ソラノテガミ

赤いティータイム

 あ、芋色。
 人ゴミから明らかに浮き立った色を視界に捉え、瑞枝はポツリと思った。それぞれの歩調に合わせて揺れる人間の頭から、確かに見え隠れしている。ほとんどの日本人が黒か茶色の髪をしているのに、その人物は紫芋の色。瑞枝は自然と眉を眉間に寄せた。しわが二本できる。
 芋色の髪をした人間は滅多にいない。その滅多にいない人間が、偶然にも知人にいた。背格好からして同一人物である可能性はきわめて高い。あちこちに突き出したつんつんヘアーのおかげで人ゴミより少し高い所に頭が見えるが標準の域は出ない。いわゆる中肉中背というやつだ。
 進行方向は同じ。瑞枝が声をかけなければ相手は気づかないだろう。どちらかといえば声を掛けたくない。そこまで親しい仲ではないし、彼氏持ちの瑞枝としては、妙な男とは並びたくなかった。
 どこか店に寄ってやり過ごそうかと周りを見る。真横にあるのはガソリンスタンドだ。給油中の車が一台、柱の横で止まっている。磨かれた黒いボンネットに、歪んだ瑞枝の顔が映りこんだ。
 少し先に視線を延ばすと、淡いミントグリーンのドアが目に付いた。白い看板が上の方にかかっていて、筆記体で店の名前が書いてある。喫茶店のようだ。シンプルな外装で、夕焼けの赤と混じって緑が色あせて見える。窓に絡むツタは自然のものなのか装飾なのかは判りにくかったが、落ち着いた雰囲気と相まって妙に哀愁を誘った。
 瑞枝はそれが気に入り、足を道端に寄せる。肩をぶつけながら人の隙間を縫って店の方に近づいた。途中、首を伸ばして芋色頭の行方を確認する。彼の後姿はほんの少し小さくなっていた。
 瑞枝はミントグリーンのドアを引いて店の中に滑り込んだ。素早くドアを閉める。瑞枝は深く息をつく。同じくらい深く息を吸うと、ハーブの臭いが鼻をついた。
「いらっしゃいませ」
 ドアと同じ色のエプロンをつけた女性が瑞枝に微笑みかける。営業スマイルだと判っていても、瑞江は思わず微笑み返してしまった。
「お一人様ですか?」
 瑞枝は頷き返す。女性は盆にコップを載せたまま小走りに店の奥に入り、数秒後には盆の代わりにメニューを持って出てきた。
 こちらへどうぞ、と言われるまま女性の後についていく。店内はそれほど大きくなく、四人がけの丸テーブルが六つとカウンターがあるばかり。カウンターはポツリポツリと埋まっていたが、テーブルは四つあいていた。
 瑞枝が通されたのは窓際のテーブルだった。窓から入り込んだ光が空気を渡り、白いテーブルクロスに赤い長方形を描いている。瑞枝がイスに座ると、メニューが置かれた。
 板に紙が貼られただけの簡素なメニューだった。ただ料理の名前が並べられているだけで、写真もない。長居するつもりのない瑞江は下の方にあるソフトドリンクの箇所だけ目を通す。紅茶、オレンジジュース、コーヒーなどのありきたりなラインナップが並んでいる。種類は多くないが値段は高くない。瑞枝はソフトドリンクの名前を何回ずつか眺めて、「紅茶をお願い」と言ってメニューを裏返した。
 女性はメニューを手にして一礼し、テーブルを離れていく。また客が入ってきたようで、途中からは小走りに去っていった。
 女性の姿を見送ってから、瑞枝はようやく肩の力を抜いた。教科書が入っている割には軽いカバンを隣のイスに置く。チャックにつけられたハートのキーホルダーが揺れた。
 制服の袖をまくり腕時計を見る。小さな花に囲まれた時計盤の中で、針は五時を示していた。もうすぐ日が暮れるだろう。部活のある彼氏より早く帰ってきたのに、日の暮れた後に帰宅するのは残念だった。私服ならばそのまま遊びに行くこともできたが、下校途中であった瑞枝は当然制服姿だ。
 瑞枝は立てかけた腕に頬を載せる。
「浅月の馬鹿」
 何で私の目の前を歩いているのよ。理不尽な言葉を心の中で付け足す。本当は口に出して言いたいところだ。そうでもしないとイライラが収まらない。早めに帰宅して部屋でのんびりするという、ささやかな楽しみを奪われた落胆は大きい。夜にはバイトもある。仕事のことを考えるとどっと疲れが増してきて、瑞江は急に眠たくなった。
「人を馬鹿とは失礼な」
 眠気の生存時間、数秒。瑞枝は一瞬にして眠気を振り払い、顔を上げる。勢い余ってイスが床をこすった。幸い派手な音は鳴らなかった。
 長い髪が宙を掻く。見上げた先には、男が立っていた。白い模様が入った青い上着を着ている。上着の襟元から出たパーカーの上には、芋色の頭があった。瑞枝と目が合うと、彼は「よ、野原」と片手を挙げた。
 瑞枝は眉間にものすごい重圧がかかるのを感じた。今鏡を見たらしわが幾重にも重なっているだろう。
「浅月香介……」
「フルネームを覚えていてくれて光栄だな」
 がっくりとうなだれる瑞枝に対して香介は飄々とした言葉を投げ落とす。それがさらに瑞枝の頭を重くする。皮肉の一つや二つ言いたかったが、口元が引きつるだけに終わった。
 瑞枝と香介は厳密に言えば直接的な知り合いではない。中学も高校も違う。そもそも香介は高校に行っていない。ただある共通点があったから、たまたま知り合っただけだ。名前を覚えていたのは親しいからではなく、単に瑞枝の記憶力が良かったからである。記憶力の良さにはテストなどで大いに助けられたが、今は逆に恨めしく思えた。
 瑞枝の無言をどう取ったか、香介は瑞枝の向かいのイスに腰掛けた。「学校帰りか?」と聞きながら足と腕を組む。同い年の癖に妙にえらそうだ。誕生日で言えば瑞枝の方が若干年上だ。
「あんたには関係ないでしょ」
「月臣学園だったよな?」
 窓の方に向けた瑞枝の顔に、かまわず質問が追ってくる。制服姿の瑞枝が学校帰りなのも、学校がどこなのかも、香介には判っているだろう。香介だって普段言われているほど馬鹿ではないのだ。中学中退という経歴は頭脳のせいではなく態度のせいである。
 根本的に言えば、「血」のせいだ。瑞枝は短くため息をついた。
「そうよ」
 瑞枝が視線だけ香介の方を向けて答える。香介は頬杖をついて窓の外を眺めていた。上の空に「そうか」と返す。
 その唇が何か言いたげに動いた。横を向いているので唇を読むことはできない。瑞枝はテーブルに身を乗り出す。小さな声で、やっと聞こえた。
「あいつは……元気か?」
「あいつ?」瑞枝に聞くくらいだから月臣学園の人間なのだろう。香介の知人が何人か月臣学園に来ていることは知っているが、人物を特定できるほど瑞枝は香介を知らないし知りたくもない。「誰よ」
「高町亮子。陸上やってるはずなんだけど」
「ああ」
 瑞枝はすぐに頷いた。亮子なら月臣学園でも有名である。陸上部期待の新人。一年生にして向かうところ敵なしの少女だ。入部早々数々の大会のタイトルを制覇した先輩たちを負かしたことで、一時期校内新聞をにぎわせた。
「クラス違うから詳しいことは判らないけど、バリバリ陸上やってるわよ。短距離走だっけ? 夏休みにも大会勝ったらしくて表彰されていたけど」
 香介の表情がふっと柔らかくなった。目を細めて口元を伸ばす。優しい微笑だった。穏やかな夕日と折り重なって、温かに見えた。
 珍しい香介の表情を見て瑞枝は少し驚いた。香介といえばいつもは何かをたくらんでいそうな含み笑いを浮かべているイメージがある。そうでなければ飄々としていて、何事にもあまり執着心を示さない。つかみ所のなさそうなキャラクターが瑞枝は苦手だった。
「それだけ聞きに私の後をつけたわけ?」
「つけたとは人聞きが悪いな。入ったらたまたま野原がいたんだ」
 言葉の割に顔は笑っている。亮子とは何か親しい関係であることは容易にうかがえた。学園の有名人と中学中退の香介。興味を覚えて、瑞枝は聞いてみた。
「どんな関係?」
 しかしすぐにこの質問が間違いであったということに気づく。香介の表情は一瞬にして重くなった。答えづらそうに目が伏せられる。頬杖をつく指に力が入り、頬にくぼみを残した。
「妹」
 瑞枝の目が見開かれた。大きな瞳がさらに大きくなる。心臓が一気に収縮し、苦しくなった。体がきしむ。座っていることが窮屈で、無意識の内に立ち上がろうとした。
 瑞枝のイスが下がる。浮き上がったイスの足が床を叩きつけた。瑞枝の代わりに床がガンッと叫ぶ。その音で瑞枝は正気に戻された。
 イスの背を引いて、座り直す。さりげなく周囲を見回すが、思ったほど大きな音を立てていなかったらしく、振り返ったものは誰もいない。
「そう、あの子も……」
 瑞枝の心臓だけがまだ動揺している。胸の辺りを押さえた。少しだけ感じる違和感。一本欠けた肋骨。
 ブレード・チルドレン。ヤイバの血に侵された、呪われた兄弟たち。
 可愛そうに。言葉がポツリと浮かび上がってきたが、声には出さず飲み込んだ。口にしてしまったら、自分自身をも哀れむことになるからだ。
 瑞枝は嘆くつもりはない。ヤイバの才能を貰って感謝したいくらいだ。血の呪いに負けたりはしない。
 悪魔の血が何だ。人殺しが何だ。瑞枝は血に支配されたとしても生き延びたかった。ヤイバの血を引く子供たちを殺そうとする者もあったが、瑞枝は絶対に死なないと決めていた。たとえ、人を殺すことになっても。
 香介ももう人を殺したことがあるはずだった。中学以降の経歴がない香介は瑞枝たちと違って身軽に動ける。ブレード・チルドレンの命を狙うものをはるかに返り討ちにしやすい。
 瑞枝は何人殺したか香介に聞いてみたいような気がしたが、リスクしかないのでやめた。香介がどれだけ汚れていたって、瑞枝が綺麗になるわけではない。ブレードチルドレンは生まれたときから呪われているのだ。
 女性がティーカップを持ってやって来た。瑞枝は表情を整える。男女が暗い顔をして座っていたら女性が不審に思うだろう。香介も腕を組み直して、元の表情に戻っていた。
「お待たせしました」
 瑞枝の前にティーポットとカップが置かれた。ティーバックはないからポットの中に茶葉が入っているのだろう。女性は瑞枝に軽く頭を下げ、香介にメニューを差し出した。香介は手のひらを向けて、受け取らなかった。
「水だけください」
 瑞枝は顔をしかめる。
「ちょっと、何か頼めば良いじゃない」
「金がない」
 香介はきっぱりと言った。瑞枝は呆れて額を押さえる。行方をくらましている人物が確かにアルバイトをできるとは思えない。生活資金はブレード・チルドレンを支援してくれる団体からの援助金だけなのだろう。
 女性はメニューを持ったまま立ち止まっている。少し困った顔で瑞枝を見下ろしていた。
「メニューは置いていってください。決まったら呼びます」
 瑞枝が答えて、女性はメニューを置いて背を向けた。香介は度の入っていない眼鏡越しに、うさんくさそうに瑞枝を見つめていた。
「おごってくれんの?」
「場合によってはね」
 瑞枝はポットを傾けてカップのに紅茶を注ぐ。赤みの強い半透明の液体が、うねりながらカップの中に落ちていった。甘酸っぱい臭いが湯気とともに上がってくる。ベリー系の香りだ。赤みが強いのもそのせいだろう。
 カップには手をつけずに、瑞枝は香介を上目で見る。
「私の方が誕生日、早いわよね?」
 瑞枝はにこやかに問う。香介はわけもわからず頷く。ブレード・チルドレンはみんな同い年のため、誕生日が優劣を決める。全員の誕生日を知っている者はあまりいないが、近場の仲間に対しては無意識の内に誕生日を意識してしまう。誕生日が遅いか早いかだけは結構把握していた。香介は夏生まれなのでちょうど真ん中辺りだ。
「じゃあ、私はあなたの姉よね」
 香介を指差し、びしりと言い放つ。
「敬意を込めて、瑞枝お姉様と呼びなさい」
「はぁっ?」
「そうしたらおごってあげる」
「何でっ?」
 香介は周りのことも気にせず、勢い良く立ち上がった。イスの足が床をこする。香介の顔が屈辱に歪む。瑞枝は喉の奥で笑い声を押しつぶした。
 カップを持ち上げて口元に運ぶ。湯気が唇をなでた。口をつけると、紅茶はまだ熱い。ゆっくりと少しだけ口の中に流し込んだ。ほのかに酸味の利いた味が舌に載る。口の中で香りが広がった。落ち着く香りだ。
 瑞枝はカップを静に置く。受け皿の上でガラスのぶつかる音が小さく鳴った。瑞枝の冷静な姿を見て香介は目を瞑った。何も言わずにイスに腰を落す。
 怒らない代わりに何も言わない。口をしっかりと閉ざす。まぶたを押し開けて瑞枝を恨めしそうに見た。店のイメージカラーよりも少し黄色を足した色の目が、まつ毛の間からのぞいた。
「みずえおねーさま」
 香介が投げやりに口を開いた。瑞枝は今度こそ声を抑えきれず、くすくすと笑う。
「よほどお金がないのね。いいわ、おごってあげる」
 言いながら、メニューを香介の方に押し付けた。香介はメニューをひったくって視線を上から下に流す。すぐに手を上げて店員を呼んだ。あまりの速さに、瑞枝は唖然としてそれを見ている。その間数秒。
「注文はお決まりですか?」
「コーラと、サンドイッチと、おすすめデザートと……」
「ちょっと!」
 すらすらと並べられる注文に、瑞枝は思わず抗議の声を上げた。香介はメニュー越しに瑞枝を見る。
「おごってくれんだろ、みずえおねーさま」
 瑞枝だけに見えるように舌を出した。瑞枝は拳を強く握る。小憎たらしい。こんな弟は絶対に欲しくない、と心の中で叫んだ(ある意味では本当に姉弟なのだが)。
「以上で」
 瑞枝の声を無視して、香介はメニューを店員に返した。店員は苦笑しながらメニューを受け取る。香介は口の端に笑みを浮かべて瑞枝に向き直った。
「よろしくな、みずえおねーさま」
 勝ち誇った笑み。瑞枝は悔しさに頭に血が上っていくのが判った。顔が熱くて、マグマが噴出しそうだ。紅茶の中に真っ赤な顔をした瑞枝の顔が映し出される。カップに触れる瑞枝の手が震えているので、水面は小刻みに揺れていた。
 浅月香介、やっぱり苦手だ。ちゃんと撒いておかなかったことを後悔する。頭の中でこっそり財布の中身を勘定した。足りないことはないだろうが、香介のための出費だと思うと腹が立つ。
 瑞枝はカップに並々と紅茶を継ぎ足し、一気に飲み干す。液体が喉を焼くが、頭の方が熱いので気にならない。アルコールが入っていないことの方が残念だ。
「すみません、私もメニュー追加!」
 勢い良く手を上げて声を張り上げる。瑞枝の雰囲気に威圧された店員がびくりと肩を震わせ、引きつった顔で「少々お待ちください」と言った。
 バイトの時間まであと二時間ほど。相手が香介なのは不服だが、良い暇つぶしにはなるだろう。退屈してブレード・チルドレンの暗い未来について考えさせられる手間は省けそうだ。
 消えない血にあれこれ悩んでも仕方がない。ブレード・チルドレンは死ぬまでブレード・チルドレンなのだ。瑞枝も、香介も、亮子も。
 赤は赤でも、人間の血より、紅茶の方がずっと瑞枝にとって有意義なものだ。瑞枝は空になったカップに、ポットの中にあった紅茶を全部入れる。まだ十分温かい紅茶は白い湯気を立てていた。
 なかなかおいしかったからまた来てみようと思う。今度は香介のいないときにでも。
 今度はゆっくりと紅茶を飲みつつ、瑞枝は明かりの増えていく町の景色を眺めた。窓の外では、赤い光は空の端に追いやられて、夜が優しく町を包み込んでいくところだった。


FIN.


 2007年の初めの更新は趣味に走りましたすみません。お気に入りのサイトさんの日記で「瑞枝を初期の香介と組ませてみたい」という呟きが書いてあったのに触発されて思わず書きました。マイナーコンビ大好き! 以前も理緒&辻井の謎コンビで小説書いたやつです。今回は香介&瑞枝で。しかも瑞枝視点です。  瑞枝って初っ端で死んでしまうのか~、と思うと書いていて妙に感慨深かったです。瑞枝は死ななければブレード・チルドレンの中でもかなりのやり手になれた人物ですよね。少なくとも香介よりずっと戦闘能力ありそうv 全体的に螺旋は男性陣よりも女性陣の方が強い傾向にありますが。  「敬意を込めて~」のくだりは一番好きな迷台詞です。瑞枝に使わせてしまいました。そうなると私の脳内で香介は瑞枝に結構影響されていたことに。それでいいじゃん(何)。瑞枝&香介って何気に良いコンビじゃない? と思えてきましたv 妄想バッチこい!