声を漏らしたのは香介だった。香介は罰が悪そうに拳を握り締め亮子から視線をそらす。何かと思えば、日付が変わっていた。
「そうか、十二時を過ぎたのか」
 誕生日だ。このまま赤ん坊が二十四時間以内に生まれればもう一人誕生日の人間が増える。
「不思議なもんだよね」
 亮子はふと思った。
「生まれる前の赤ん坊でも、殺せば罪になるんだよ。それは誕生日の前、戸籍上存在していなくても、生きているって認められるってことじゃないか。じゃあ誕生日以前に命は芽生えてるってことで、そうすると、誕生日っておかしいもんだね」
「だからといって受精した日を誕生日にするのか」
「それが妥当じゃないか?」
「やなこった。やった日が分かるってことじゃないか」
 それが果てしなく下ネタであることに気づき、亮子は香介の頭をはたく。香介は後頭部を押さえてうずくまった。
「痛いだろ!」
「あたしの陣痛よりは痛くないだろ!」
 香介は叫んだままの形で口の形を固定し、しばらく沈黙する。亮子の言葉を頭の中で整理し、反芻した。
「陣痛っ?」
「当たり前だ、予定日が明日だと言っただろう!」
「もう今日だ!」
「どうでもいい!」
「いや、よくない! 平然としすぎなんだよお前は! 早く出産の準備を、一一〇番!」
 それは警察だ。本当に一一〇番するつもりだったのか、立ち上がろうとする香介の腕を、亮子が引いた。
「いらない」
 香介は中腰のまま亮子に背を向けていた。
「香介が片付けてくれるんだろう、全部」
 亮子は香介の手を強く握り締める。亮子の手は冷たく、汗だくだった。ずっと痛みを耐えていたのだ。
 ずっと耐えてきたのだ。体の内部から侵食してくる苦しみを。香介はその手に答えなければならない。
 だから香介はここにいる。
「……わかった」
 香介は座りなおした。亮子の手をつかんだまま、体の向きを変える。亮子の顔は青ざめていたが、香介の姿を見ると、顔のこわばりは消えた。
 亮子は笑った。
「あたしは、香介の子が生みたかったよ」
「馬鹿言うな」
 香介は亮子を抱き寄せた。頬に、触れるだけのキスを落とす。
 こんなにも近い。こんなにも近いのに、これ以上近づくことはけっしてできない。二人の距離。
 離れようとしても離れることはできないのに。直接触れ合うことさえ、許されない。
 亮子にとってブレードチルドレンの呪いなどどうでもよかった。それよりもずっと強固な血の呪いが亮子を縛り続けていた。
 兄妹という、報われない血の呪い。
 狂うことよりむしろ、その関係が、ずっとつらかった。
「俺は、後悔していない」
 香介は腕の力を緩めた。それを拒むように亮子が香介の服に手を伸ばす。
「人を殺したこと、仲間を手にかけたこと……お前の兄でいられたこと」
 香介は亮子の首筋をなでた。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
 それは遠まわしの誕生日祝い。相変わらず器用でも綺麗でもなくて、それでもまっすぐで、
 亮子は泣いた。
「ありが……っ」
 もう怖いものはない。一番大切な人が、自分を思ってくれるだけで、亮子はいっぱいだった。死ぬなら今がいいと思った。
 最後なら。禁忌を犯してもいいだろうか。ふとそんな思いがよぎったが、二人はその思いを打ち消した。
 最後だから、このまま綺麗に。
 香介はアイスピックを亮子の首筋から延髄めがけて突き刺した。亮子のかすかに開いた口から、小さな声が漏れた。
 亮子は即死だった。
 亮子の重い身体を抱きとめながら、香介の目は虚空を泳いでいた。ゴールを越えた先に、もう香介の目指す場所などどこにもなかった。

 部屋に響き渡る嗚咽に、歩は顔をしかめた。部屋に入ってきてからずっと、そいつは泣き続けている。のどが枯れることもいとわず、泣き声を聞かれるのもかまわず、世界の全てを呪うかのように叫び続けた。
「浅月……っ、いい加減にしろ!」
 耐えかねてついに叫ぶ。全身が動かなくなった歩むにとっては正直叫ぶのもつらいのだが、香介はそんなことにはお構いなしでしれっとしている。
「仕方ないだろう、赤ん坊なんだから」
 歩兄ちゃんは怖いなー、とおどけた調子で言いながら腕の中の赤ん坊を揺らす。第一その抱き方はめちゃくちゃで、それでは赤ん坊が泣きやまないのも無理はない。
 お前の方が酷いぞ! と歩は突っ込みたかったが、起き上がることすらできない歩には香介の代わりに赤ん坊を抱いてやることもできない。
「そもそも、何で赤ん坊連れて俺の病室に来るんだ」
 たびたび病室には顔を見せていたものの、今日は突然赤ん坊を連れてきたので歩は大変驚いた。香介の女性関係など歩は知らないし知りたいとも思わなかったが、何の前触れもないのは入院患者の精神衛生上よろしくない。
 香介と一番親しかったのは亮子だが、まさか血のつながりがあるのに子供はこさえないだろう……香介の時折見せる突拍子のなさで何かが起こった可能性は否定できないが。
「それが、こいつに飲ませる母乳がなくてさ」
 歩の疑りの目も我関せず、香介は右頬を押さえて言った。
「鳴海まどかに母乳をくれと言いにきたらえらく怒られて殴られたんで、逃げてきた」
「お前なんか蹴られてしまえ!」
 デリカシーのなさは二十歳になっても直らないらしい。存命のブレードチルドレンの中では一番生まれが早い、と兄貴面していたのはどこのどいつか。
 よりによってなぜ鳴海まどか。そしてそれをどうして自分に報告する。歩は久しぶりに大声を出したため肩で息をしつつ、はたと気づく。
「あれ、母親は?」
 母乳というのは出産した女性が出せるのだから、普通は子を産んだ母親が母乳をやれるはずである。まどかは清隆が子を生めない身体であるため出産するわけがない。
「亮子」
 歩は盛大に顔をしかめた。
「あからさまにそんな顔をするな」
 香介にも歩がどう誤解したのか予想がついて、慌てて付け足す。
「父親は俺じゃない!」
 歩は口を閉じたものの、眉間のしわは消さなかった。
「ならどうしてお前がその子を預かる」
 香介は赤ん坊を揺らし続けながら答える。
「両方死んだ」
 少し上下しながらあやすと赤ん坊はやっと泣きやんできて(もしくは泣きつかれたのか)、香介は「いい子だ」と笑った。
 歩はどう返して良いのか分からなかった。ブレードチルドレンが次々と狂いはじめ、清隆や香介が対処に回っていたのは知っていたが、歩が報告を受けた時点ではまだ亮子は生きていたはずだ。
 理緒が地雷に突っ込んで自殺し、アイズが清隆に殺された時点で最悪の事態は予想していたが、思いの他早かった。ブレードチルドレンが狂いだすといわれていた二十歳に達していないブレードチルドレンは、まだ半分いたはずだ。
「ブレードチルドレンはもう俺一人だ」
 香介は腕を止めた。赤ん坊は先ほどとは打って変わって静かな寝息を立てながら、眠っていた。
 歩は歯をかみ締めた。腕が動くなら髪をかきむしりたい気分だ。身体を張って、ブレードチルドレンを守った結果が、これだ。身体を張ったといっても、どうせ放っておいても歩の身体は壊れていったのだが。
「でも、まだあんたが残っているなら、ましか」
 歩はのどを震わせながらゆっくりと息を吐いた。少しばかり動揺していた。亮子を失ってもなおいつも通りでいられる香介がちょっとうらやましくなったりしないでもない。
「狂わないって口約、一番生まれの早いお前だけが守れたんだな」
 香介は鼻で笑った。
「どうかな」
 歩が目を見開いて香介を見ると、香介は相変わらずちょっと悪意のある笑みを浮かべていた。赤ん坊を胸に寄せながら肩をすくめる。
「こんな話は聞いたことないか?」
 拍子抜けするほどのいつも通り。
「狂気の中にあって狂わない者こそが」
 香介は笑う。
「狂っている!」
 香介が楽しんでいるように見えて、歩は初めて悪寒を感じた。
 香介は何人殺した?
 香介は誰を殺した?
 それでもなお香介は何故仲間を思い運命に立ち向かえた?
 日常の中に戻ることを選べた?
 狂気に侵されれば狂うのが正常な人間の精神だ。理緒は日常の中へ戻ることができず、地雷撤去のボランティアで海外に飛び立った。アイズもピアノを演奏しながら世界を回ることを選んだ。
 亮子は手を汚してはいなかった。その亮子と共に日常に戻った香介は。
 狂気に侵されても平常心を保っていられる人間は、「おかしい」。
「ブレードチルドレンが狂ったように見えたのは、幼少より狂気の中に投げ込まれたからだ。狂っていった仲間たちはむしろ正常だった。皮肉な逆説だけどな」
 香介は声を高らかに語る。陶酔しながら演説を繰り返す、民衆を狂わせる支配者のようだった。
「生き残ったのは俺だけ」
 香介は半回転し、ドアに向き合う。
「もしかしたら狂っていたのは、俺だけだったのかもしれないな」
 振り返ったその顔は――やはりいつものように、飄々とした笑みを浮かべていた。
 ドアが開く。香介が身を廊下に出す。そこでいったん立ち止まって、「そうそう」と付け足す。
「この赤ん坊、女なんだ。名前決めたぜ」
 唇が動く。
 「リョウコ」と。
 そのいたずらっぽい表情は、なぜか見たことのない、ミズシロヤイバとかぶった気がした。
 そのまま香介は病室を出て行った。歩は呼び止めることができなかった。頭の中が真っ白だった。
 直後歩の容態は悪化して、苦しみの中ナースコールを押しつつ歩は思い返した。
 そういや、最初に倒れたのもあいつにあったあとだったな。
 まさかとは思いつつ否定もできないまま、白衣の看護師が香介の出て行った部屋から入ってくるのを視界の端に捕らえ、意識を失った。

 真実とはなんだろう。きっとそれは目に見えるものではない。見えかけたゴールを目指しても、そこに望んだ終焉はないのだから。
 目に見える狂気にとらわれ殺されていった仲間たち。本当に狂ったものだけが取り残される。
 普通とは何だろう。狂気とは何だろう。そんなものの区別は本当にあるのだろうか。
 この世を狂気で満たせば、それが「普通」になるのだろうか。
「あんたもこんな気持ちだったのか? ――父さん」
 服越し胸を握り締める。肋骨の辺りには、骨一本分、空虚が広がっていた。


End.   

 幼稚なほど暗い話を書こうと思ったらこんな感じのができました。下ネタがあるので気をつけてください。清隆の「種無し」設定とか、スパイラルはさり気にえぐいところがあるのでそのまま書きました。妊婦に関する描写はテキトーです、すみません。体言止めを多用してちょっと陳腐な感じに仕上げてあるのは仕様です。
 「狂気」は科学が生み出した「正常」の概念から漏れるものを指す、十七,八世紀ごろからできた新しい概念だというようなことを習ったので、「じゃあ狂気って、正常って何なの?」という疑問がちょっとだけ投げかけてあります。あと「どんなに不幸な中にあっても幸せだった事実は消えないしそれはいつでも救いになりうる」というのが持論なので亮子に使ってみました。
 呪われていなくても若くして死んでしまう人はたくさんいるし不幸な状況に陥ることだってあります。それを全部「不幸」だなんて思ってしまったらそれこそ不幸です。幸せなんて気の持ちようで幾分かカバーできるのだから、精一杯前を向いていった方が得で、過酷な運命の中に飛び込んでも自分のペースで前を見続ける香介君はやっぱかっこいいなと思う今日この頃です。