「沸点」
その部屋は、異常に広いように思えた。 実際広いのだ。 一般家庭であれば大また三歩位で端に辿り着いてしまうであろう、あまり広さは必要のない台所。 しかし今、アッシュは台所を駆け抜けている。 全力ダッシュなのに、今にも吹き零れそうな鍋は遠い。 ふたが跳ね上がり、落下してはがんがんとうるさい金属音を立てる。 銀色の装甲には白い泡がつたり、コンロの火をかき消さんばかりの勢いだ。 「止まれ〜〜〜〜!」 倒れ込みそうになりながらも、身体を支えるより先に火を止める。 火は軽い音を立てて消滅した。 何とか火事にならなくて済みそうだ。 ふたの中を見ると沸騰したばかりのそうめんは、まぁそこまでゆですぎというわけでもない。 安堵の息を漏らして、アッシュは汗をかいた額に貼り付く長い前髪をかき上げた。 涼しい風が額をなでる。 一瞬だけ鍋の縁に触れてしまった指先が熱い。 慌てて走ったため身体も暑い。 流れる汗は冷や汗なのか単に暑いせいなのかよくわからなかった。 紐のほどけてしまったエプロンがひらりと落ちた。 一つため息をついてからエプロンを拾う。 そのまま付け直す気力も無くて、机の上に置いた。 先ほどまでアッシュがいた流し台は十数メートル先。 切り途中のりんごが放置されている。 時間がたてば茶色くなってしまうが、塩水につけたときの味もあまり好きではないので、さっさと調理してしまいたいところなのに。 りんごを切った手をまだ洗っていないので、果汁で手がべたべたしていた。 調子が狂う、と思う。 こんなに大きな台所に立たされるのは初めてだった。 思いのほか、火をかけていてゆで加減が判らない。 匂いや音、隣で調理していれば自然と伝わってくるはずのものがないのだ。 おかげで沸騰させてしまった。 料理人であるアッシュにあるまじき失敗だ。 「そもそも、ユーリがいけないんス」 アッシュは小声で呟く。 自分の失態ならばプロを目指す者として自らの教訓を受け入れるが、明らかに他人のせいなのを甘受してやるほどお人よしではない。 広い台所にいるのは、アッシュただ一人。 アッシュとスマイルが居候させてもらっているユーリの城には、城というくらいだからお抱えの料理人くらいはいるものなのだが、今日に限っては誰一人としていなくなっていた。 朝一番に台所に入って、愕然としたアッシュはユーリに問いただした。 返ってきたのは、無常な言葉。 「全員休暇を言い渡した。 アッシュがいるから、問題はないだろう?」 俺はあんたの専属料理人か何かですか! 思わず口を出そうになったが真顔で肯定されそうだったので言葉を飲んだ。 実際はDeuilというバンドを組む仲間なのであるが、ユーリがリーダーを勤めているせいか、どうしてもユーリには頭が上がらないアッシュである。 その上早めに起こされてしまった吸血鬼は大層ご機嫌斜めでアッシュはすぐに昼食作りを言い渡された。 吸血鬼なので起きるのも遅い。 その割には日の光が大丈夫だなんて、吸血鬼に関する伝承は(ユーリに限っては)大いに間違っている。 かくしてまともに料理を作る暇もなく、お手軽簡単に麺類なのだ。 アッシュはそうめんの鍋を持ち上げて、長すぎる流し台までの道のりをのたのたと歩く。 まったく簡単な物を作るのにも一苦労だ。 アッシュは口に出してぼやきたかったが、どこで地獄耳の吸血鬼が聞いているか分かったものではないので慎んだ。 流し台の横に鍋を置いて、洗っておいたざるを引き寄せる。 疲れた手首を数回回す。 ふと、視界にりんごが目にはいった。 浮いていた。 アッシュは頭を抱えてうずくまりたかった。 こんなことをするのは一人しかいない。 「スマイル〜〜」 「えっ! 何でばれたの?」 心底不思議そうにりんご(がしゃべっているように見える)が言う。 もちろん、そんなわけはない。 光の粒子が現れたかと思うと、光り輝いた部分だけ青い物体が顔を出した。 透明人間のスマイルだ。 透明人間は透明だから誰にも見えない、とスマイルはたかをくくっているようだが、一緒に暮らしていればいいかげん気配やら匂いやらで存在を察知できるようにもなる。 第一、つまみ食いをしに来る奴はスマイルくらいだ。 ユーリも食い意地はってはいるが完成したものこそ食べる意義があると、完成まではけして手出しをしないものだ。 スマイルは包帯で隠れていない方の瞳を大きく開いて首をかしげる。 アッシュは応えてやる気にもならず、代わりにスマイルをにらみつけた。 前髪の隙間からかろうじて見える赤い瞳が、細くなる。 まるで獣の瞳のように鋭い。 スマイルが白い歯を剥き出しにしてにっと笑った。 色が空気に溶けていくかのように、スマイルの身体が消えていく。 りんごが虚空に消えた。 スマイルが食べたのだ。 「あ〜〜〜〜っ!」 アッシュが絶叫を上げるが、スマイルはニシシシと不思議な笑い声を上げている。 見えないが表情がありありと分かるような気がした。 きっといたずらが成功して満足げな子どものような顔をしているに違いない。 「ご馳走様♪」 そう言い残し、透明人間は風のように去っていってしまった。 止まっていれば何となく存在もわかるのだが、動かれるとさすがに集中しなければ察知できない。 スマイルは悠々と台所から出て行き、遠くなった気配は完全に薄れてしまった。 アッシュはうなだれる。 重力に逆らって生えた髪は相変わらず逆立ったままだが、アッシュの心はしおれていた。 ……リーダー、俺にも休暇、ください。 言ってみたところで断られるのがオチだろう。 いっそのこと逃げてやろうかとも思ったが、空を飛べる吸血鬼相手では、あっさり捕獲されるのがオチだろう。 結局言うことを聞くしかなくて、アッシュはまたため息をつくのだった。 ついでに、しばらく放置していたそうめんはすっかり伸びきっていた。 捨てるのはもったいないから、その後しばらくはアッシュとスマイルの食事はそうめんだけであったという。 ユーリだけは、アッシュが別に作った豪華な料理を食べていたとか。 そして、料理人達の休暇はあと一週間続くことを、アッシュはまだ知らない。 FIN. 莢香さんが最近ポップンミュージックが好きだと言っていたので、つられて書いてしまいました第一弾。 よく他人に流される人間です。 書いてみると、設定が少ない分、割と書きやすかったです。 反面、スマイルの口調が判らなくて仕方がありませんでした。 そのせいでスマイルが一番気に入っているはずなのに何故かアッシュが主人公です。 スマイルの透明化には色々説があるそうで、私は生まれつき透明化の能力(魔法のような効果)が備わっているという自己設定で書いてみました。 体液の関係で自らの身体を自在に透過でき、透過能力を使って自分の触れている物も透過できる、みたいな……。 |