ソラノテガミ

一時の休息

 硬いカバーの分だけ、鼻の上にずしりと重みがのしかかる。紙に染みついたホコリ臭さが鼻についた。本を顔の上からずらして香介は咳払いを一つする。
 昼間のまぶしい太陽は眠気をそぐが、どうやら図書館で借りてきたハードカバーの本も昼寝に適さないらしい。アイマスク代わりにしようと思ったが、首が疲れて仕方がない。鼻も痛い。
「こらっ」
 本の上から衝撃が落っこちてくる。眼鏡のフレームがわずかにひしゃげて額に当たる。香介が思わず頭を動かすと、本が真横に滑り落ちていった。背表紙が床に当たり、鈍い音を鳴らす。振動が耳元に伝わってきた。
 ずれた眼鏡越しに、香介は天井を見上げる。床に寝ているためいつもより高く見えた。度の入っていないレンズに歪められた景色の向こうに、亮子の姿が見えた。
「何するんだよ」
 舌を鳴らして香介は身を起こす。本を片手で拾い上げて、テーブルの上に置いた。さりげなく移動して亮子と距離を置く。近くにいれば何らかの攻撃を受けると本能的に察知しているのだ。
 亮子は手にしていた参考書を開く。強制的に丸められた本はひしゃげていた。おそらくその参考書で先ほど香介を叩いたのだろう。角で殴られなかった分まだましと言える。
「勉強、進んでるのかい?」
 シャーペンの先を指でいじりながら、亮子は香介に視線をやる。どうせ進んでいないのだろう、といった疑惑が、ありありと含まれていた。香介は腕を上げてわざとらしく肩をすくめる。
「切りのいいところまでは」
「その割にはさっきからごろごろしてばっかじゃないか」
 亮子がきっぱりと言う。言い訳する暇もない。香介は伸ばした足を組む。
 二人は受験生だった。一応同じ大学を志望している。それなりに難関と言われているところで、知名度も高い。
 いざとなったら、亮子には推薦がある。全国に通用する足を持った亮子は、陸上界ではそれなりの評価を得ていた。亮子をほしがる大学はいくつかあるので、香介よりは有利な状況にいた。
 膝にかけられた毛布の中で、亮子の足がもぞりと動く。外に数秒視線を移して足の指を動かした。昼間とはいえ、十二月に入ったこの時期はヒンヤリとした空気が窓から入り込んでくる。床に素肌をくっつけただけで背筋が震えた。
 受験生としては追い込みの時期だ。判っているのか判っていないのか、香介の態度はいつまで経っても変わらない。基本的にのんびりして、たまに参考書を開いて、たまに亮子と問題を出し合ったりする程度である。
 香介は本を開いてページをめくる。動作は速いのに眼球は動いていなかった。文章を追っていないのは明らかだ。
 亮子が口を開く。言葉を遮るかのように、香介は本を勢いよく閉じた。
「俺の実力を信用しろよ……今のままでも、志望校には合格圏内だぜ?」
 指でフレームを押し上げる。湾曲したレンズの中で視界がわずかに揺らいだ。亮子の不服そうに歪められた眉がさらにきついカーブを描く。
「そうやっていつも肝心なところで失敗するんだ、香介は」
 亮子は口の中で呟く。聞き取れなくて香介が耳を寄せると、言葉の代わりに鋭い視線が返ってきた。香介は思わず腕を構えて守りの姿勢を整える。幸い、拳は飛んでこなかった。
「覚えてるか? 二人でカレーを作ろうとしたとき、最後の最後でルーの代わりに香介が味噌をぶち込んだんだ」
 膝を立てて、毛布ごと足を抱え込む。毛布に顔を埋める亮子は幼げに見えた。過去の話をするとき、亮子はかつての少女らしさをかいま見せる。陸上に打ち込み、すっかり男勝りになってしまった亮子が大人しくなるのは正直ありがたい。その反面、香介はどことなくはかなさを覚えるのだ。
「あれはあれで旨かったと思うけど」
 微かに生まれる不安を押し隠して、香介は笑った。亮子が顔を上げる。
「あの産物を少しでもましな味にするために、どれだけ苦労したと思ってるんだい」
 香介の視界を、水色が覆った。一瞬遅れてふわふわの毛が頬を撫でる。膝にかけていた毛布が、香介を頭からすっぽり覆っていた。
 毛布をどかすと、立ち上がって背を向けている亮子が見えた。腕を上に向けて伸びをしている。カフェオレ色のセーターが縦にしわを作る。長身の亮子が余計に長細く見えた。
 わずかに見えた横顔は、もう「今の亮子」だった。引き締められた頬に、香介は安堵する。
 不安に脅えてばかりいた幼い頃とは違う。今の彼らは戦うことを知っている。ただ闇雲に武器を振りかざすだけの戦いはもう終わったのだ。
「亮子、勉強は?」
「ちょっと休憩」
 振り返らずに答えて、亮子はリビングに直通していく台所の方へと入っていく。無防備な足音が耳の中に入り込んできて、香介は苦笑する。……もう追っ手を気にして聞き耳を立てる必要はないのだ。ささやかな平和に、香介はひどく満たされた気分になった。
 焦ることはない。答えはいつか、時間が出してくれる。今はただできることをやっておけばいい。
 香介は亮子が置いていった参考書に手を伸ばす。頻繁に持ち運びした本の端は、ぼろぼろになっていた。参考書とハードカバーの本を重ねて、テーブルの端へ追いやる。
 どこからか漂ってきたコーヒーの香りを嗅ぎながら、香介は頬杖をつく。再び眠気が重くのしかかってきた。ぼんやりとする意識の中時計を見ると、一時を指し示していた。
 このまま昼休みに突入しても良いだろう。そう考えると腹も減ってきた。コーヒーの香りで空腹を誤魔化しながら、香介は台所へ入り込む。参考書の出番はもう少し後になりそうだった。


Fin.   

 友人が「敬意を込めて先輩と呼べ」と口走ったので、思わず香介君萌えが再臨しました。あ、二万ヒットありがとうございます(ついでのように言うな)。こつこつ運営を続けてようやく二万ヒット、相変わらずのマイペースですが今後ともよろしくお願いします~。

2006.5.19   弥栄