「空の手紙」



 きっと僕はもう、その高みには届かない。

 いつしか手に入れた、と思ったはずだ。空を飛んだのと同じような心境だろうか。確かにあの一瞬だけ、広大な空は僕の手の中にあったはずだ。
 しかし、こぼれ落ちた。
「綺麗なポストカードね」
 僕の病室に飾られたカードを見て、看護士さんが言った。入院はとうに一ヶ月を過ぎたので、お互い顔は認識していた。
 まだ新米らしく、患者に接するときの声はうわずっている。だから重病人の世話はさせてもらえないらしい。きっと死の近い人間にどう接して良いか判らないのだろう。それに、あからさまに震えた声で世話をされては、世話をされる方が気が滅入る。
「別に」
 不機嫌だったわけではないが、何となく低い声が出た。
「友だちが送ってきたやつだけど、センスが悪い」
 そのポストカードには、空が抜け落ちていた。
 咲き乱れるコスモスの花が映っていた。一面のコスモス畑が地平線いっぱいに写っていたのだが、地平線で写真はとぎれ、空はぶっつりと切れていた。一ミリも写っていない。
 僕に空を与えまいとしているのだと思った。僕は空をほしがっているというのに、愚かなことだ。
 病室の外にも空は見えるが、僕は六人部屋の一番廊下側だったので、遠かった。寝たきりの僕には届かない。トイレさえ一人じゃできない身だ。手を伸ばすのがせいぜいだった。
 僕は病気ではなく、けがのため入院していた。大腿骨を折ってしまったので、ろくに体すらも起こせない。重傷には違いないけれど、病気と違って、治療をしなくても死ぬわけではなかった。
 いや、違うな。
 自分の考えを否定する。
 直接死にはしなくても、間接的に死ぬ。飯が食えない、運動ができない、日に当たることができない。そうして、近いうちに死んでいく。もし病院から裏路地に捨てられたら、長くて一週間保てばいい方だろう。
 たった一本、足を折った程度で、手のひらからはぼろぼろと何かがこぼれ落ちていく。あの日つかんだと思った、青い青い空のように。
「あら、周防君、お友達が来たみたいよ」
 看護士がそう言って、滑車を押して戸口へ遠ざかっていく。入り口付近で、入れ違いに入って来た人物と会釈を交わしたのが見えた。
 黒髪に短髪、黒縁の眼鏡をかけている。眼鏡ではなくサングラスだったらそれなりにかっこいいスタイルをした男だ。紺のジーンズから長い足に似合っている。
 大学のキャンパスで見慣れている人物。つい先日も会いに来た。うんざりしていた。
「何だよ、浩二」
 病院内でかんしゃくを起こすわけにも行かず、小さい声で言う。浩二は壁際に置かれたいすを勝手にベッドの脇に移動させて、座る。膝の上で両手を組んで、俺の顔をちらりと覗く。
「あーっと。これ」
 何か紙を渡されて、受け取ってみたら封筒だった。
「直接手紙渡してどうするんだ。バカか」
「バカとは何だ。なら返せ」
「一度人に渡した物を返せというのか?」
「入院してから性格悪くなってないか?」
「ひねくれたくもなるさ」
 一度つかんだと思った物を奪い取られて。そして二度と与えられない。どれだけ屈辱的なことで、どれだけ苦しいことか。のどから手が出るほどほしいのに、どれだけ手を伸ばしたって届かない。あの青い空。
 昔から、空が好きだった。小さい頃、将来は飛行士になりたかった。結局高校受験で夢をあきらめて普通科の公立高校に行ったが、しょっちゅう空を見ていた。いつも首が痛かった。
 大学に入ってから友だちになった浩二は、写真を撮るのが趣味だった。やつの撮る空の写真は今まで見たどの写真よりも空に近かった。
 浩二が一緒に撮影スポットに行こうと持ちかけてきた。もちろんついていった。山登りは初めてだったが、元々体を鍛えていたので、そう大変ではなかった。
 山の名前は知らないが、頂上を越えて、上ってきた方とは反対に下っていく。すぐに場所が開けた。
 崖だった。白い砂が一面に敷き詰められたなだらかな場所があり、その向こうは、まるまる崖だった。山の山頂を見下ろせる。正面には何も障害物が無く、空が敷き詰められていた。
 空が近かった。やはり、求めていた物はこれだったのだと思った。確かに空をつかんだと思った。手を伸ばし、空をこの手に収め……。
 空が消えた。
 絶望に落ちる。暗闇へと落下していく。どこを見ても空がないのだ。浩二のよこしたポストカードのように。空だけが、世界から切り取られた気がした。遠くに浩二の叫び声が聞こえた。
 どうやら崖から落ちたらしい。よく大腿骨骨折程度で済んだものだ。しかし俺は空を失った。遙かな高みに届いたはずなのに、その分俺は地面にたたきつけられた。人間は地面を貼って生きる物だと、神があざ笑うかのように。
 きっと僕はもう、その高みには届かない。足を失い、空に近づくことさえできない。部屋の中で、窓枠の中の小さな空をむなしく見つめていた。
 たぶん浩二は罪悪感を覚えていることだろう。僕を誘わなければ、僕は崖から落ちることはなかったのだ。
 しかしそうではない。僕はいつか空を目指しただろうし、そして落ちただろう。どれだけ過去をやり直しても同じようにしかならない。僕の足をちょん切るしかないだろう。鳥の羽をもいでしまわなければ、鳥はまた飛び立っていくように。
「もう良い。寝る」
「おい」
 取り敢えず安静にしてさっさと足を治すことが先だと思う。そうしなければ、再び空を目指すこともできない。後遺症は残るだろう。それでも、あの遙かなる高みを目指さずにはいられなかった。
 浩二は、僕に渡した封筒をひったくる。自分で封を開けて、中の紙を僕に渡した。
 つるつるした材質だった。浩二がよく見せてくれた写真だ。自分の部屋に暗室を作って現像しているとか聞いたことがある。これもそうなのだろうか。
 見てみると、そこには空があった。懐かしい感じがする。浩二の空だ。空だ。
 青かった。白い光に満ちていた。うっすらと雲が浮かぶ。まぶしい世界がそこにあった。
 僕の手のひらに、小さな空が載っかっていた。四角い枠の中の、ちっぽけな空だったが、その光は、青さは、広さは、本物だ。
「これ……」
「おまえが入院してくれたおかげで最近写真が撮りに行けなくてな。今日に間に合わせるたびにガッツで登ってきたよ。今度は俺が落っこちるかと思いました!」
 写真を頭上高くにかざす。光が降り注いでくるみたいだった。雲が緩やかに流れている。あのとき、つかみかけた空には及ばないけれど、それに似た綺麗な空だった。
「…………」
 言葉が出なかった。うまく言葉を出そうとしても、うめき声にしかならない。顔がどうしようもなく笑ってしまう。なのに、泣いていた。目の奥が熱かった。
「あのさ」
 浩二は窓の外を見つめ、ぽそりと言った。
「誕生日。おめでとう」
 今日の日付とか、誰が生まれた人か、どうでも良かった。でもまた空がみれて、それだけでよかった。むしろ、それが一番嬉しかった。
 そのお礼を、しばらく言えそうにはない。僕はずっと、泣き続けていたから。泣き続けて、空を見ていたから。

 一番窓際のベッドで、僕は空を見ていた。眼下には大学のレポートが広げられているが、どれも白紙だった。空が見えることが嬉しかった。空がある、空がある。ついに鉛筆を握ることもあきらめて、空を見ていた。
「周防くーん。宿題進んでないわよ?」
「良いんです。浩二がもうすぐ来るから」
「前回もそう言って丸写ししてなかった?」
「してませんよ、人聞きの悪い。ちゃんと判るところはやってから参考にしているだけです」
 以前の無気力な自分なら、丸写しして終わったと思う。しかし今はやる気が違う。再び空が手に入ったのだから、やるべきことはやっておこうと思える。
 僕のベッドの横には、浩二のくれた、空の写真。空はいつでも傍で広がっていて、この星を覆っているのだ。
 遙かな高みに登ってみて気づいたのは、あの空には、絶対にふれられないということ。それでも僕は、まだ空を追い続けている。
 本物の空は手に入らないけど、自分なりの空を手に入れるんだ。
 空の写真を頭上に掲げながら、僕は自分の中にある空をかいま見たような気がした。



FIN.

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本当は幽霊物にしようと思った品。
会誌掲載に向けて書き直すかもしれない。
書き直さないかもしれない。







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