「若人」
青い頭が微かに揺れた。喉から乾いた空気を吐き出す。すぐに痰が絡んできてくぐもった音を立てた。 咳き込んだ。咽せたようでもない。ならば痰は絡まない。少し気になって、佐渡は弱々しくモップを握り締める同級生を見た。 「どうした、青海?」 青い海、と書いておうみと読む。初めて聞いたときは聞かない名前だと佐渡は思った。かくいう彼も、佐渡と書いて「さわたり」と読む。よく「さど」と間違われるので、彼の名前も読みにくい。 青海は目を細めて佐渡に視線を向けた。微かに殺伐とした雰囲気を秘めている。いつもそうではあるが、今は特に機嫌が悪そうだった。 目にかかる長い前髪が落ちる。それをかき上げようともせず、青海は視線を逸らした。 「別に」 低く呟く。声変わりが終わった今でも青海の声はやや高いように思われる。冷たい口調の割には子供じみた声だ。 身長が高くないせいだろうか。まだ背も伸びる年頃とはいえ、青海の頭は佐渡の目線辺りにある。佐渡も平均身長そこそこの背丈であるはずだが、青海ははっきり言って小柄の部類に入った。 どことなく声がかすれている気がした。咳をしたからだろう。額にはうっすらと汗が浮かぶ、前髪は額に張りついていた。 今し方部活を終えたばかりなので、汗をかいていてもおかしくはない。剣道部で、活動場所は体育館だ。一年生はモップで体育館の床を掃除しなければならない。数分前まで竹刀を握っていた手はモップを握っている。汗でよく滑った。 だが青海の顔色は青かった(髪も、紺というか、青みがかっているのだが)。運動した直後の顔に赤みはない。青海は剣道が強い割に細身だ。スポーツマンならもっと諸所に筋肉が付いていても良いはずなのだが、青海には必要最低限の筋肉しかついていないように思われる。無駄がないと言ってしまえば良いように聞こえるが、佐渡は少し心配に思った。 「具合が悪いのなら掃除が終わるまで脇で座っていると良い。モップは一緒に片づけておく」 もうすぐで終わりそうなのに切り上げて帰れと言うのも何だと思い、そう提案した。青海は頷かなかったがよろけながら体育館の壁に向かう。体育館を横断したため、走りながら掃除をしていた少年とぶつかりそうになる。 「こら、前を見て走れ!」 佐渡が叱咤すると少年は慌てて顔を上げた。青海とぶつかる前に横に逸れて避ける。 佐渡は副部長だ。副部長と言っても、各学年に一人ずついる。その方が連絡が行き渡りやすいからだ。人数の多い剣道部ならではのシステムだった。一年生の中でも責任感が強く真面目な佐渡に、その連絡係の役目は任された。今では連絡係以上の統率ぶりを発揮し、来年度の副部長も確定だろうと言われている。 程なくして掃除は終わったが、生真面目な佐渡は最後に隅をぐるりと一周拭いてから終わった。自分のモップを片づけてから青海の所へ駆け寄る。 青海は壁にもたれかかって座っていた。モップは握り締めたままだ。モップの柄が斜めに傾く。佐渡は奪い取るようにしてモップを受け取った。 掃除用具を全て片づけてから、佐渡は集合を掛ける。 「一年生、集合!」 話し声が一斉に止み、佐渡のいる所まで、駆け足で部員が寄ってくる。青海はその場に立ち上がった。 「これにて解散する。くれぐれも事故のないように下校すること。お疲れさま」 「お疲れさまでした!」 男女混声のかけ声が響く。それを合図に部員は散っていった。たいていの者は部室か更衣室に向かう。再び広がった話し声が、体育館の外へと流出していく。 全員が体育館から出たのを見送って、佐渡は振り返った。青海はまだ動く気配がない。 「大丈夫か?」 「ああ」 もう一度聞くとしっかりした答えが返ってきた。確かに大丈夫のようだった。安定してきちんと立っている。 「一緒に帰る奴はいるか」 「緑山と」 名前を聞いて、一瞬佐渡の眉が歪んだ。聞き慣れた名前ではあるが、二人はどういう関係だったか一瞬思い出せなかった。しかしすぐに二人の関連性に気づく。 彼らの帰る場所は家ではない。施設だった。詳しいことは佐渡も知らないが、緑山という男は青海と同じ児童養護施設で育ったという。 佐渡と緑山は生徒会に属している。佐渡はあまり緑山を好ましく思っていない。緑山のふざけたような態度は、生真面目な佐渡の神経を、いつも逆なでしている。生徒の代表者である生徒会の一員なのに、服装も生活態度もだらしがない。年上であることがさらに腹立たしかった。 青海と緑山は年が近いせいか、施設では仲が良いようだった。青海を前にして不満を言うわけにもいかない。 「気を付けて帰れ」 佐渡はそれだけ言った。 大股で体育館を突っ切ってステージ裏に向かう。ステージ脇の部屋に体育館の電源はある。一つ一つ消していくと、体育館の中に闇が訪れた。 体育館は静まりかえっていた。闇の中に沈んでしまったかのようだ。 佐渡は壁を伝って部屋を出た。ほのかな月明かりが照らしていた。紺色の世界は深海のようだった。 入り口の前には街灯が立っていてことのほか明るい。足元に何もない体育館では、闇の中でも歩くのに支障はなかった。 青海はもういなかった。出ていったようだ。入り口の前に立ってもう一度全体を見回した。誰もいないのを念入りに確認してから扉を閉める。 鉄扉は錆びていて実際よりも重く感じる。両手で引くと低い音を連続的に鳴らす。少しずつ扉が動いていって、ゴンと鳴って止まった。反対側も同じように閉める。 鍵を掛けるとガチリと鳴った。古い鍵を掛けるにはコツがいって、数秒で鍵をかけられる部員はあまりいない。毎日鍵を開け閉めしている佐渡にはお手の物だ。 事務室に鍵を返して、仕事は終わりだった。着替える前に鍵を返してこようと思い、佐渡は体育館脇の下駄箱から上履きを取って、裸足の足を引っ掛けた。 「お疲れさん。ご苦労なこったね」 背後から声が聞こえた。知っている声だ。先程話題に上がった男の声。 「こんな時間まで残っているなんて、珍しいですね」 佐渡は振り返った。街灯の下に背の高い少年が立っていた。ブレザーのボタンは全て開いていてシャツの裾はズボンから出ている。ネクタイはしていない。彼が頭を動かすと、耳に付けられた幾つものピアスがきらめいた。 普通に言ったつもりが、どことなく厳しい口調になった。自覚して、自分もまだ浅い人間だと佐渡は自嘲する。 相手はたかだか十七の子供だ(佐渡の方が年下ではあるのだが)。ムキになるなと自分に言い聞かせる。それでもなぜだか緑山が子供のような気がしないのは、においがあるせいだ。雰囲気がそうだとか、難しいことは言わない。 単純にたばこの臭いだ。 「また、タバコを吸っていたでしょう」 「ばれた?」 「当たり前です。臭いです」 佐渡の周りにタバコを吸う人がいないので、においは特に鼻につく。あまりに微かなにおいでも気づくので、時には犬のようだとも言われる。佐渡は気づいて当然だと言い張っている。 相変わらずの物言いに、緑山は苦笑いする。 「他に言い方はないのか? ちょっと傷つく」 「その傷ついた心を紛らわすためにまたタバコを吸うんですか?」 佐渡は一歩も引かない。緑山の表情は動かなかった。佐渡は、緑山が無意識の内にタバコを求めているのが感じられた。 精神安定剤のようなものだろう。ないと落ち着かない。立派な麻薬中毒者だ。佐渡は実に愚かだと思った。 タバコは麻薬の一種だ。癖になれば底なし沼に足をつっこんだようなものだ。一時的な安息をもたらす代わりに金も時間も浪費している。 汗水垂らして稼いだ金をつぎ込み。金を稼いだ時間や、寿命を費やし。一体煙草に、どれほどの価値があるというのか。 「若いのだから別の所でストレスを発散すればいいものを」 スポーツなり何なりすればいいのだ。若い内は出来ることがたくさんあるはずだ。むしろ、若い内にしかできないことも。 緑山は部活に所属していない。運動もそれほど得意ではなかった。得意ではないが、出来ないわけではない。なのに何もやらないことが、佐渡には理解できなかった。 「お前の方が若いだろう」 佐渡の言葉には応えず、緑山は笑う。ようやく口を開ける場所を見つけて、緑山は密かに安堵した。笑い方が少しだけ緩やかになった。 対して佐渡はため息をついた。 「自己の責任で済ませられるならそれでかまわない。お前の場合、傍に誰がいるかを忘れるな」 佐渡は喉を指で叩いて示す。 「咳き込んでたぞ」 そう言えば、誰のことだかは、聞かずしても判る。青海のことだ。緑山の表情がこわばった。 判っていないわけではないだろう。青海の体の弱さも、タバコの煙がその体には毒だということも。それでも緑山は喫煙をやめない。 自らを頑丈な囲いで固めているような頑固者の佐渡には、緑山が氾濫した川のように見える。校則は守らない。女性関係の噂も多く聞く。夜遊びも多いらしい。法律さえも守ってはいない。緑山を固めるものは一体あるのかどうか疑問に思えてくる。 緑山をつなぎ止めているものは、他人が作った法則でも何でもなく、一番身近な人間たちなのであろうことは何となく判る。青海であったり、緑山の姉であったり、緑山は家族のために行動するのだろう。 しかし。 人間のみを背負って生きていくことは、楽ではない。 佐渡は思う。機械的に定められた規則に沿っていくことは楽だ。枠の中に収まりながら生きていれば、楽な生き方ができる。それは最も退屈であるが、同時に最も安定している。 人間は定められた規則とは違い、予測不可能な方向へと動いていく。人間に沿って生きようとするならば、その人間を追いかけて、守っていかなければならない。常に気を配らなければならないし、労力も計り知れないだろう。 緑山はまだ若い。幼いと言っても良いかもしれない。そんな彼には、人間を基盤とした生き方は難しいのではないかと思う。少なくとも、いらだちに堪えきれず、タバコを求めては、傍にいる青海を巻き込んでいるようでは。 緑山はポケットに手を入れて、まだ新しいタバコの箱を握りつぶした。代わりに反対側のポケットからアメを取り出す。禁煙用のアメだ。タバコの煙が苦手である青海の前では極力タバコを吸わないように、禁煙を心がけている。 気づいているのだ。緑山だって。むしろ全て判っている。自分の行動が矛盾していることも、結局は無力に他ならないことも。 だから余計に腹が立つ。諭すような佐渡の言葉にも納得がいかない。それなのに出来ることは何もなくて、悪循環だった。 佐渡は緑山に背を向けた。これ以上緑山を責めるつもりはなかったし、緑山にも言える言葉はなかった。沈黙を切断するかのように距離を取る。 ちょうど正面から、制服に着替えた青海が更衣室から出てくるのが判る。更衣室の前ですれ違う。佐渡の方が声を掛けた。 「寄り道をせず帰れよ」 まるで教師のような物言いで、青海は苛立ちを通り越して滑稽だと思った。何も返さず、無視して通り過ぎる。佐渡は小さく肩をすくめた。 どうにも我が強すぎる奴ばかりである。他人の言うことは聞かない。他人には縛られない。自分自身にのみよって律する人間に、佐渡が何を言おうと、無力だった。 思わず口出ししてしまうのは、彼らがあまりにも危なっかしいからである。嵐の中へ飛び込んでいく小舟を見ているかのようだ。いつひっくり返るか分かったものではない。 本当は、口出しは無用なことであると思う。守るべき仲間がいるのならば小舟はきっと海を渡りきれるだろう。努力するのは遥か遠くにいる佐渡ではなく、小舟に乗っている青海や緑山たちだ。 青海の顔色は心なしか良くなっていたし、おそらく緑山はもう明日までタバコは吸わないだろう。 ぐらぐら揺れながらも、彼らは何とか小舟にしがみついている。端から見て非常に危なっかしく見えるのだが、その実、小舟は思いの外安定しているものなのかも知れない。 背の高い緑山に、背の低い青海。でこぼこコンビが仲良く肩を合わせて歩いているのを見ていると、そう思えてくる。 小言が多いのは、年寄りじみているのかもな。 不安定だが、それを乗り切るパワーに満ちあふれている若者の背中を見て、佐渡は自嘲する。気づかぬ内に自分は精神的にずいぶんと年をとってしまっていたのかも知れない。 ――だからといって、タバコも許しはしないし、だらしないことには注意をするけれども。 彼らの生き方が彼らの生き方ならば、これもまた佐渡の生き方だった。 校舎の方へ歩き出すと、ふわりと風が吹く。何となく汗のにおいがして、佐渡は早いところ胴衣を着替えてしまいたいと思った。 タバコのにおいは、もうしていなかった。 Fin. |