「切っ先」



 雲が輝いている。そんな白さだった。強い日射しを反射して、眩しいほどに白い雲が空に浮かんでいる。天使でも舞い降りてきそうな空だった。
「何をしている、緑山生徒会長」
 舞い降りてきたのが天使ではなく見知った人間だったので、緑山と呼ばれた少年はあからさまにため息をついた。何とタイミングの悪い。情緒感の欠片もないと思った。
 イヤミを含めて言葉を返す。
「これはこれは朱野副会長。あなたも屋上にエスケープですか?」
「冗談じゃない。昼休みだ」
 朱野という少年が言い返すまでもなく、緑山には既に事情が見て取れていた。筋金入りの堅物である朱野が、授業をサボるはずはないのだ。誰もが承知していた事実であったし、本人も期待を裏切らなかった。
 緑山はブレザーのポケットから白い箱を取り出す。タバコの箱だ。開けたばかりのようで、外装がつやつやしている。中のタバコは半分以上減っている。
 中から一本出すと、口にくわえた。そのまましばらく、くわえたまま空を見上げる。朱野が背後からタバコを取り上げた。朱野の影で、太陽が一度遮られる。また退くと、射抜くような白さが緑山を襲った。切れ長の瞳を細める。
「タバコは体に悪い」
「そんなことはない。俺はすくすく育っているよ」
「歳をとった後に後悔する」
「死ぬことばかりを考えて生きたくはないな」
 屁理屈を、とぼやいて、朱野はタバコを握りつぶした。剣道部鬼副部長の指は長くてスラリと伸びている。何でも器用に……いや、堅実にこなす指だ。緑山も似たような手をしていたが、朱野より繊細だった。元から才を授かった手は、何でも器用にこなした。
 それが彼らの役職にも現れている。朱野は縁の下の力持ち、補佐タイプの、副会長。緑山はカリスマ性を持ち、生徒を引っぱっていく生徒会長。陰と陽である二人は全校生徒からの憧れである。
 実際は、緑山はそこまで団体行動が好きではなかった。時々屋上へ来て空を見上げているのは、そういうことだ。一人にして欲しい。強く願うことがある。他人を背負うのは飽き飽きだ。誰も構うな、と。
 朱野は根っからのお人好しらしい。どんな場面であろうと人の世話を焼きたがる。ただし、気が利くのとお節介とは、紙一重だと緑山は思う。
「ほうっておいてくれればいいのに」
 緑山はぼやいて、新しくタバコを取り出した。内ポケットに腕を潜らせ、ライターを取り出す。高そうな彫りの入った銀のライターだ。カチリと鳴らせば火が飛び出る。炎の先にタバコを近づける。タバコの周りの紙が黒ずむ。火が移る。独特の煙が先端から上がった。
 朱野が少し顔をしかめるが、見せつけるように緑山は大きく息を吸う。一瞬煙が小さくなる。口の中から蒸気機関のように煙を吐き出した。白い煙が一瞬雲のように空に浮かび、すぐに青色の中に溶け込んで消える。
 朱野は数回咳払いをした。
「煙いな。よくそんな物が吸える」
 明らかな怒気を含んでいたが、緑山は気づかない振りをして笑った。
「大人になれば判るさ」
「まぁ、間違った観念ではないな」
 そう言いながらも、火の点いたタバコを素手で潰す。緑山の表情が歪んだ。
「喧嘩売ってる?」
「お互い様だ」
 手を風に当てて冷ましながら言う朱野に、緑山は「そうだな」とうなずいた。熱いのなら格好つけて素手で潰さなければいいのに。熱いとも言わない朱野が妙に子供に見えて、緑山は怒る気をなくしていた。
 日射しも暑かった。曇りの日は良いが、晴れの日は障害物のない屋上はまんべんなく照らされる。土の部分などなく、一面コンクリートだ。輻射熱がいかに暑いかを思い知らされる。朱野は鼻の下に溜まった汗を拭う。
「ここ、快適か?」
 くわえたままのタバコをポケットに突っ込んで、「教室よりはね」と答える。
「暑くない?」
「別に。日射しはきついけど、風通しは良いし」
 言われて、朱野は少し納得した。蒸し暑い教室の中よりは余程気持ちがいいかも知れない。だからといって授業よりサボリを選ぶ気にはなれなかったが、時々屋上に来るのは良いと思った。
 緑山は長めの髪をかき上げる。けだるげな表情だが、元の顔とスタイルが良いため妙に似合う。朱野はその仕草を見て感心した。緑山がもてる理由が少し判った。
「何、見とれてんの?」
「いや、何やっても格好いいって、特だなと思って」
「それ、俺と同じくらいもててる君が言う台詞じゃない」
「まさか」
 朱野は苦笑した。
「俺の場合は慕われているだけさ。先輩として」
 緑山は苦笑を返す。君を慕っている後輩はさぞかし報われないね。そう言ってやろうと思ったが、そういえば既に朱野には彼女がいることを思い出して、止めた。
「そういえばさ」
「何」
 ずっと朱野が本題に入りたがっているのを知っていた緑山は、相談を受ける教師の気分で答える。率直に聞けばいいのに。それができない朱野は、確かに不器用で、損な性格なのであろう。
「ユキって、知ってるよな?」
「――ああ、雪夜君」
 知らないはずがないだろう。そう心の中で思いつつ、うなずく。雪夜は、その名の通り雪のように白く、夜のような色の髪をした少年である。二人より一学年下に在学しており、双方にとって見知った人物だった。
 緑山と雪夜は同じ所で住んでいる。彼らは孤児院で育った。その孤児院とこの学校は繋がりが深いらしく、孤児院の子供達の大半が同じ系列の学校に通っていた。緑山や雪夜を始め、他に何人も同じ学校・もしくは近辺の学校に通っている。雪夜と緑山は幼少の頃より共に生まれ育ったいわば兄弟だった。
 雪夜と朱野の関係は、一つしかない。剣道部。天性の才能なのか、雪夜は剣道が強かった。剣道という小さい枠でくくってはいけない。剣技に優れていた。真剣を持って戦う時代に生を受けていたら、間違いなく歴史に名を残す大剣豪となっていただろう。高校でも当然剣道部に入り、いくつものタイトルを獲得していた。
 そんな彼が急に剣道をやめた。病のためだった。あっけないもので、どれだけの力を持ってしても、病には勝てないようである。医者から止められてはどうしようもない。雪夜は剣道からすっぱり身を引いた。
 朱野はまだ諦めきれないようだった。実技を続けられないならば、せめて指導者としてでも残ってもらいたい。いつだか朱野は緑山にそう語った。緑山は無理だろうと答えた。
 雪夜の剣は、多くの者のためにあるのではない。たった一人……自分か、あるいは自分の命に代わるほどの大切な者か、そのためにしかない。緑山はそれを理解していた。
 それでも朱野は口を開く。
「あいつ、どうしても剣道とは関わらないつもりかな?」
 緑山はため息をつく。自然とタバコに手が伸びるが、吸う気にもなれず、箱ごと握りつぶした。
「このことに関してだけはしつこいな」
「だって」
 朱野が珍しく子供じみた悲鳴を上げた。
「剣道が好きなんだろう?」
 朱野は余程剣道が好きなのだろう。それを奪われることは、魂を抜かれるに等しいのだろう。緑山にもその情熱はひしひしと伝わってきた。
 だが、違う。
「好きとか嫌いとか、そういうもんじゃねーよ。剣道じゃない。剣ってのは、好き嫌いでどうこうできるほど……甘いもんじゃない」
 雪夜が握る剣は、竹刀でも木刀でもないのだ。真剣とも違う。真剣よりの孤独でか細い光を放ち、真剣よりも鋭い刃。鋭く美しい刃を、雪夜は抱えている。
 雪夜を長年見てきた者だけが微かに見えている、その刃。雪夜をどれだけ苦しめてきたか知れない。どれだけ立ち向かってきたか知れない。どれだけ耐え抜き、今この時まで命を繋いできたのか知れない。
 今でも雪夜は剣を握っているのだ。張りつめた意識の中で、その剣と戦っていることだろう。剣の名は、病魔か、プライドか、命か、それとも。
 何にしろ、誰よりも多くのものを抱えていた。
「誰も重荷になっちゃいけないんだ。雪夜を自由にさせたいのなら、なおさら。朱野、お前判ってないよ。そんな、そんなもんじゃないんだ」
 そんなあいまいな言葉で判るわけないだろう。朱野は叫びたかったが、止まったのは、どこかで理解できたからだ。言葉では表現しきれない何かがあるのだ。安易な言葉で納得してはいけない何かが。
 どこかで、チャイムの音が聞こえる。予鈴だった。空気のように軽く、どこかへ吹き飛ばされそうな虚無感があった。聞き慣れたはずのチャイムを耳にしながらも、朱野は全く何の音か理解できていなかった。
 全ての感覚があやふやになっていく。形を与えられて初めて形成されていた世界が、溶けていく氷塊のようにゆっくりと崩れていくような感覚だった。
「予鈴鳴ったぞ。ふぬけた顔して、どうした」
 呆然としている朱野に声を掛ける。朱野は壊れた操り人形のように口を開閉する。言葉が滑り出たのは、何度か同じ動作を繰り返した後だった。
「俺にとっての剣道って、何なのかな」
 朱野の影がやけに黒く見えるのは、日射しのせいなのだろうか。緑山は肩をすくめた。
「さぁな」
 腰を上げて、大きく伸びをする。細身の長身がさらに程長くなる。耳に刺したピアスが揺れた。屋上の柵に寄りかかり、風を受ける。日射しはきついが、風は優しい。目を閉じて、視覚には見えない風を感じながら、背後の朱野に言う。
「個人の勝手だろ?」
 どらりと音がする。振り返ると、朱野が寝そべっていた。きっちりと着込まれていた制服にしわができる。貧血でも起こしたかと、緑山は一瞬心配になった。
「あーーーーーーーーっ!」
 急な大声に、思わず緑山はフェンスにしがみつく。校庭中に響き渡ったか、カラスの群が大空に逃げていった。五限目に体育のある生徒が、校庭から怪訝そうに辺りを見回している。そこら中からざわめきが聞こえた。
 一番驚いたのは緑山であって、叫んでから薄笑いを浮かべつつ何も言わない朱野を、恐る恐る眺めていた。朱野が急に身を起こしたとき、不覚にも心臓が跳ね上がった。
「うん、いいや。個人の勝手だ。俺が剣道したいのも、雪が剣道部はいってくれないのも、剣道部にしつこく勧誘したことも、悔やまないでおく」
「いや、後半は気にした方が良いと思うんですが」
「気にしなーい、気にしなーい」
「性格変わってますよ」
「元からこういう性格。見て判る通り」
「判らなかったよごめん」
「おかしいな」
 低く笑って、朱野は勢いをつけて立ち上がる。使い古された腕時計の文字盤を見て、鉄扉に手を掛けた。
「さて、後三十秒でチャイムが鳴る。いくぞ、緑山」
 まだ授業に間に合う気でいたのか。朱野の真面目さに、ほとほと呆れる。
「サボれば?」
「それをやって後悔するのは自分だ」
「真面目だね」
「面倒なことが嫌なだけさ。事なかれ主義というか」
 その割には、生徒会に入ったり剣道部の副部長を引き受けたり、忙しい学校生活を送っているものだ。
「俺は、良いよ。ここにいる」
 朱野の考え方が悪いとは思わないが、むしろ良いと思うが、緑山はキッパリと否定した。
「今日は、空が綺麗なんだ」
 少し臭いかなと思いつつ、照れたようにいった。朱野も少し照れくさそうにうなずく。チャイムがどこかで聞こえる。朱野は緑山に向かって軽く手を挙げ、鉄扉の向こうへ消えた。
 扉の向こうから小さな着地音が聞こえる。階段の一番上から、踊り場を通り越して、次の階まで、飛び降りたのだろう。なかなか危険なことをする。丸々一階分飛び降りたら足の方ではただでは済まないと思うが、それでも大丈夫なのが、朱野やその他の超人達だった。
 丈夫だな。そう思って、真に強い者とは、そういう者を言うのかも知れないと思った。健全な精神、健全な肉体。打たれ強く、他人を引きつける何かがあり、戦い抜く器量と度量、力量がある。パワフルなヒーローこそ民衆の英雄になれるのだろう。
 そうでない強き者は、人知れず孤高の英雄となりはてるのだと思った。ごくわずかの者のために戦う。それは孤独な戦いだろう。たった一人を守るために多くの者が動くのは特殊な場合だ。自分の大切なものを守りたければ自分で戦うしかない。
 そうして、守るべきものを守って、人知れず眠りに就いてしまうのだろうか? ――あいつなら、勝手にやり遂げて、勝手にいなくなりそうだ。緑山は奥歯を強く噛みしめる。
 何よりも大切な家族だと思っていた。孤児院のみんなは、親こそ違えど、共に育った家族だった。それでもどこか一線を引いている。いずれは違う道を歩んでいく。途中で引き取られる者もいる。そうでなくとも、大抵の者は二十を過ぎる前に自立していった。
 緑山も、もうすぐ時が近付いていた。医者になりたいと思っていた。しかし金がかかる。大学に行けば、どうしても金がかかる。それよりも就職して働いた方が、余程生きる糧にもなるし、兄弟達も養っていける。
 自分の夢に生きるか、家族の愛に生きるか。緑山は剣を握っていた。未来を切り開くための剣だ。進もうと思えばどちらにでも進んでいける。しかしその切っ先の向かう先を、決めあぐねていた。
 未来を決定するのはまだ先である。それでも、時間が無いように思えた。確実に、時は迫っている。
 重たい病魔を抱えた雪夜の命も。
 彼らは剣を持っていて、それを振り下ろさなければならない。何かを切り捨てた屍を乗り越えて先に進んでいかなければならない。しかし乗り越えるべき屍は、あまりにも大切すぎた。
 決戦に時に向けて、剣を握る。
 背後には、守るべき者。
 前方には、暗い道。
 果たしてその切っ先は、何を切り捨てるのか。
 どう足掻いても明るくならない未来像を、澄みわたった空が、どんよりと照らしていた。




END.

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あとがき


 微妙な青春物。結局雪夜は何なのか。その真実は、莢香さんに聞いてください。彼女がキャラクター原案を手がけているので、私も実は真相を知らなかったりします(そんなんでいいのか)。
 一番のツッコミ所は季節でしょうか。日射し暑いんですよね。でもブレザーなんですよね。……初夏? もしくは秋でしょうか。訳が判りません。どっちにしたって十一月現在季節外れには変わりがないのでどう表現したらよいか判りません。
 私がもの凄く叫びたいことは、タバコは吸うなと言うことです。タバコは吸っちゃいけません。二十歳になってから吸いましょう。むしろ二十歳になっても吸うな。……タバコを吸っている兄ちゃん達を見ると自転車でさわやかに激突したくなってきますね(危険)。我が家は一家そろってタバコ嫌いなので、堂々とタバコを吸っている人を見ると不機嫌になります。兄など、キレて喧嘩を売らんばかりの勢いでした。
 タバコを吸うのは止めましょう。災難が降りかかりますよ。色んな意味で。
 宿題多くて何かてんぱっている弥栄でした。







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