「黒の陽炎」



 急に大きな音が鳴った。
 今入ろうとしていた教室からだ。教室には誰もいないはずである。放課後使われる予定は特にないはずだ。あったのなら、一時間前に終えた帰りの会で先生が何か言い残したはずだ。念入りに掃除をしなければならないから。
 教室の前で跡部は立ちつくしていた。
 手にしたプリントを胸に押しつけるようにして抱える。職員室掃除の帰りで、先生に押しつけられた。明日の朝教室に持っていけばいいと言われたが、どうせなら帰る前に置きに行こうと思い、自分の教室までやってきた。
 跡部は私立氷帝学園初等部の四年生だ。
 四年生といえばクラブ活動も許可され、それに行く者もいる。たいていの者は帰ってしまう。基本的に金持ちの子供が多い氷帝学園では、わざわざ校内で活動する理由はなかった。やりたいことがあれば、家に帰ってから親にねだればいい。たいていが思い通りになる。
 それをせずに、あえてクラブ活動に励んでいるのは、物好きか庶民の子供くらいだ。
 初等部にいる児童はたいてい幼稚舎からの持ち上がりだ。跡部もそうである。それでも一部には一般家庭から受験で初等部に入ってきた者もいる。
 一般家庭の子を周りは庶民という。まるで、自分たちが特別だとでも言いたげに。
 特別なことなどあるものか。得体の知れない価値基準に吐き気がした。愚かな勘違いをしている者同士の、仲間という集団が、跡部は大嫌いだった。
 跡部は疎ましがられていた。透き通るような、色素の薄い髪に、青い瞳がその原因だった。ドイツ系の血が混じっているのだ。そのせいか日本人離れした顔は整っている。
 周りと違う顔をした跡部は、小学二年の頃辺りからのけ者にされてきた。集会でピアノ伴奏しても、掃除を一生懸命やりクラス長に立候補しても、誉めてくれるのは教師ばかりだ。
 跡部はとても良い家柄だからだ。教師に可愛がられる跡部が、同級生たちはなおのこと気にくわなかったらしい。
 そして跡部も周りに馴染む気はなかった。その気になれば他人に合わせることなど、好かれる人間を演じることなど、簡単だった。それでも跡部は孤立を選んだ。例え演技でも同級生たちと仲良くする気など起きなかった。
 教師は孤立した跡部に一層かまう。同級生たちは一層離れていく。悪循環の中に跡部はいた。
 はっきり言って、朝クラスメイトに「良いこぶりっこ」と冷やかされながらプリントを配るのは嫌だった。それなら、誰も見ていない放課後の方が良い。
 そう思っていたのだが、跡部は今までの嫌な気持ちも忘れて、真っ白になっていた。教室の中の物音にすっかり吹き飛ばされてしまった。
 泥棒かも知れない。それも強盗だったらどうしよう。人質に取られるだろうか。刃物で刺されて殺されてしまうかも知れない。最悪のシナリオが頭の中で一気に駆けめぐった。
 跡部は混乱する頭で一つのことを決めた。
 逃げよう。ここからすぐに立ち去ろう。
 数歩後ろに下がる。どこに逃げたら安全なのか考えていたが、ホワイトボードみたいに白くなった跡部の脳内に新しい文字は書き足されない。とっさに今来た方へと体を向けた。
「だれ?」
 遠くで声が聞こえて肩が飛び跳ねた。口の中で小さく悲鳴を上げる。寸前で、口を押さえて止めた。片手で口をしっかり押さえる。もう片方の手はプリントを握り締める。プリントを取り落とすことまではしなかった。
 おそるおそる背後を見た。異常なほどきれいに磨かれた白いタイルが続いている。壁には趣味の悪い絵画が飾られていて、下のプレートには寄贈者の名前が作者名より大きく刻まれていた。人影はない。
 空耳だと決め込んで、いよいよ跡部は逃げようと思った。心臓は激しく伸縮を繰り返す。
「だれ?」
 今度はすぐ傍で声が聞こえた。
 体が動かなかった。後ろを振り向くべきか否か、真剣に悩む。けれど、振り向く余裕は欠片もなかった。
 大声を上げて逃げ出せたらどんなに良かったのだろう。すっかりタイミングを逃してしまって、跡部の足は床から一ミリも浮かせなかった。床いっぱいに粘着テープが貼られているようだった。ゴキブリほいほいにかかったゴキブリの心境とはこんな感じなのかも知れない。くだらないことが頭をよぎる。
 振り向くのも怖い。前にも横にも動けずに、跡部は泣きそうだった。
 答えが返ってこなかったので、跡部の後ろにいた人物は教室の中へ入っていく。跡部は視界の端で白い人影が動くのを見た。
 思いの外小柄だ。同年代くらいの子供。明るい茶色の髪に、どこもかしこもはねまくった癖の強い髪。
 もしかしたらクラスメイトの一人だったのかも知れない。見覚えがある気がする。
 不意に、力が抜けた。前につんのめって、踏みとどまる。プリントは汗でしわしわだった。握っていた部分が濡れて黒ずんでいる。
 考えてみれば、声は高かった気がする。少なくとも強盗であるはずはない。ただ単にまだ教室に誰か残っていただけかも知れなかった。
 幽霊の正体が枯れ尾花だったのを見たみたいだった。風船から空気が抜けるみたいに跡部の緊張は一気にしぼんでいった。
 今度は恥ずかしさに心臓が脈打つ。不覚だ。急に物音がしたからいけないんだ。跡部は心の中で誰にともなく言い訳をした。
 顔は見られていないはずだから、ただ突っ立っていただけのように見えただろう。頭の中で先ほどの状況をシミュレーションする。みっともないところは見られていないはずだと何度も繰り返した。
 気を取り直して入り口に近づいた。すぐに足を踏み入れる勇気はまだなく、入り口の前に立つ。教室の中をそっとのぞいた。
 机は整然と並べられていて、帰りの会の後から動いた形跡はなかった。窓際の数列をのぞいて。
 窓際に、一人の少年がいた。机を並べて、そこをベッドのようにして寝そべっている。窓が開いていて、柔らかい風が入り込んできた。ライトブラウンの髪が揺れる。気持ちよさそうだ。
 後ろ姿を見てはっとした。紛れもなく知った人間だったからだ。同じクラスの少年だ。
 放課後にこの教室にいるのもうなずけるような気がした。大方安眠できる場所がほしかっただけなのだろう。教室は窓が南側にあって日当たりが良い。風もちょうどよく入ってくる。柔らかいベッドがないのが残念だが、寝ている本人はさして気にしていないようだった。
 跡部は教室の中に駆け込んだ。プリントを教壇の上に置いて、窓際に近づく。寝ている人物の顔をのぞき込んだ。
「芥川」
 呼ぶと微かに頭が動いた。跡部に顔が認識できるくらいに上を向く。その顔は、確かに毎日見ている顔だ。
 自然と跡部の顔がほころぶ。キュッと一文字に閉じられていた口元が、緩やかな弧を描いた。
 他の誰の顔を忘れても跡部は彼だけは覚えている。クラスで唯一心を許せる友人、芥川慈郎なのだから。
 知り合ったのは三年生の時だ。集会の伴奏をやってほしい、と当時のクラス長だった芥川に頼まれた。以来何となく一種通ずるところもあって、ずっと一緒にいる。親友と言っても良いかもしれない。ただし跡部にとっては、それを言うのはあまりにも気恥ずかしくて、口が裂けても言えないだろう。
 跡部は嬉しくなって、くすくすと笑いながら話しかけた。
「こんな所で寝るから、髪の毛に変な癖がついてるぞ」
 とはいえ、慈郎の髪は元から十分はねているのでどの部分が寝癖なのかはよく判らない。とても柔らかい。猫っ毛なのだ。
 思わず慈郎の髪の毛に手を伸ばす。慈郎がパッと顔を上げた。跡部は目を見開いた。
 跡部の手は振り払われた。軽い衝撃が妙に重たく感じられる。あまりにも信じられなくて、跡部は意識が遠のいた。
 少しバランスを崩す。体を支えるだけの余裕はなかった。後ろにあった机にぶつかった。反射的に机にしがみついて、何とか転ばなかった。床に座り込む。
 跡部が転びそうになったので慈郎は息を飲んだ。そこまで強く手を払ったつもりはなかったのだ。垂れた眉を眉間に寄せる。
「ごめん。ビックリ、したから」
 慈郎は跡部に手を差し出した。跡部の肩が少し揺れる。跡部は慈郎の顔を見上げた。手を取って良いものか、少し戸惑っていたのだ。
 少し触れてはすぐ離す。二回目で、ようやく跡部は慈郎の手を掴む。小さな手だった。先程まで机の上で寝ていたせいか、冷たい。
 こんなに冷たい手だったかと思う。慈郎はいつもうとうとしているからか、どちらかと言えば体温が高い。冬場は手袋をするより慈郎と手をつないでいた方が温かかった。
「ありがとう」
 立ち上がると、小さな声で言って、跡部は手を離した。
 制服のズボンをはたいたり、机を直して、所在なさげにぽつんと立つ。何となく声を掛けづらくて、跡部は黙っていた。
 どうして手を払われたのか考えていた。ビックリした、と言ったが、どうしてだろうか。跡部が慈郎の髪を触るのはよくあることだ。今まで慈郎は嫌がらなかった。むしろ、甘えるようにすり寄ってきた。クラスではどうも浮いた存在である慈郎だが、本来はとても甘えただった。
 寝起きだったから、ビックリしたのだろうか。何か納得がいかなかった。目の前にいるのは、実は慈郎ではないのではないだろうか。そんな疑念さえあった。
 考えている内に表情が硬くなっていたのだろうか。慈郎は不安げに口を開く。
「本当に、ごめん。知らない人が、急に近づいてきたから」
 跡部は首を傾げた。
「知らない人? どこにいるんだ」
 慈郎はきっぱりと言った。
「君のことだよ」
 跡部は、泣いてしまいたかった。
 耳をふさぎたかった。非情にも、かしこい跡部はすぐにその言葉を理解してしまった。
 何のつもりで言っているのかまるで判らない。慈郎に悪気があるようには見えなかった。かといって冗談でもなさそうだった。本当に慈郎の中から跡部が消え去ってしまったかのようだ。
 どうしてとめることができただろうか。できるはずはなかった。跡部の頬を熱い物が流れていった。次から次ぎへと流れていって、止まらなかった。
 涙はわき水のように溢れていて、ついにはか細い声が漏れた。何かの鳴き声みたいな声が止まらない。跡部は手の甲で涙をぬぐった。すぐに新しい涙が流れる。手がぐしょぐしょに濡れただけだった。
「え、っと」
 慈郎がうわずった声を出す。どう声を掛けて良いかが判らなかった。慈郎にはなぜ泣いているのかがまるで判らなかった。
 跡部は悲しくて悲しくて仕方がなかった。慈郎が跡部を忘れてしまったのだ。それどころか、初めからいなかったかのように言う。
 置いて行かれたように感じた。ひとりぼっちになった気がした。拒絶されたときの気持ちに似ている。存在を認めてもらえなかったのだ、もしかしたら拒絶されるよりも衝撃を受けたかも知れない。
 どうして跡部を知らないと言ったのか、跡部には判らなかった。どうして跡部が泣いているのか、慈郎には判らなかった。
 二人とも何も判らなくて、ただ黙っていた。時々慈郎が何かを言おうとするが、結局言葉が見つからなくて、何も言わずにまた黙った。
「あのね」
 慈郎は必死で何かを伝えようとする。
「俺は何も判らないんだ。知らないんだ。ずっと寝ていたから」
 跡部は自分の泣き声のせいでよく聞き取れなかった。聞きたくないような気がして、一層大きな声を上げた。
「俺はずっと寝ていたんだよ。そうだ、今俺は何年生なの?」
 跡部は答えない。答える代わりに泣いている。慈郎は困って、跡部の顔をのぞき込んだ。跡部はそっぽを向いてしまう。
 入り口の方と跡部の方を見比べる。慈郎は机の上から下りた。バラバラに置いてあった上履きに足をつっこむ。左右が反対では着心地が悪かったが、気にせず教室の外に出ていった。
 跡部は少し手を離して、視線だけで慈郎の姿を追った。湿った視界はぼんやりとする。ぐにゃぐにゃ曲がって見えたが、慈郎の背中ははっきりと見えていた。教室の外へ行ったのを見てますます涙がわいてくる。
 いよいよ見放されてしまったのだ。跡部は大声を上げて泣こうかとも思ったが、慈郎はすぐに帰ってきた。
「俺って今四年生?」
 意味が分からなかったが、拍子抜けして跡部は小さく頷いていた。慈郎は「そうか」と何かを納得したようだった。
「俺、半年くらいずっと眠ってたんだよね」
 まったく意味が理解できずに、あからさまに首を傾げた。慈郎はなかなか伝わらないもどかしさに地団駄を踏む。
「最後の記憶は、全校集会の準備かな。クラス長をやってて、先生に伴奏を誰かに頼んでおいてね、って言われたのは覚えてる。でも、誰に頼んだかは覚えてない。その後から俺はずっと寝ちゃってたんだ」
 やっと知っている内容が出てきて、跡部は小さく答えた。小さな唇が微かに動いて、泣き声とは違うちゃんとした言葉が発音される。しかし涙でどろどろになった声は、かすれていたし、にじんでいて、聞き取りにくかった。
 慈郎は「え?」と聞き返して、手を耳に当てる。前屈みになって跡部に少し近づいた。
 今度は大きな声で言う。
「俺が、伴奏やった」
 忘れもしない、慈郎と初めてまともに言葉を交わしたとき。お互い面倒ごとを押しつけられただけの出来事なのであまり話題には上らないものの、お互いに忘れたことはないと思う。
 家柄、跡継ぎ、思えばずいぶん重たい物を背負わされていたと思う。一人っ子だからなおさらだ。昔は疑問にも思わなかった。どうして生きているという感覚がないまま生きているのか。
 当たり前だ、跡部が歩んできた幼少期は跡部の人生などではなかった。他人が押しつけた、他人の人生にすぎなかった。
 たぶん、全てはあの瞬間から解放されたのだ。跡部はようやく、自分の生き方というものを見つけたのだ。
 跡部はポケットからティッシュを取り出して鼻をかんだ。水っぽい鼻水が出ていって、鼻腔がすっきりする。反対側のポケットからきれいにアイロンが掛けられたハンカチを出して、涙を拭く。いつの間にか涙は止まっていた。
 慈郎は安堵したように笑った。いや、むしろ嬉しそうだった。
「ありがとう」
 ぽつりと、慈郎が言う。跡部は咳払いをして「何がだ?」と問い返した。泣いた直後のせいで声が少し変だった。
「俺はもう嫌だったんだ。何も考えずに面倒ごとを押しつけてくる先生も、自分はやりたくないから逃げていく生徒も。全部投げ捨ててしまいたかった。いっそ壊してしまいたかった」
 うつむいて、慈郎は懐かしむように虚空を見つめる。微かに伏せた瞳に、まつげがかかる。
「でも、君が助けてくれたんだね。おかげで俺はよく眠れた。こんなに気持ちよく眠れたのは初めてだ。ありがとう」
 慈郎の表情は、とても嬉しそうだけれど穏やかで、不思議だった。どことなく大人びている。跡部は同じ背丈の慈郎を見上げているような、奇妙な錯覚を覚えた。慈郎が大きく見えた。
 よく眠り、よく笑う、いつもの子供じみた慈郎からは想像もつかない。目の前にいるのは一体誰なのだろう。跡部は不思議で仕方がなかった。
 目の前にいるのは、確かに慈郎だ。しかし慈郎ではない。慈郎であって、慈郎ではないのだ。
 跡部のどこかの器官が叫んでいた。たぶん第六感だろう。見えない何かが、目の前に人物を慈郎ではないと告げている。
 それほど長いつきあいをしているわけではない。数えてみれば、ほんの半年ほどにしかならないだろう。それでも跡部には遠目から見ても慈郎を見間違えないくらいの自信はあった。
 慈郎は空気のような少年だ。いつの間にか傍にいて、いつの間にか眠っている。跡部には空気のように自然で、大切で、包み込んでくれる存在だった。
 少なくとも、目の前にいるのに奇妙な違和感を感じるはずはないのだ。
「お前は、一体……誰なんだ?」
 気づけば、勝手に言葉が口を出ていた。跡部は慌てて口元を押さえる。しかし出てしまった言葉を飲みこむことは出来ない。
 奇妙な問いかけをした。ただの思い過ごしかも知れないのに。それどころか、ただの妄想にすぎないのかも知れないのに。慈郎が跡部を知らない、と言ったときと似たような状況だ。
 そこで慈郎が笑い飛ばしてくれれば良かったのだ。「まだ根に持ってるの?」とか、「冗談きついよ」とでも言われれば、全ては今日限りの出来事として収まったはずだ。一つの笑い話として。それはそれで屈辱的だったが、それにしても、笑われた方がまだ良いように思えた。
 慈郎は、笑った。
「そうだったね。まだ自己紹介をしていなかった」
 さも当然のように、跡部の言葉を受け入れる。いや、当然なのだ。跡部は今日、彼と初めて出会った。慈郎ではない、慈郎に。
 頭の片隅は妙に冷静だった。奇妙な現状を、一番現実的に受け止めていた。
 ああ、目の前にいるのは「違う慈郎」なのだ。
 全てが上手く納得できる。彼が跡部を知らないのも、雰囲気がまるで違うのも、何もかも。
 勘違いをしていたのは跡部の方なのだ。目の前の慈郎を慈郎と思いこんでいたのは跡部の方だったのだ。
 慈郎は冷たい手を差し出す。表情は穏やかだがいつものような暖かみはない。相変わらず逆に上履きを履いているので、足の形が変だった。急いで履いていたためかかとも潰している。
 並べば慈郎の方が少しだけ小さい。なのに慈郎は大きく見える。視角と感覚のパラドックスに跡部は気味が悪く感じた。
 思わずして一歩後ずさる。ほんの少しだったので、幸い慈郎は気づかなかったようだった。
「初めまして。俺は芥川慈郎。君は?」
 一瞬迷った。名乗って良いのかどうか。ほんの一瞬だった。
 決定権などなかったのだ。
「――跡部。跡部景悟」
 そっと慈郎の手を握る。軽く握手をしてすぐに離した。
 固かった。冷たくて固い手だ。跡部の手のひらに汗がにじむ。人形のような手だ、と思って、はっとした。
 なぜ気味が悪いのか判った気がした。人形のようなのだ。笑っているのに、その奥の感情が見えない。表情だけで笑っているような、妙な不気味さ。
 まるで陽炎が揺らめいているかのようだった。明白に読みとることの出来ない存在は、陽炎の向こう側にある風景のようだった。
 陽炎の向こう側にいる、別の慈郎。跡部はかいま見てしまった。
 陽炎の向こう側で、慈郎は相変わらず微笑んでいる。一瞬、慈郎の笑みが深くなったような気がした。
 現実に慈郎が笑っていたのか、それとも跡部の妄想なのか、跡部自身にも判らなくなっていた。意識が精神と肉体の間を彷徨っている気分だ。
 ただ急に現実に引き戻された。慈郎の体が傾いたのだ。後ろへ向かって体が流れていく。色が切れた操り人形のように、慈郎はまるで反応する気配がなかった。
 跡部の心臓が跳ね上がる。スロー再生されたビデオ映像を見ている心境だった。声を上げる間もない。驚く暇さえもなかった。
 跡部は一瞬にして覚醒した。ぼんやりとする意識を引き戻して肉体に収納する。視界がクリアになった。陽炎はもはや見えなかった。
 しかし、実際はほとんど無意識だった。無意識の内に前傾して、飛び込む。
 慈郎の腕を掴むが、今度は体がよじれる。慈郎の頭が机にぶつかりそうになった。腕を引っ張るが跡部の力では慈郎を引き寄せられない。背中にしっかり腕を回して慈郎を抱え込む。バランスを崩し倒れそうになるが、跡部は机に手を付いて持ちこたえた。
 幸い、お互いに怪我はなかった。跡部はどこも痛くないし、慈郎も何事もなかったかのように規則的な呼吸をしている。
 ふと違和感を覚えた。普通に呼吸をしていれば呼吸の音などあまり聞こえないはずだ。ところがきっちり規則正しさが伝わってくる。
 跡部は嫌な予感を覚えた。思わず顔をしかめて、腕の中の慈郎を見下ろす。
 予想通りに、目を閉じて薄ら笑いを浮かべながら、気持ちよさそうに眠りこける慈郎の顔がそこにあった。
 何となくむかついたので跡部は手を離した。慈郎は近距離から床に激突する。軽く音が鳴った。
「痛いっ!」
 一瞬遅れて慈郎が悲鳴を上げる。後頭部を両手で抱えて飛び上がる。放っておいたら眠り姫も驚くほど眠っていそうな慈郎にしては素速い覚醒だ。
 慈郎は後頭部を押さえてうずくまる。声にならない悲鳴を上げる。さすがにやりすぎたかと跡部は思ったが、腹立たしさを思い出すと、これくらいしても良いような気もした。
 訳が分からず慈郎は左右を見る。上を見て、机が並べられているのを見た。床と机を交互に見る。机の上で眠っていたことは思い出したらしい。
「跡部、僕、落ちた?」
 目をしばたたき、慈郎は跡部を見上げる。言葉が足りなくて、跡部は理解に苦しんだ。
「寝相は悪くないはず何だけど」
 跡部は慈郎が頭痛の原因について言っているのだと理解した。それでもまだつながらない。慈郎が頭を打ったのは跡部が手を離したせいだが、そもそも慈郎が勝手に倒れたのだ。普通に跡部と会話していたときに、いきなり。
 跡部が見たとき慈郎はすでに寝ていたが、急に眠りに落ちたとでも言うのか。うたた寝をして、倒れ掛けたのだろうか。急に目覚めて、意識が混濁していているのだろうか。
 ふと思いついて、跡部は口を開いた。
「芥川、お前、途中で起きたか?」
 慈郎は小首を傾げる。
「起きてないけど。何で?」
 やはり、覚えてないようだ。きれいさっぱり切り取られているのだ。別の慈郎が活動していたときの時間は、全部。
 慈郎と「慈郎」はまったく別の人間という扱いになっているのだろう。もしかしたらお互いにお互いの人格を知らないのかも知れない。「慈郎」も、半年間寝たままだったと言った。慈郎が行動していたときの記憶は受け継がれないのだ。相手が行動していた部分は「眠り」として認識される。
 なぜ慈郎がよく眠るのか、判った気がした。眠りがスイッチなのだ。だから、「慈郎」が去ったとき、唐突に眠りが訪れた。
 慈郎は訳が分からないと表情で訴えていた。演技のようには見えない。本当に覚えていないのだろう。「慈郎」の話題を口にするのは無駄だった。
 なかったことにしてしまおう。跡部はそう心に決め込む。慈郎の前で、「慈郎」の話題は口にしない。話しても話が通じないし、何よりも触れてはいけない部分であるように思えた。
 それに――あいつには、泣き顔を見られた。
 実の所、それが一番の理由だったりもする。覚えていないのならわざわざ話してやる必要もない。また「慈郎」が出てきたときにでも口止めしておけばいいのだ。
「ねぇ、一体何のこと?」
 慈郎にズボンの裾を引かれて、跡部は視線を下ろした。少しすねたように唇を突き出す。いつもの子供らしい表情だ。いつもの慈郎が、ここにいる。
 跡部は呆れたような安心したような、よく判らない表情をした。これが、苦笑というやつなのだろう。たまらなく安堵する。やはりこれが一番だと思った。
 どこでも寝るし、勝手にどこかへ行くし、かといって動き出せば、人一倍はしゃぎ倒す。知り合ってから色々苦労させられてばかりだ。まだまだ知らない面もあるし、これからもきっと苦労するに違いない。
 そんな慈郎で良いのだ。そんな慈郎が良いのだ。
「何笑ってるんだよー」
 跡部が答えなかったことが不服だったのか、慈郎は跡部の両頬をつまむ。顔の皮が引っ張られて、口も目も横に細長くなった。
「うわ、傑作」
「あふかがわ……」
 口が自由に動かないせいで、発音も何か間抜けだった。それを聞いて慈郎は大口を開けて笑った。至近距離で笑うものだからツバが飛んでくる。
 前言撤回。慈郎はもう少し落ち着きがあった方が良いと思う。
 胸の奥に沸々とわき上がる怒りを抑えながら、跡部はさてどうしようかと考えていた。
 一体どう言えば慈郎は納得してくれるだろうか。上手い言い訳はないかと模索する。妙なところで勘が鋭い慈郎だ、一筋縄ではいかないだろう。かといってはぐらかしても、うるさく追求してくるだろう。
 とりあえず、頬をつままれたままだと気に入らないので、跡部は思いきり慈郎の頬をつねり返してやった。



FIN.



 慈郎二重人格ネタです(もちろん捏造)。黒慈郎と白慈郎を両方書きたくて勃発しました。でもあまり黒くないです。だって慈郎ですから。
 どうにか二重人格であることを説明しようとしたらだらだらとした話になってしまいました。場面転換が一つもないのに、同じ場所でどれだけワイワイやっているんでしょう。読みづらくて大変申し訳ないです。
 テニスの王子様は正直そこまで詳しくはないのですが、ついうっかり慈郎にはまってしまいました。今では慈郎が可愛くて仕方がありません。慈郎愛!



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