水鏡




霧深い森の奥。
そこには誰もいない。
生き物すらいない。
木々はうっそうと生い茂っているのに、そこには魔物も動物も人間も、
何もいなかった。
あるのはただ、灰色の霧。
辺り一面を覆い尽くし、森をいっそう深く見せていた。

誰もいない森の奥であるが、話し声や物音は絶えず聞こえていた。
「カーくん、今日の晩ご飯は何にしようか?」
まだ幼さの残る少女の声が響き渡る。
霧の中では、どこかくぐもって聞こえた。
「ぐっぐぐー!」
「カレーか、じゃあそうしよう!」
「あんた、昨日もカレー食べてなかった?」
女性が呆れたように言う。

森をもっと奥に進むと、湖がある。
霧がいっそう深くなる場所――いや。
霧が発生している場所。
その湖は一面に広がっていて、その先は霧に覆われて見えない。
どんなに湖に沿って歩いてみても、途切れる所を知らない。
そこは、森の最奥の地。
その先は、誰も行ったことがない。
たまに冒険家の類が面白半分に渡っては行くが、誰も帰ってきたことはない。

人は呼ぶ。
その湖を……むしろ、その大河を。
“三途の川”と。

だが、人はその湖に魅せられる。
絶えず、音を運んでくる。
「やぁ、アルル、ルルー、カーバンクル。
買い物かい?」
「あ、ラグナス!
うん、そうだよ、夕飯の材料を買いに行くんだ!
今日はカレーなんだ」
「また?
本当に好きなんだな」
「えへへへへ」
「ぐー!」
その声は、湖から発生しているように思えた。
湖の向こうからやってくるようにも。

湖には、映像が映し出される。
街道を歩く、亜麻色の髪を持つ少女。
少女の、青いショルダーガードの上に乗る、黄色い生き物。
その隣には、艶やかに伸びる青い髪の女性。
向かいからは、黒髪の青年がやってくる。
「ラグナスは仕事の帰り?」
「ああ、悪さをしている魔物がいるって聞いたから、こらしめてきた。
しばらくはおとなしくなると思う」
「そっか、お疲れさま!」
「ありがとう」
二人は笑顔を交わし合い、しばらく談笑して、それぞれの道へ行った。

それは、水面に映る幻影。
それを見た者の話によると、同じ映像は一度として映らないらしい。
ほんの些細な日常から、死に際まで、あらゆるものが映し出される。
時には自分の姿が映し出されることもあるらしい。
服も、行動も違うが、顔も年齢も同じの自分が。

その湖には誰も近寄ろうとしない。
一度立ち寄った者は、二度と近寄らなくなる。
その湖は、幻影を見せるから。

――自分はいったい何者なんだ?

疑問を投げかけてくるから。
幻影に映し出される、“自分”の姿こそ本物で、
自分自身は偽物なのだと気づいてしまうから。

この世界に住まう者たちは、この世界は。
偽物だと気づいてしまうから。



氷の入ったコップをストローでかき回して、亜麻色の髪の少女は口を開く。
「水鏡?」
金色の瞳が、興味深げに輝いた。
「そう。この大陸を囲むようにして、森が広がっているでしょう?
その一番奥に、湖が広がってるっていうのよ。
森をさらに囲い込むようにして」
「へー」
青い髪の女性の言葉に、亜麻色の髪の少女は感嘆の声を漏らす。
ストローに口を付け、中のアイスミルクティーをズズズっとすすった。

周りは朝の朝食の時間であるせいか、騒がしい。
ここはとある町の食堂。
古くからある場所で、なじみの常連客が多い。
少女たちも、その雰囲気から、この食堂をよく訪れていた。

青い髪の女性は長い髪をすいた。
髪からのぞく四肢は整っており、
女性としてうらやましくなるような体つきをしている。
対して、向かいに座る亜麻色の髪の少女は、やや小柄でスレンダーな印象がある。
子供のように無邪気な雰囲気がそう見せているようだ。

「それで、その湖が、像を映し出すらしいのよ」
「ゾウさんを?」
「違う、映像」
少女の抜けた問いかけに、女性は呆れたように言う。
「音声付きの大画面でね」
「何を映すの?」
「色々よ。
私が聞いた話では――」
女性は、そこで話を止める。
少女が聞き入るように身を乗り出した。

「もう一人の自分、とか」

「ドッペルゲンガー?」
女性は首を横に振る。
「もしかしたらそれよりたちが悪いかも」
足を組み直し、女性の来ていたスリットの大きく入ったスカートが揺れる。
「森の奥地には、高度の魔導師でないとたどり着けないらしいの。
私の知り合いの魔導師も、かなりの使い手だった」
「どのくらい?
シェゾくらい?」
「――そこまでじゃないけど」
知人の名が出てきて、女性は不機嫌そうな顔をする。

シェゾという名の男は、二人にとっては忘れようとしても忘れられない。
強大な魔力を得るために、他人から魔力を奪ってきた男で、
二人も彼とは何度も戦った。
そのたびに圧倒的な力を見せつけられた。
幸い、彼は意外と間抜けな性格らしくて、二人は負けたことはないが。
この場合の負けとは、死を意味する。
特に、少女にとっては。
魔導師の端くれである少女は、シェゾの獲物だった。
負ければ、魔導力を取られ、それは、魔導師にとって死を意味するに等しい。

少なくとも良い思い出はない相手だ。
女性はシェゾを毛嫌いしていた。
少女の方は、なぜか懐いているようだけれど、
女性にしてみればその気は知れない。
「あんな男、人間じゃないわ、おぞましい。
あいつなんか水鏡を見て狂ってしまえばいのよ」
「く、狂う?」
突然女性の口をついて出た言葉に、少女は眉をひそめる。
女性は不機嫌そうに「そう」と答えた。

「水鏡、と呼ばれる湖を見てきた者は、必ずと言っていいほどおかしくなる。
無気力になったり、急に暴れ出したり。
突然笑い出して、ショック死した奴もいる」
並べられる言葉に、少女は肩をふるわす。
心なしか顔が青ざめている。
ミルクティーを一気に飲み干した。
「ご、ごちそうさま」
あわてて言い残し、席を立つと、
「アルル」
女性の制止の声が追ってきた。

アルルと呼ばれた少女は、思わず振り返る。
そこには、真剣な面もちの女性がいた。
「ル、ルルー?」
アルルが女性の名を呼んでも、その瞳は瞬きすらしなかった。
「これは忠告よ」
ルルーはゆっくりと息を吐く。
「あなたなら、いつかこの情報を耳にして、面白半分に湖へ行くと思っていた。
だから先手を打って置くわ」
アルルは思わず息を飲む。

「いいこと?
水鏡には絶対に近づいては駄目。
私の勘がそう告げているわ」
ルルーは強く、繰り返した。
「絶対に行っては駄目」

なぜか。
食堂全体に、沈黙が訪れた。
ルルーとアルルの会話が聞こえたわけではあるまい。
なぜか偶然、音が引いたのだ。
アルルは言葉を失った。

しばらく、アルルとルルーは一言もしゃべらず、ただにらみ合っていた。
ルルーからの一方的な視線が、アルルに突き刺さる。
耐えきれなくなったアルルが、大きくうなずいた。
「分かった」
そのまま、逃げるようにして店を出ていった。



森の奥には、近づいてはならない水鏡がある。

「アルル、今日こそはお前をいた……ほぐっ!」
銀髪の青年のあごに、青い髪の女性の平手打ちが入る。
よろよろと後退し、青年は叫ぶ。
「何すんだよ、ルルー!
この怪力女!」
「それはこっちの台詞よ、変態シェゾ!
まだ懲りないのね、あんた!」
シェゾと呼ばれた青年の言葉に、ルルーが突き返す。
双方そのままにらみ合い、側で見ていた少女と、黒髪の青年は、困った顔をした。

「相変わらず仲が悪いな、あの二人は」
「そうだね〜」
「ぐーっ!」
少女の肩に乗った生物が、分かっているのか分かっていないのか、
元気よく片手を上げた。

いつもの光景である。
湖の向こうの世界では、よくある光景。
いつもトラブルがあってややこしいが、毎日がにぎやかで楽しそうだ。

だから。
森の奥には近づいてはならない。
湖の向こうにあるのが本物の世界で、その内側は偽物だと気づいてしまうから。

ここは箱庭。
本物の世界の住人が命の危機に瀕した時、
代わりにその命を差し出させるために存在する世界。
魔王によって作られた、かりそめの世界。
それに気づいている者は。

まだ少ない。




END.

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あとがき:

草薙さんからの5000hitキリ番小説!
なのに……く、暗いっ!
ごめんなさい、ごめんなさい(汗)。
思い浮かばなくって、こんな訳の分からないものになってしまいました……。
リクエスト内容は「アルル、ルルー、ラグナス、シェゾの4人が出ていれば何でも良い」
とのことでしたが、だからといって突っ走りすぎたような気がします。
しかも中途半端。
結局この話は何なんだ。
キリ番小説としてでなく、いつか続きを書くと思います。
結末まで考えてあるんです。
そこまで話を持っていくのが長いのですが。
お、終わらせられるかなぁ……。
草薙さん、キリリクありがとうございました!






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