「時の流れ」


 小さな喉を震わせると、大げさな音が出た。空気が気管をえぐり、痛みが走る。反射的に口を手で塞ぐが、咳は止まらなかった。
 雪夜は風邪を引いた。いつものことだ。むしろここのところは調子が良かったくらいだ。久しぶりに引いた風邪は、健常な身体を一気に押し流していって、雪夜をベッドに縛り付けた。
 雪夜はおそるおそる息を吸い込む。喉に詰まった痰に空気がひっかかって、奇妙な音が鳴った。
 首を動かすのもおっくうで、視線だけで室内を見る。横を向いているため、白い壁紙しか見えない。壁に沿うようにしてベッドが置かれる。ベッドのすぐ横には窓がある。カーテンは閉められていたが、外は明るかった。
 先ほどもその前に確認したときも、外は明るかった。なかなか時間が過ぎていかない。雪夜だけが部屋ごと世界からくり抜かれて、永遠の中に投げ込まれてしまったかのような錯覚を覚えた。
 カーテンを開けようと手を伸ばす。雪夜の小さな手では届かなかった。同じ年頃の子供と比べても、雪夜の体は小さい。雪夜は代わりに、寝転がりすぎてよれよれになったシーツを握りしめた。
「雪夜君、大丈夫? 入るわよ」
 背中側にあるドアの向こうから、声が聞こえた。くぐもって聞こえたが、おそらく施設で働いている佐伯だ。
 雪夜は壁を一回叩いた。声を出さなくて良いから、壁を叩いて応えてくれと、佐伯から言われていた。一回なら「はい」、二回なら「いいえ」。
 少し間をおいて、ドアが薄く開く。涼しい風がすっと入り込んできた。どんよりと固まっていた空気が慌てて飛び跳ねる。
 佐伯はドアを開けたまま、ピンク色の桶を持って入ってきた。佐伯が歩くたびにカタカタと音が鳴る。氷水でも入っているのだろう。数時間前に同じようにして持ってこられた青い桶の中身は、ただの水になっていた。
 本棚と一緒になった学習机の上にいったん桶を置く。空き缶を利用したペン立て以外に物はなく、広く見える机だった。部屋の中も似たようなもので、整然としているが子供の部屋にしては殺伐としている。
 ベッドの横に置かれたイスの上にある青い桶を床に下ろした。少し視線を下ろすと、雪夜からも桶の中身が見えた。水面にぐにゃぐにゃになった天井が映りこんでいた。異世界への入り口みたいだった。
 ピンク色の桶をイスの上に移す。氷が水の中でぱきっと割れた音がした。耳の音で何かがはじけたようにも聞こえた。透明のキューブに白い筋が走る。
 佐伯は白いハイネックのセーターの袖をまくった。空手の師範代をしているため、年齢の割りに脂肪はない。
「ちょっとごめんね」
 雪夜の額に載せられていたタオルをつまむ。濡れタオルは雪夜の体温ですっかり温くなっていた。まだ熱は下がっていない。佐伯は少し長めに息を吐いた。
 タオルを氷水の中に入れて、こする。佐伯の手のひらには深いしわが刻まれていた。生命線がくっきりしていて良いでしょう、と佐伯は笑うが、長年水仕事にさらされた手のひらだった。
 カラカラカラ。氷が踊る。雪夜は目を閉じてその音を聴いていた。まぶたが扱った。目の中に熱が落っこちてくる。耳から入ってくる水の音が、少しだけ雪夜の頭の中を冷やしてくれる。
 佐伯の拳がタオルを握りこむ。腕を左右反対方向にねじると、水が繊維の中から逃げ出して、桶の中にダイブした。
 小さく折りたたまれたタオルが、雪夜の額に載る。冷たさが心臓の辺りまで下降してきた。雪夜は小さく背中を震わせた。
「冷たかった?」
 雪夜はうなずく代わりに、「気持ち良い」と答えた。声はちゃんと出てきた。佐伯はうっすらとしわの出てきた顔に、笑いじわを作る。
「そう」
 シーツ越しに、優しく二回雪夜の肩を叩く。柔らかくて暖かい布団の中に沈んでしまいそうなほど心地よかった。
 セーターの袖を下ろし、青い桶を小脇に抱えて、佐伯は立ち上がる。少しだけ腰を曲げて、
「もう少しで治るわよ。おいしいものを作ってきてあげるから」
 雪夜に微笑みかけてから、背を向ける。部屋から出る前にもう一度雪夜の顔をのぞき込んだ。雪夜は黙って佐伯に視線を返すが、すぐに視線をそらした。病気のときに作り笑いをしてやれるほど、雪夜は器用な子供ではなかった。
 いつも通りのそっけない雪夜の態度。佐伯は思いのほか元気そうだと受け取ったのか、わずかにうなずきながらドアを閉める。名残惜しそうに、氷が割れた。

 ドアが二回鳴った。雪夜は一回壁を叩いた。佐伯が出て行ってから五分も経っていなかった。
 雪夜はてっきり佐伯が戻ってきたのだと思った。佐伯の頭があると思われる空間を眺めていたが、そこに佐伯は現れなかった。ドアが開いても同じだった。
 人間の頭は思いのほか低いところにあった。佐伯より顔半分ほど下だろうか。ドアの向こうには廊下があって、廊下の向かい側にはドアがある。そのドアの前に、明るい茶の髪をした少年が立っていた。
「悠大」
 雪夜は唇で少年の名前をなぞった。悠大は片手を挙げて口の端を吊り上げる。
「やっほー、眠り姫様。気分はどう?」
 雪夜は細い眉を上の方に持ち上げた。「最悪」と言いたかったが、そんなことを言うために労力を使うのもくだらなかった。寝返りを打って、悠大に背を向ける。
「つれないな」
 悠大の声は消えるどころかはっきり聞こえてきた。床のきしむ音で、部屋の中に入ってきたのだということが判る。雪夜はシーツの端を頬の辺りまで引き上げた。
 悠大は一週間前日暮園に入ってきた少年だ。姉らしき女の人と一緒にやってきて、悠大だけが残ったのを覚えている。
 雪夜より二つ上、十二歳とのことだったが、それにしては妙に慣れていた。作り笑いが。
 何度も何度も推敲を重ねて完成された笑みだった。一見しただけではあまりにも自然で、それが作り物などとは思いもしない。
 釣り目がちだけどはっきりとした二重で、鼻は高く、綺麗な顔立ちをしていた。声変わりをしていない今ならば少女と言ってもバレないだろう(何も言わない限りは百中で少女に間違われる雪夜よりはまだ少年らしかったが)。
 悠大は自分の顔立ちを理解している。どんな武器が最大限に力を発揮できるのかも知っている。子供の本能で、雪夜は作り物めいた悠大の臭いに何となく感づいていた。
 つれない、というよりもこれは防衛本能だ。得体の知れないものに遭遇したときに自動的に働く自己防衛。もともと初対面の相手に愛想が良い方ではないが、雪夜は無意識のうちに悠大を警戒していた。
 壁を見つめながら、耳を澄ます。ガラスが小刻みに音を鳴らした。悠大が学習机の本棚に手を触れたらしい。
「本読むの好きなのかな? あ、別に答えなくても良いけど。俺も好き」
 流れるような言葉。悠大が一人でしゃべっているのに、会話をしているかのような錯覚に陥りそうだった。
「割と色んな本があるな。年の割りに結構たくさん読んでるね。好きなジャンルとかないの?」
 次から次へと言葉を並べる。一枚一枚着ているものを脱がされていくようだ。他人と自分との間に引かれたボーダーラインが、着実に危険に冒されていく。足元注意、そこには雪夜の琴線がある。
 どの言葉に対して反応するべきなのか迷った。結局、悠大は雪夜が何かを答える前にまた口を開いた。
「ハッピーエンドがあまり好きじゃないのか。どれも微妙な終わり方してる本ばっかり」
 ぱらぱらと紙をめくる音が大きく聞こえてくる気がした。勝手に人の本を見るな! 叫ぶ代わりに、雪夜は肩越しに悠大をにらみつけた。
 悠大はガラス戸に手を当てているだけだった。開いて中を見た様子もない。ただガラス越しに、本のタイトルを眺めているだけだ。
 雪夜の視線に気づくと、悠大は両手を上げた。口の端を片方持ち上げて苦笑する。
「失礼。あまりにも俺の好みと似ていたから。ここにあるの全部読んだことあるんだよね」
 悠大は拳でこつんとガラス戸を叩いた。雪夜は視線を本棚に向けて、中の本を凝視する。少なからず驚かされた。あっけに取られてしまった。
 小さい頃から体が弱かった雪夜は、本を読んで暇をつぶしていた。読書が好きなわけでもないが、冊数だけはどんどん増えていった。どちらかといえば内容で気に入ったものを本棚に並べているので、あまり有名でない本も多い。
 本棚の中はある意味雪夜の思想を詰め込んだ、雪夜の小宇宙だった。それを「全部」悠大に読まれていたとなると、何だが自分のアイデンティティーを丸呑みされたような感じだった。
 悠大を見ると、悠大は雪夜にずっと笑いかけていた。雪夜はその向こうに硬い何かを見つけた気がした。
 輝きの中に映る一転の曇り。雪夜の心の中にあるような、冷たい塊が、悠大の中にもあるように思えた。
 視線をそらしたのは悠大の方だった。ちらりと、桶の台座に使われているイスを見た。机に体重を預け、つま先で床を叩く。
 大変暇そうだ。暇そうなのに出て行かない。雪夜は大変不可解に思った。静かなせいで、悠大が床を小突く音さえもやたらと気になる。
「眠れない」
 雪夜が不満を漏らすと、悠大はきっぱりと答えた。
「どーせ寝飽きただろ? 暇つぶしに付き合ってやるよ」
 図星なので何も言い返せなかった。唇の先を気づかれない程度に尖らせる。
 雪夜の沈黙を肯定と受け取ったか、悠大は勝手にしゃべりだした。悠大が感じた雪夜の第一印象をずらずらと並べていたが、驚くことに悠大の考察はほとんど的を射ていた。
 短い時間で雪夜に判ったことは、悠大の観察眼がずば抜けて優れていること。そして、妙に客観的な、別の言い方をすれば冷酷なものの見方をしている子供だということだった。
 悠大の話を聞いているのは不快ではなかった。テレビからの雑音を聞いているみたいだが、テレビの内容よりもよっぽど興味深くて、中身があった。
 一人でスカスカの空気を眺めているよりも、よほど気が楽だった。余計なことを考えなくて済む。それでいて悠大との会話は、けして個人的な領域に入り込んでくることがなかったので、苦ではない。気を使って、わざわざ風邪っ引きの部屋に「話し相手」として来てくれたのが、最終的によく判った。
 結局のところ、雪夜も悠大も変化球なのだ。素直に表現することはない。お互いとしては、そこが面白い。
 悠大の独奏と雪夜の合いの手は、ドアから夕飯のにおいが入り込んでくるまで続いた。カーテンの向こうは黒に塗りつぶされていた。家の光が窓の外にきらきらと浮かぶ。向かいの家で雨戸がスライドして、漏れる明かりが明滅を繰り返した。
 卵とバターの良いにおいがした。電子音が、ご飯が炊けたことを知らせる。
 お腹の鳴る音がかすかに聞こえて、二人は顔を見合わせた。


FIN.

最初の部分と最後の部分にブランクがありすぎて、何を書こうとしたか忘れました。
当時は「劇的な出会いのシーンが思いついたぞ!」とか思ったはずなんですが。
直接的な「出会い」の話ではなく、二人が親しくなっていく中での小話程度に捉えてください。
莢香さん誕生日おめー。







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