ソラノテガミ

No reason

 短い音が連続的に鼓膜を揺らす。蝉の音がうるさい。肌に触れる空気は、人工的に冷却されていて冷たいが、蝉の鳴き声を聞いていると、聴覚から暑さが伝わってくるような感じがした。
 夏だ。夏至を過ぎた八月現在は、実のところ以前に比べてそう暑くもないのだが、何となく「一番暑い時期」のような気がしてならない。実際の感覚よりも、精神的に暑い。その暑さは近年ますます高性能になっていく冷房にすらぬぐえない。物理的にすべての事物が解決すれば、こんなに簡単なことはないのだ。
 例えば、今俺の目の前にある宿題の山もそうだ。物理的な時間で計算すれば、学生に与えられた夏期休業の間で十分終わらせられる仕事量である。しかし、夏休みも半分切った今頃でも、宿題は真っ白だ。
 物理的な事象で全てを片づけようとするお堅い真面目な人間には理解できないだろう。いかなる物差しでも測ることが出来ない物によって、俺は今支配されていた。
 すなわち。
「やる気が出ない……」
 ぽつりと、全ての根元である理由を口にすると、左のこめかみに鈍い衝撃を受けた。軽く、小突かれたのである。腰掛けたパイプ椅子の背もたれに寄りかかり、左を向く。小さな拳がそこにあった。
「香介君、ちゃんと真面目にやろうよ。せっかく、全部宿題の終わった私が付き合ってあげてるんだから」
 別に、付き合えとは、一言も言っていない。そう口に出しそうになるが、口で敵う相手でもないので、黙したままでいる。代わりに気のない返事をすると、納得いかないながらも、隣に座る少女は渋々視線を机の上に戻した。
 今やっているのは数学だ。アラビア数字が紙面に並ぶ。そこにギリシャ文字が幾つかくわえられていて、まるで外国語を学んでいるような錯覚に陥る。事実、この奇怪な文字の意味を知らないと話にならないから、先ずは外国語の勉強から入っていくわけだが。
 こんな所にもグローバル社会が存在する。世界はもはやあらゆる要素がごちゃ混ぜになっている。その中で俺たちはどれが真実なのかを決めあぐねて、さまよい続けている。この形のないバーチャル世界の中、俺たちは溺れていた。
 隣に座る少女、理緒が、数式の意味を解説していく。ルールで固められている世界を、けして規律を破ることなく、進んでいく。まるで、この世界を生きていくかのように。
 人間の手によって創り出された、架空の世界。それは、ルールによってのみ構成されている。骨も肉もない、あるのはただ、人間の描いた奇怪な造形だけ。その文字という形を媒体にして、数式という物は成り立っている。
 校則、条例、法律。ルールによって構成されるこの人間社会と、非常に酷似している。タダ違うのは、人間の社会は媒体が数字ではなく、人間だと言うことだ。
 数字は意志を持たない。そこにあるのは、必要最低限の意味だけ。自ら動くことはなく、人間がいじくり回すだけ。人間は意志を持つ。自ら動き、動かし、人間とは容易にルールを破ってしまう。
 だからこの世の中はこんなにも氾濫しているのだ。ルールによって構成されているはずが、そのルールは絶対的な物ではないため、世界はいともたやすく崩れていくのだ。
 俺たちは溺れている。その波から抜け出すことは出来ない。ルールは崩れているのに、ルールは確実に俺たちを縛り付けているから。
「香介君、聞いてる?」
「聞いてるよ」
「本当に? 夏休みが終わったら提出しなくちゃ行けないんだから、ちゃんとやってよ」
 ココにもまた、ルールが存在して、俺はそのルールに縛られている。そのルールをかいくぐって外へ出れば、今度はさらなる混沌が待っている。すがりつける、ルールという檻はもう内のだから。
 溺れるのが恐ければ、安穏と生きたければ、俺たちは檻の中で甘んじているしかないのだ。それが嫌ならば、溺れて息絶えてしまうのがイイ。
「なぁ」
 冷房のせいでからからになったのどから、空気をはき出す。理緒は「何?」と首を傾げた。
「数式と『俺たち』は、どちらが幸せだと思う?」
 俺たち。それは人間全体を揶揄する物ではなく、もっと小さな、限定された範囲を指す。肋骨の欠けた子どもたち、すなわち、「ブレード・チルドレン」。
 存在すら分からない「神」の意志によってばらまかれた、地上を血で埋め尽くすための駒。ある意味、運命という絶対的なルールに縛られ、周りの人間によって生かされたり殺されたりする俺たちは、人間よりもむしろ数式に近い気がする。
 理緒はあきれた顔でため息をついた。ノートを手に取り、それを上下に振る。俺の方に弱い風が吹いた。
「……何のマネだ」
「いや、暑さでついに頭がおかしくなったのかと思って」
 ついに、という言葉が多少気になるが、「そんなわけないだろ」とぼやいて、その腕を捕まえる。風が止まった。
 細い腕から手を放すと、理緒はまたため息をついた。
「数式は、数字でしょ。私たちとは物が違う。私たちは生きてるんだからさ」
 あきれたように力無くはき出される言葉は、どこか、自分自身に言い聞かせているかのような響きを含んでいた。
 俺たちは、生きている。いや、生かされている。むろん、一人では生きていけないのは当たり前だ。そうではなくて、俺たちはまだ殺されないでいる。非常に人間本意で納得のいかない立場だが、少なくともその人間たちに勝てないのならば、従うしかない。
 けして、自分の意志で生き抜いているわけではないのだ。ただ死ぬのは恐くて、このまま殺されるのは理不尽で。生きたいと強く思う。しかし、生きたい理由を聞かれたら答えられない。
 数字は、意味を持たなければ、存在していけない。ルールを超えた数字は、あっさりと存在を否定される。たった一つ用意された正解だけが、生き残ることが出来るのだ。それ以上でもそれ以下でもない存在。非常に無機質で、忠実で、安定していて、今の人間にはピッタリの下部だろう。
 「神」は嗤う。「お前たち」に価値はあるのか、と。
「人間て、ホントわがままで傲慢で、どうしようもないよな」
 それは、ある意味自分に投げかけた言葉であり、そして、神に投げかけた愚痴でもあった。天に向かってつばを吐いたら、自分に返ってくるんだっけ。そんなことを思い出して、苦笑した。
 俺は理緒からノートをひったくり、宿題の問題集を見て、数式を書き殴る。途中式なんてあったもんじゃない。省いて省いて、ずいぶんスッキリと答えが出てくる。多分、他人のレポートよりずいぶん薄いレポートが完成した。ノートを破き、ホチキスが今手元にないので、そのまま挟んでノートを閉じる。
「分かってるんじゃない、やり方」
「だから言っただろ? やる気が出ないんだって」
 理緒はもうあきれてため息すらもつかなかった。諦めたようにそっぽを向く。
「理由なんてそんなもんさ」
 人間て、ホントわがままで傲慢で、どうしようもない。大した意味もなく、感情だけで、簡単に自分勝手な道に進める。
 そもそも。意味なんているのか?
 意味がなければ存在できない数式とは、全く違う所。それは、俺たちは理由が無くても、生きていける所。
 勿論、科学的に見ていけば、「生きる」という現象を説明できる。結局理由があって俺たちは「生きて」いる。だけど、それは俺たちがどうにかしていく問題ではないのだ。人間は一つの生物なのであって、神ではないのだから。神様然として生きていく必要はどこにもない。むしろ、ただ滑稽なだけである。
 天を見上げても、噂の神様はどこにも見えない。どれだけ愚痴をこぼしたって神様に届いているのかすらも分からない。そんな奴をまともに相手にしている方がばかげている。よほど神を好きか憎んでいなければ、神を気にしながら生きていくのは、寄り道だ。
 意味なんかいらない。俺たちは数式ではないのだ。自分で動けるし、生きていける。そう信じたい。
 理由なんてない。
「さて、のどでも渇いたから自販機を探すか。お前は何か飲みたいか?」
 俺の言葉に、理を波乱欄と目を輝かせた。
「パフェが食べたい!」
 お前は、自販機でパフェを食べる気か。言葉の代わりに、何故か笑顔が浮き出てしまった。思わず「仕方がないな」と言ってしまう。
 いきなり予定変更、俺たちはカフェテリアを探して、公民館の、夏休みだけ開放されている小会議室を出た。
 理由はない。俺たちは歩き続ける。


Fin.