何が面白いのか、奴はよく俺の前髪をかきあげてくる。
長すぎる前髪はいつも視界を覆っているけれど、あまりうざったいとは思ったことがない。
むしろないと少し不安だ。
この世界はとてつもなく広いから。
俺の手が届くのは、そのほんの一部分だけだから。

広大な世界の、ほんの一部の場所にしか俺は行けない。
広大な世界の、ほんの一部の時間しか俺は生きられない。
人間から見れば俺はよほど長生きだ。
それでも足りないんだ。

永久にも等しき命を持つ、彼らの傍で生きるには。

俺の時間は、あまりにも脆弱すぎた。



【Distance】



目新しいメニューは載っていなくて、俺はろくに内容も読まずにページをめくった。
買い物に行ったついでに何となく寄った本屋で買った料理の本だ。
店に行くと、不要なのにどうしても買いたくなってしまうもの、というのがあるだろう。
俺の場合それは食材と料理の本だった。

つい新鮮な野菜を見ると、頭の中で料理法を巡らせている自分がいる。
それを実行してみたくて、つい買ってしまう自分がいる。
俺と後二人が住んでいる城には、十分食料があるのに。
食材を消化するため、沢山料理を作っては、「多すぎる」とよく城の主である同居人に怒られた。
それでもおいしそうに全部平らげてくれるのだからやめられない。
少し気になることと言えば、いくら食べても太らないどころかやせている身体くらいか……。

食材の場合はそうして身になるから良いものの、料理本の方はたまる一方だ。
普通に置いてある料理本のレシピならあらかた覚えてしまった。
今見ている本にも、過去に見たことのある料理ばかりが載っていて、目新しい物は何もない。
しかし料理に対するどん欲な自分の好奇心はいつまで経っても満たされない。
常に何かを求めている。
それを満たそうと料理の本を買ってはみるのだが、結局は満たされずに終わるのが常だった。

かなりのハイペースで読んでいるので、もう本は読み終わってしまいそうだった。
買い物から帰ってきて、まだ三十分ほどだというのに。
どうして無駄だと判っていながらも買ってしまうのだろうか。
自分の弱い心にため息が出てくる。

ふいに、視界が開けた。
緑色の前髪が押しのけられて、白い光が飛び込んできた。
前髪を下ろしていたせいで少しまぶしく感じる。
一つ瞬きをして、視界を少し上にずらした。
そこにあるのは白い三日月。
それが白い歯の羅列であることはよく見なくったって判りきっている。
俺の前髪をかき上げるのが好きなあいつが、目的を果たせて笑っているのだ。

俺は前髪を押さえつけているであろう奴の手を振り払う。
確かに人の腕の感触がそこにはあったが、見えないのでよく判らない。
透明人間である奴はちょっと意識を巡らせただけで意のままに透明になることが出来る。
支える物がなくなった前髪がはらりと落ちてくる。
またすぐにかき上げられる。

らちがあかないので、俺は料理の本を閉じてしまう。
両手で素速く見えざる腕を捕まえた。
速さなら負けはしない。
俺だって狼人間だ。
身体能力だけなら、透明人間よりも勝っていた。

細い腕をきつく握り締める。
目の前の三日月が歪んだ。
「イタズラする子はどこっスか〜?」
どこ、と言っても目の前にいるのだが、姿が見えないのでどうも不思議な気分である。
逃げようと相手がもがいているのが判るが、総簡単にふりほどけるほど俺の力は弱くない。
相手に反撃されない内に(この間腕を噛まれた)、俺は最終兵器を使うことにする。

「そんな子は、ご飯抜きっスよ!」

俺が言うと、瞬く間に青いシルエットが目の前に現れた。
紺に近い髪の毛に真っ青な肌。
至る所に包帯が巻き付けられているので、姿を現すと包帯男にも見える。
現れたのはやはり、同居人であるスマイルだった。
瞳だけが赤かったが、涙が浮かんだ瞳は、白目までも赤みがかっていた。

「え〜、ヤダヤダ!」
子供のようにだだをこねて、スマイルはやっと前髪から手を離した。
同時に腕も放してやる。
少し強く握りすぎたか、掴んでいた部分が赤くなっていた(つまりほんのり紫色)。
「アッシュの飯が食えないなんて、絶対に嫌だ!」
頬をもっと赤くして、手足をじたばたさせる。
話を聞く限りでは俺よりもずっと年をとっているはずなのに、弟を見ている気分になる。
瞳が潤んでいたのでこれ以上からかうのはやめておく。
「冗談っス。
でもこれ以上イタズラしたら……」
「判ったよ!
今日はもうやらない!」
今日はって、明日はどうなんだ。
非常に気になる所だったが、本人は非常に反省しているようだ。
仕方がないので許してやることにする(もしかして、これだからなめられるのかも知れない)。

気を取り直して、お菓子でも作ろうか。
料理の本は机の上に置いて、イスを立つ。
「あれ? もう読まないのか?」
不思議そうにスマイルがのぞき込む。
それを言われてしまうと非常に痛いところではあったが、俺は頷いた。
「何で?」
さらに痛いツッコミが帰ってくる。
立った今スマイルをしかった手前、無駄遣いをしたとは何だか言い難い。
だからといって良い言い訳も見つからない。

しばらく黙っていたら、もう一度「何で?」と聞かれた。
これ以上黙っているのも返って都合が悪いだろう。
どうせごまかすのは俺の性分じゃない。
「……何となく、買ったけど。
結局似たような内容だったんス」
まだ諦めがつかなくてまごついてしまったが、スマイルは気にも留めず「ふーん」と呟く。

料理の本をぱらぱらとめくって、ぽそりと呟いた。
「残念だねぇ……。
アッシュの新しい料理、食べてみたかったけど」
机に上に上半身を預けて、半分寝そべりながら本を眺めている(読んではいないだろう)。
少しすねた顔だった。

妙に共感した。
また新しいレシピは載っていなかった。
とても残念で、少しすねた気分になった。

ああ、俺もそういう気持ちだったんだ。
無駄だ何て思っちゃいない。
期待しているから買ってしまうし、裏切られたらがっかりする。
素直に感情表現できるスマイルがうらやましかった。
透明人間なのに、その感情はよほど判りやすい。

スマイルは写真だけ見てどんどんページを飛ばしていく。
紙がこすれる音が次々と流れる。
ふと音が止まった。
そちらに視線を向けてみると、スマイルがきらきらと輝いていた。

きらきらした瞳をすごい勢いでこちらに向ける。
思わずビックリしてしまった。
「アッシュ、アッシュ!」
本を持ったまま激突せんばかりの勢いで駆け寄ってきた。
本当にぶつかりそうだったので、スマイルの肩を掴んで動きを止める。
スマイルのきらきらした瞳が間近にあった。
得体の知れない迫力に押されて、言葉に詰まる。
よく見たら口元もきらきらしている。
よだれが垂れかかっていた。
あーもう、いくつだこいつは。
「よだれよだれ」と指摘してやると、スマイルは慌てて唾を飲みこんだ。
俺の目の前に、ずっと握り締めていた本を掲げる。
サツマイモで作るデザートが載っているページだった。

「あのね、これ食いたい!」
これ、と言って指さしたのは、スイートポテト。
紫芋や他の食材を使って色鮮やかに仕上げてある。
以前作ったことがあるはずだが……。
「前に食ったことなかったっスか?」
スマイルはこくりと頷く。
「すっごくおいしかった。
ここに載ってるやつ、すんげーカラフルで旨そう。
食いたい!」
本越しにでも、スマイルがとてもきらきらしているのが判る。
好物を目の前にした子供のようだ。
俺の料理がそこまで気に入ってもらえて、光栄だな。
嬉しくなって、俺まできらきらしてきそうだ。

「いいっスよ」
「本当?!」
本を受け取りながら答えると、スマイルはタックルする勢いで飛びついてきた。
不意に飛びかかられたので一瞬バランスを崩しそうになる。
そうかと思えばパッと離れて、両手をぱたぱた振りながらどこかへ走り去っていく。
大変なはしゃぎようだ。

これは久しぶりに気合いを入れようかな?
本に書いてある以上にアレンジを加えて、スマイルをあっと言わせてやろう。
喜んでもらえれば嬉しいのだが。
いや、きっと喜んでくれるんだろう。
そう思うと、料理をするこちらまでわくわくしてくる。

どこか遠くで、スマイルがもう一人の同居人、ユーリを呼んでいるのが判った。
いくら食べても太らない、あの吸血鬼が出てくるとなれば、沢山作っておく必要があるだろう。
いよいよ手が抜けない。
もちろん俺は、いつでも全力だけど。

三人で過ごす、この時間が良い。
はしゃいで、呆れて、それでも楽しくて。
気づけば一緒にいた、腐れ縁。
例え俺は、その中に長くはいられないとしても。
まだ世界の果ては見たくない。
今はまだ、この世界だけが俺の目に映ればいい。

永久にも等しき命を持つ、彼らの傍で生きるには、俺の命は短すぎるけれど。
俺が死ぬ時まで、この日常が続けばいい。

俺は長すぎる前髪を下ろした。
見えるのはごく近辺だけで、周りはあまり見えない。
それで良い。
この日常が一番大切で、一番好きだから。

まだ俺の命が果てる未来など、見えなくて良い。




END.



莢香さんが最近ポップンミュージックが好きだと言っていたので、つられて書いてしまいました第二弾。
アッシュが一番書きやすいのですが、その他にユーリを出すかスマイルを出すか、少し悩みました。
スマイルの方が好きなので、結果スマイルに決定。
私の中でユーリは男前です。
男前なユーリもいつか書けたら面白いかも知れませんね。
何で料理はスイートポテトなのかというと、私がスイートポテト好きだからです。
誕生日プレゼントとして莢香さんにねだりましたもの(おいしかったですよ〜)。
でもスイートポテトはずっとジャガイモで作るんだと思っていた人間です……(料理音痴)。




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