「卵」



何かがはじけるような激しい音を立て、手のひらは振り下ろされた。
机の上にある紙が衝撃に巻き込まれる。
カラフルに彩られた紙には写真と数字が並べられていた。
つややかな表面を見るも無惨にぐしゃぐしゃにされたその紙は、いつぞやの新聞に挟まっていたチラシだった。

でかでかと書かれているのは今日の日付だ。
住所はこの近く。
店名も、確かに近くで見たことのある名前だった。
主に食品関係が驚くほど安い。
数字が赤と黄色で痛いほど強調されていた。

机の上に置かれた手が紙ごと強く握りしめられる。
だんだんと縮小しつつ、チラシは原型を失っていく。
細いけれども長い、器用そうな手が、不釣り合いに荒々しく紙を丸め込んでいく。
両手で念入りに潰せばがさがさと耳障りな音がする。
対峙する人物に対して訴えかけるかのようにして、わざと騒々しい音を立てていた。
拳よりも小さくなり、固く凝縮された紙を握りしめ、ヒューはもはや見飽きた顔をにらみつけた。

「どういうことだ」
低く発音する。
切れ長の瞳を細め、眉間にしわを寄せる。
顔が整っている分、迫力がある。
日本人のものではない青い瞳がきらめいた。

険しい表情を見て、当のにらまれている本人は、懐かしいなと思った。
高校時代、お互い荒れていた時期を思い出す。
思えばそのころからの腐れ縁だ。
金の都合でルームシェアとなってからは毎日顔を合わせている。
お互いやりたいことを見つけた今では、すっかり見なくなっていた表情だった。

2LDKのアパートが二人の家だった。
二つの部屋はそれぞれ二人の個室として使っているが、今彼らがいるのはリビングダイニングだ。
とはいえ、それほど広くないそこは、三人の人間が立っている今、とてもこぢんまりとして見えた。
玄関を入ればすぐに台所の目の前に置かれた机が目に入る。
その机を挟むようにして、ヒューとその同居人……ハジメは対峙している。

全く持って蚊帳の外に置かれたエイトは、何でも良いから中途半端な状態から脱出させてくれ、と思った。
家に上がることもできず、外に出ることもできず、エイトは今玄関に立たされている。
靴も脱げない状況だ。
一応立場的には客人であるはずなのに、どうしてこんなにも……文字通り立場がないのだろう。
足下に置いた買い物袋を膝でつつき、エイトはポケットの中に両手を突っ込む。
こんなことならハジメの買い物につき合うんじゃなかったと、根本的なところから後悔し始めた。

「たった十九円だろ!」
ヒューに負けじと気を張って、ハジメは言い返した。
自分より背の高いヒューを少しでも威嚇しようと背筋を伸ばす。
ヒューも元々良い姿勢をさらに整えた。

結局、二人は仁王立ちになっていた。
完全に立ってしまうとヒューの方が拳一つ分ほど高い。
ヒューが勝ち誇るように口角をつり上げた。
その笑みが何を意味しているのか感じ取って、ハジメは奥歯を思い切りかんだ。
「何をっ」
「ところでさ」
ハジメの言葉を遮るようにして、エイトが少し大きめの声で言った。
部外者故に二人のやりとりに口を出す気はなかったのだが、だんだんヒートアップしていきそうな雰囲気にさすがに黙っていられなくなった。

ハジメは彼を恨みがましそうににらみつける。
買い物につき合わせて、荷物持ちまでさせた奴の態度とは思えない。
一つのことしか見えないハジメは、そんなことにまで気が回らなかった。
「何だよ、エイト」
口の端を曲げて言うハジメは、まるですねた子供のようだ。
ヒューもハジメも、エイトより一つ上である。
しかも彼らは社会人で、エイトはまだ学生。
エイトはきれいに色素の抜けた銀髪をかき、ため息をついた。
「……一体何の話?」

エイトはたまたまこの家に寄っただけのことであった。
元々ハジメとは同じ大学であり、ハジメと同居しているヒューとの面識もある。
家に来るのも初めてではないし、荷物持ちのついでにと、軽い気持ちでやってきたのだが……。
どうやら今日は日が悪かったらしい。

ヒューは手の中の紙を軽く宙に放った。
落ちてきた紙を手のひらに収めてから答える。
「ハジメの奴がよ、このチラシ見落としやがって」
そしてチラシだった物をエイトに見せつけた。
さらにヒューはチラシの端を丁寧に伸ばして開こうとする。
力の限り丸められたチラシは広げても読めそうにないので、エイトはその動作を中断させた。
「それで?」
口を出そうになるため息を飲み込み、先を促した。

つなげたのはハジメだった。
「卵が安かったんだ」
ヒューは大きく頷く。

エイトは頭を抱えてその場に屈み込んだ。
「エイト、どうした!」
ハジメが心配そうに顔をのぞき込んでくる。
頼むから放っておいてくれ、と言いたかったが、そんな気力もない。
ヒューが不審な目で見下ろしてくるが、かまっていられない。
呆れかえる気持ちだけがエイトを満たしていた。

「それで、十九円っていうのは?」
「俺、さっき卵買っただろ?」
言われて、エイトはそういえば買っていたと思い出す。
ハジメと一緒に寄ったのは近所のスーパーだった。
そこで安売りの品を数点買って、帰宅した。
まだ冷蔵庫に収めていない食料がこの足下のビニール袋に収まっている。
帰ってきてすぐに論争が勃発したから入れる暇がなかったのだ。

不機嫌そうにヒューが言い放つ。
「チラシの店の方が、十九円安かったんだよ」
「十九円ぐらいどうだって良いだろうが!」
ハジメが吠える。
もうどうやってフォローして良いかが判らなくて、エイトは黙って二人の幼稚な言い争いを聞いていた。

「十九円をなめるな!
俺たちは日々一円でも多く節約しなくちゃならないんだよ!」
「じゃあお前が行けよ!」
「あいにくハジメと違って忙しいんでね」
「俺より給料安いくせしてよく言うぜ」
「地方公務員なんて税金のぼったくりじゃねえか!」
「何を、もう一回言ってみろ!」

右から左へと流れていく会話。
あまりにも低次元すぎて口を挟むのも阿呆らしかった。
しょせんは金がないのである。
でなければルームシェアなどやっていない。
新米教師のハジメと整備工場で働いているヒューでは、二人合わせても所得はたかがしれている。
だからといって約二十円にこだわらないといけないほど貧乏であるわけではない。
ただ単に二人が節約生活に感化され、金勘定にうるさくなっただけだ。
貧乏だったのはむしろハジメが学生だった時代だ。
ヒューはすでに働いていたものの、ハジメに所得がないため、二人はどうしても質素な生活を送らざるを得なかった。
その風習がハジメが就職した今でも消えずに残っている。

つまるところ、二人は似たもの同士で。
だからこそ共同生活が送れているし、よく喧嘩もする。
まともにかまう方が馬鹿なのだ。
「もう、いいからさぁ」
耐えきれなくなってエイトは口を開いた。
「外、行こう」
エイトの提案に二人が同時に顔を向ける。
「何で?」
問いかけるのも同時だ。
それがしゃくに障ったのか、二人は無言でにらみ合う。
また冷戦状態に突入する前に、エイトは最終兵器を投下した。

「飯、食いに行こうぜ?」
「え、どうして」
ハジメの方が声を上げた。
「何なら今から作」
「おごるよ」
エイトが言うと、しばらく硬直する。
ヒューもハジメも、言葉を失った。

だいぶ間をおいて、ヒューがきらきらと目を見開いた。
「マジで!」
あまりにわかりやすい反応に、エイトは苦笑してしまう。
ハジメも後輩相手におごってもらうのは良心が痛むようだが、顔がにやけているのは隠せない。
先ほどまでの不機嫌さが嘘のように二人は笑っている。
単純、明快、素直、天然。
口に出したら怒られそうな単語の羅列が頭の中をよぎる。

いや、これからおごってやろうというのだから、少しぐらい何か言っても罰は当たらないだろう。
エイトはこみ上げる笑いを抑えきれずに顔をゆがませた。
「あんたらって本当に判りやすい」
似たもの同士だと言ったらさすがに双方から反論されるので、抑えておく。
ヒューは「金には変えられん」と言ってうきうきとビニール袋を回収して台所の横にある冷蔵庫まで持っていく。
鼻歌交じりに食材を冷蔵庫へとしまい始めた。
相当機嫌がいいらしく、エイトの言葉に対して文句の一つも出ないのは珍しかった。

台所の方へ隠れたヒューの背中をうかがいながら、ハジメがエイトに歩み寄る。
少しかかとを上げて、背の高いエイトの耳元に顔を近づける。
「あとで割り勘しような」
小さな声でそう告げてから、台所の方へ駆けていった。
エイトにおごらせる形になってしまったことが気になっていたらしい。
ハジメの思いやりに、エイトは「これだから」とぼやいた。

やっかいな性格の二人だけれど、友達はやめられない。
不意に寄せられる思いやりが暖かい。
騒がしいけれどそれが楽しい。
貧乏くじを引かされているのは判っているけれど、それ以上に今の関係が心地よい。

今度来るときは晩飯でも作ってもらおう。
自立してから結構立つため、二人は意外と料理がうまい。
最初は――特にハジメが――かなり壊滅的だったらしいが。
寒い季節になってきたから、鍋なんかがうまいだろう。
ぼんやりと考えながら、玄関に向かい二人が身支度を済ませるのを待つ。

玄関には、でかい靴が三足ある。
ヒューのとハジメのとエイトのだ。
こうして並べてあると、まるで三人で一緒に暮らしているみたいである。

なんだか嬉しくなって、エイトは三足分の靴を一列に並べてみた。
この玄関をくぐり抜けるまで、少しの間エイトは二人の家族になった気分になった。



FIN.



ちょっと短めのヒュー&ハジメ同居話。
大好きなハジメとヒューをどうしても一緒に出したくて、同居という暴挙に出ました。
これからはこの同居設定を基盤に小説を書いていきます。
というか、設定を小説という形で紹介したくて書いただけの話でした。



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