「真っ直ぐに」



 白を基調とした壁紙。公共の建物はたいてい白をイメージカラーにしている。事務室、いかにも重たい名前のこの部屋は、モノクロだった。
 普通の教室の数分の一しかない空間に、机が五つ置かれている。灰色の、引き出しがたくさん付いている机だ。職員室でよく見かける。
 入り口の正面にある窓は開いていた。さして暑いわけでもないが、窓を開けていると、自然と植物のにおいが入ってきた。春を待ちわびていた草花のにおいだ。どことなく開放感にあふれる香りに、胸が躍る。新しい季節の到来をしみじみと感じるのであった。
 特に、事務室の傍には桜が植わっているので、花弁も時々部屋の中へと迷い込んでくる。ほのかに桃色に色づいている。暖冬だったせいで、入学式から一月も経っていないというのに、桜の枝はやや寂しげだった。
 そんな一コマに目をやりながら、俺は事務室のガラス窓を軽く叩いた。
「すみません」
 少し大きめの声で呼びかける。入り口から一番近い席に座った男が振り向いた。三十代後半であると聞いたことがあるが、もっと若いように見える。口を横に大きく広げて笑えば、幼ささえ感じさせた。
 早朝この事務室にいるのは、うちの学校の用務員である松本さんだけだ。俺は毎朝朝練のため体育館の鍵を借りに、事務室へ行く。部活は剣道部だ。放課後になるとどうしても混み合うため、朝練を重点的にやっている。
 彼はそこから動かず、手招きをする。入ってこいということか。とはいえいつもそうしているので、俺は事務室のドアを開けた。
「失礼します」
 一応軽く頭を下げて中に入る。松本さんは左手をひらひらと振る。俺を見て、ニッカリ笑った。
「おっはよー! 毎朝ごくろー様!」
「……おはようございます」
 朝っぱらからのハイテンションに付いていけず、引きつった声になってしまった。松本さんはいつもこんな調子だ。俺だって朝に弱いわけではないのだが。松本さんの場合、昼夜かまわず、年がら年中元気であるに違いない。
 出勤したばかりなのか、白いワイシャツの上に紺のジャケットを羽織っていた。鞄を通路に堂々と置いていていたが、文句を言う者はまだ誰もいない。
 松本さんは「体育館の鍵だよな」と呟いて机の引き出しから鍵を出す。毎朝恒例なので、最近は何も言わなくても鍵が出てくるようになった。本当はきちんと鍵をまとめて置いておく場所があるのだが、毎朝そこから取り出すのもしまうのも面倒くさいらしく、松本さんが始終持っている。おかげでたまたま違う人に鍵を預けたとき、初めて鍵置き場の存在を知ることになって驚いたものだ。
 あまり細かいことを気にする人ではないのだ。そんな人がよく事務の仕事をしているなと、時々不安になる。その割に手先は器用で、仕事は出来る人なのだが。
 長い指で、体育館というプレートが付いた鍵を渡された。短く礼を言った。
 すぐには立ち去らずに、そのまま立っていると、いつものように松本さんが話しかけてきた。
「友達、百人出来たか?」
「無理言わないでください」
 いきなりのボケにきっぱりと答える。松本さんは口をへの字に曲げる。
「一年生になったら、やっぱ友達百人目指すもんだろ」
 有名な歌の歌詞だが、それを現実に強要するのもおかしな話だ。でも存外松本さんが落ち込んでいるので、言葉をつなげる。
「友達は出来ましたよ。クラスメイトに」
 松本さんの口が緩やかな弧を描く。優しい笑顔だ。
「そいつは良かったな」
「はい」
 頷くと、今度は松本さんが誇らしげに口を開いた。
「俺も友達出来たぞ」
 俺は首を傾げる。新しく入ってきた教師と仲良くなったのだろうか。誰にでも親しげに(けしてなれなれしいとか表現してはいけない、本人がいじけるから)話せる松本さんは、知人友人が多いようだった。
「お前の隣のクラスで、武藤っていう」
「高校生かよ!」
 予想外のお友達に思わず叫んでしまった。ここが学校だということを忘れていた。狭い事務室の中で、心なしか声が響いたように思える。
 隣のクラスの武藤は、少々変わり者だった。何か、人間じみていないのだ。クラスに馴染もうともせず動物とばかり戯れているらしい。確かにそんな武藤には松本さんくらいくせ者の友人がちょうど良いのかもしれない。異様な空気を放つ武藤とでも、松本さんは変わらず親しく接するのだろうから。
 この人は親しげすぎて時々困る。俺も毎朝事務室に寄る度にこうして話し込んでいるのだ。思いの外時間をとられてしまうので、わざわざ早めに来るようになった。それでも松本さんはすでに出勤しているのだから、一体何時から来ているのだろう。最後戸締まりをしてから帰らなければいけないのも松本さんなので、学校を出るのも最後だ。ほとんど学校に住んでいる状態なのではないだろうか。
 ……まさか、本当に住んでいたりしないだろうな。あり得そうで、げんなりした。
「俺のモットーは世代も常識も時空も越えることさ。枠組みだらけの世の中に収まってたら、せっかく広いこの世界の何分の一も楽しめないだろ」
「いや、時空は越えないでください」
 せっかく良い台詞なのにこの人は何か一言多い。結局はしゃべりたがりなのだ。大半の言葉は軽く割愛しながら聞いているのに、気が付けばこの人はいつもしゃべっている。
 俺は鍵を制服のポケットにしまい、腕時計を見る。今から胴着に着替え、鍵を開ければ、みんなが来る前に個人練習が出来るだろうか。
「そろそろ失礼しても良いですか?」
「駄目だ!」
「失礼しました」
「無視かおい!」
 何やらわめく松本さんをきっぱり無視して、ドアを開ける。回転式のイスを小刻みに回して、甲高い音を鳴らす。声と合わさって実にうるさい。ドラゴンの子どもの鳴き声が聞けるとしたら、こんな感じだと思う。
 子どもかあんたは。ため息を一つついて、「本当に行きますから」と言って振り返る。
 イスの音がやんだ。松本さんはじっと俺を見上げる。その瞳の色からは、彼が何を意図しているかは判らない。たぶん、何も考えてはいないのだろう。しかしこれは何かを思いついたときの反応だ。
 何か面倒なことになる前に出ていこうと思って体を半分廊下に出す。後ろから、「お前、剣道部だったっけ」と聞かれる。何を言い出すのかは判らないが、うそを付く理由もないので、首を縦に振った。
「どうだ、一本打つか?」
 そう言って、彼はボールペンを握った右手で空を叩く。試合をするか、と言われたのだと認識するには数秒かかった。
 思わず眉間にしわが寄る。それを見つけて、彼は朗らかに笑った。
「俺もな、昔は剣道をやっていたもんだよ。ちょっとは有名だったんだぜ? 『疾風のパーマン』ってな」
 たぶん、パーマンは天然パーマからきているのだろう。まだ白髪のない黒髪は好き勝手な方向にはねていて、まさに鳥の巣のようだ。かなりふわふわしている。
 襟首にかかる髪の先も見事にカールしていた。本人も天然パーマを気にしているようだが、そんなに気になるなら、いっそのこと髪を短くしてしまえばいいと思う。坊主にしろとまでは言わないけど。
 この人が剣道をやっていたなんて。正直驚いていた。疑う必要性はまるでないのに、なぜだかにわかには信じられない。しばらく頭の中では何も考えていなかった。
 そうして、何秒間静止していたのだろう。松本さんが苦笑した。
 声をかけられてようやく我に返る。何度か瞬きをして、苦笑し返した。何を言えばいいのかよく判らなかった。
 「どう、やる?」と繰り返し聞かれる。俺は、あいまいな返事を返すことしかできなかった。そのまま継ぐ言葉がなくて立ちすくんでいると、松本さんはニヤリと唇を曲げる。
「そんなに深刻にとらえなさんなって。冗談だよ冗談」
 何が冗談なのかはよく判らなかったが、とりあえず気まずい雰囲気をなかったことに出来るのならそれにすがりたかった。俺のあからさまに逃げたがる様子をくみ取って、松本さんは眉を下げる。困った顔だ。だけど松本さんの場合、いつも陽気な人柄のせいか、あまり困っているようには見えない。
 全部事実なのだろう。剣道をやっていたのも、有名だったのも、俺と試合がしたかったのも。
 何故高校生の俺と剣道の試合をやる気になったのか。冗談だと言っていたが、何一つ冗談で言ったことなどないだろう。常にまっすぐ、突っ走っている彼に、冗談なんて言えない。そこにあるのは真実だけだ。
 気になって、聞こうかどうか迷った。自分から話を掘り返すのは面白くない。だけどここで聞かなかったら一生聞く機会を逃してしまうような気がする。
 俺はドアノブに視線をやったが、結局退出するタイミングも逃してしまっていたことに気づいた。こうなれば話題の一つや二つ掘り返したところではどうにもならない。
「何で、俺と試合しようと思ったんですか?」
 未練がましくも少しまごつきながら口を開く。こんな時にはきはきと言えない自分がもどかしい。松本さんくらいはきはきしているのもどうかと思うが。
 松本さんは少しだけそり残したひげに手をやって、考える振りをする。そんなことしたってどうせ何も考えていないだろう。思った通り松本さんはすぐにその動作をやめて、代わりに俺をじっと正面に見据えた。
 射抜く視線。不意に懐かしい感覚が蘇った。試合の時の感覚だ。
 お互いにぶつかる気迫、熱気に包まれる会場。妙な緊張感が、背中の筋をぴんと張って、どんなときよりも身体がまっすぐになるのだ。固まっているわけではない。むしろどんな動きにでも対応できそうな感覚。
 松本さんの視線は、試合の時に真正面にいる相手のそれだった。試合はもう数ヶ月間やっていない。中学三年の半ばに引退してからは竹刀にさえ触れる機会は少なかった。
 ぞくりとした。そして悟った。松本さんが急に試合をしないかと言ったのは、これなのだと。
 血の気が騒いだのだ。試合がしたいという戦いの本能がざわめいた。思わず思ったままに言ってしまった。そんな感覚なのだ。
「お前、中学時代全国に行ったんだってな」
 何故知っているのだろう。松本さんがニヤニヤ呟いた。
「強い奴とは戦ってみたいわけよ」
 うずうずしている、といった感じだ。自分の半分も生きていない子供をよく「強い奴」などと表現できるものだ。普通の大人ならプライドが邪魔して言えた物ではない。
 俺としては過去の実績を出されてもむずかゆいだけだった。確かに全国大会には行ったが、試合は史上最悪だった。二度と同じ事は繰り返したくない。出来ることなら全ての情報を消し去って、みんなに忘れて欲しかった。
 思わず嫌悪が顔に出る。やはり掘り返すべきではなかったかも知れない。これ以上話したくない、という気持ちが、俺の身体を事務室の外に引っ張る。
 松本さんはなおも俺を引き留める。
「もったいねーよ」
 主語のない言葉は妙に深く突き刺さった。何かをとがめられているのが判った。それが何かは判らない。だが俺の中にある何かに、確実にヒビが入った。
「お前はさ、中学時代に大きな壁を見ちまったんだよ。本来若い内は何も恐れないもんだ。限界ってのにぶち当たったことがないからな」
 最後の大会のことが思い浮かんだ。全国と名の付く大会。人生の中で、間違いなく一番大きな大会だった。よく判らないけど、がむしゃらにやる内にたどり着いていた。直前までまるで自覚がなかったのだ。
 自覚したのは、会場へ向かう電車の中。スピードを上げて電車が目的地に近付くにつれ、血液が脳みそから逃げていった。
 緊張していた。なるべくなら出たくなかった。どうしてここまで来ちゃったんだろうって後ろを振り返ってみても、戻れるわけじゃない。電車は進む。止まらずに進む。
 結局俺は辿り着けなかった。それ自体は俺のせいではなかった。電車が事故に遭ったのだ。俺の乗っていた車両が線路の途中で脱線して、立ち往生する羽目になった。
 辿り着けなかったのはその後だ。もう一度戦うことも不可能ではなかった。だけど戦わなかった。
 最後の戦いは、不戦敗だった。
「お前はまだ若い。まだ限界なんて知りもしない。そうだろ?」
 脳天に思い切り面を食らったような気分だった。軽快な音が俺の体をまっぷたつに割っていく。目の前がちかちかした。衝撃が頭のてっぺんから足の裏へと駆けめぐっていく。
 松本さんはおもむろに腰を上げた。立ち上がっても一七〇半ばで俺と同じくらいなのだが、不思議と大きく見えた。ずっしりとした貫禄が見える。これが、松本さんの生きてきた人生なのだろう。松本さんを見かけるのは、朝練の前の数分間だけ。なのに、彼の生きてきた時間がかいま見えた気がした。
 松本さんは俺に背を向けてストレッチを始める。時折「うお〜」とか「くあ〜」とか言うのが、実に親父くさい。
 伸ばした左手を右方向に伸ばし、右手で押さえつけながら松本さんは言う。
「若いんだから真っ直ぐに突っ走れ。やりたいこと以外考えなくて良い。
 真面目なお前さんにはそれくらいがちょうど良いだろう」
 その後ろ姿は言っている気がした。「また戦えば良いだろう」と。
 なんだかまぶしかった。まだ低い位置にある太陽が、窓からのぞいているせいかもしれない。松本さんはちょうど逆光になっていて、俺の目に神々しく映った。
 俺はドアを開け放って真っ直ぐ立った。直立姿勢、頭も背中も腰も足も、全部真っ直ぐだ。松本さんを正面に見て、口を一文字に結ぶ。
 深々と頭を下げた。松本さんには見えていないかもしれないけれど、そうしたい気分だった。
「ありがとうございました」
 短く告げて事務室を後にする。松本さんがちらりと振り返ったのが見えた。白い歯を出して、口をいっぱいに広げて笑っていた。
 風に吹かれた桜が手を振るように枝を揺らす。命を燃やす火の粉のごとく花びらを散らしていく。桜の木の下は真っ白だった。今年の桜ももう終わりかと思うと感慨深いけれど、来年も咲くからまあ良いかと思う。
 直線の廊下を思い切り走る。私立校の校舎は広々としている。迷ってしまいそうだった。RPGのダンジョンみたいだ。ここから俺の冒険が始まるのかと思うとわくわくする。まだ誰もいない廊下には、俺一人。思う存分走り放題だった。
 体育館に行ってもまだ誰も来ていないだろうけれど、剣道部の友達を見かけたらまず試合がしたいと思った。どうせなら敵わないほど強い奴と戦ってみたい。部長に手合わせを頼んでみようかと考えてみたら、どきどきした。
 思いっきり負けたってかまわない。むしろその方がすがすがしい。限界なんて判らない。
 俺たちはまだこれからだから。



FIN



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