「竜巻」



　突き出した枝が布の半ばに突き刺さる。ブツリと嫌な感触が足に伝わった。
　反射的に顔を後ろに向けるが、何が起きたのか認識する前に体が傾いていく。スカートを引っ張られて、カサブランカはその場に倒れ込んだ。とっさに出した腕が木の根にぶつかってすりむく。白い肌に浅い傷ができて血がにじんだ。
　突然世界がひっくり返った。カサブランカには何が起きたのかさっぱり判らなかった。半ば混乱しつつ必至で前に進もうと、腕だけが地面を掻いた。カサブランカがもがいても、枝はなかなか取れない。
　白いワンピースはあっという間に泥の色に染められていった。髪の先が黒くなる。肩まである髪をまとめた、大きなピンク色のリボンも、泥が跳ねて黒ずんでいた。
　心臓の鼓動は速くなるのに、顔はどんどん青ざめていく。白くなった唇から、意味をなさないおえつが漏れた。
　視界の端に黒い影が見えた。追っ手の男たちが自分に追いついたのだ。人影かどうかは判らなかったが、カサブランカはそう思った。
　一気に身体が冷めていく気がした。かえって頭が回るようになる。もう一度自分の足下に目をやると、スカートに突き刺さる枝に気付いた。
　スカートを思い切り引っ張って、引き裂く。枝が刺さった部分を支点に、スリットができた。
　カサブランカは腕で上体を持ち上げて、走り出す。靴が片方脱げたが、気にしている暇はない。裸足で木の根に乗り上げ、滑り落ちるように進む。足の裏に意志が食い込んだが、痛みは感じなかった。
　木が爆発する。木々が木片をいくらか防いでくれるが、爆風がカサブランカの肌をなでた。視界の端に、幹の中央部だけごっそりとなくなっている木が映る。支えを失った上の部分が地面に落下した。葉が隣の幹にこすれ、やかましい音を立てる。
　音に紛れて「くそっ！」という男の声が聞こえた。木が吹っ飛んのは男の仕わざらしい。しかし落ちてきた残骸に阻まれ、進めなくなったようだ。カサブランカの肩から少しだけ力が抜けた。
　カサブランカは追われている。それだけが事実だ。何故追われているのかは判らない。薬屋をやっている友人の下から帰る途中のことだった。森の脇を通る街道を歩いている途中、目の前に男が二人現れた。彼らは攻撃してきた。だから逃げた。
　カサブランカは逃げなければならない。それだけが事実だ。理由も何もいらなかった。
　いくつもできた足の傷が、地面に足をつくたびに痛みだした。逃げ続けた足が悲鳴を上げている。そろそろ限界だった。
　せめて何か反撃できるものはないだろうか。カサブランカは自分の手を見たが、何も持っていない。友人からもらってきた薬も他の荷物も、森の中に落としてきてしまったらしい。
　追いつかれたら終わりだ。
　逃げなければ。頭はそう命令するが、足はこれ以上動いてくれない。背後で音がするたびに、追いつかれたのではという恐怖がよぎる。
　木々をかき分けるようにして必死で進む。森の中はいつまで経っても同じ風景の繰り返しだった。出口は見えない。それどころか、袋小路に向かってどんどん追い詰められているように思えた。
　再び爆音が聞こえた。今度は真後ろから。
「待ちやがれぇっ！」
　続く男の怒声。以外と近くから聞こえた。
　声に意識を取られていると、目の前に大木が差し迫っていた。ぶつかる。カサブランカは慌てて立ち止まった。
　止まると同時に、カサブランカの足から全ての力が抜けていった。色を切られたマリオネットのように動かなくなる。カサブランカは崩れるようにして幹にもたれかかった。うつむいた顔から嫌な汗が流れ落ちる。
　大木を背に、振り向いた。目の前にいたのは、街道に現れた男二人。片方は人相の悪いスキンヘッドで、もう片方は平凡そうな短髪の男。どちらも体は大きく、カサブランカの頭は彼らの胸の部分にも届かない。至近距離で敵うはずもなかった。
　奇妙な笑い声を口の端から漏らしつつ、男たちがにじり寄る。カサブランカは木の幹にへばりつくことしかできなかった。男たちがカサブランカを見下ろす。
「小せぇなぁ、まるで人形みたいだ」
「頭とか握りつぶせるんじゃねーの？」
　男たちが口々に言って、笑う。カサブランカは彼らを見上げることしかできなかった。ココアにミルクをたっぷり入れた色の瞳に涙が浮かぶ。
　残っている力を振り絞って、胸元のブローチを握りしめた。いつもつけているブローチは、ちゃんとなくならずにそこにあった。カサブランカは穏やかな気持ちになった。それだけでいい気がした。
　花のレリーフに彩られたブローチ。母から贈られたブローチは泥にまみれてざらざらしていた。強く握りしめて、中の写真は大丈夫だろうか、と思う。ロケットになっていて、中には家族の写真が入っている。母がまだ生きていた頃の、家族の写真だ。カサブランカが幼くて、父にだっこされている。
　最期に、その写真だけ見たかった。それだけが心残りだったが、ブローチを握りしめていると家族みんなが一緒にいる気分になって、暖かかった。
「早く仕事終わらそーぜ」
　スキンヘッドの男が言う。平凡な顔の男が頷いて、背中の鞘から大きな刃物を抜いた。カサブランカの身長くらいあるかもしれない。あまり磨かれていない刀身は濁っていた。手で触った跡がたくさんある。
「可愛い顔は傷つけないでおいてやるよ」
　刃が振り下ろされる。近付いてくる刀身を、カサブランカはじっと見つめていた。
　瞳の中に細長い影が映る。だんだんそれが大きくなって。
　消えた。

　赤い雨が降ってきた。赤い雨の滴がぽつりぽつりとカサブランカに落ちる。赤い水玉模様がワンピースを彩った。
　刃物が男の手をくっつけたまま宙に飛んだ。くるくると回転しながら森の中に落っこちる。澄んだ音と共に、刀身が地面に突き刺さった。
「ああああ……」
　半ばほどから綺麗に切り取られた腕を押さえ、男が言葉にならない呻きをこぼす。切断面からは鮮血がリズミカルに吹き出していた。小さな滝を作る。地面が血を吸い込んで赤黒く染まっていった。
　突然のことだった。何が起きたか判らなかった。何も見えなかった。「彼」が「いつ」現れたかも見えなかったのだ。
「消えろ」
　低く呟いて、「彼」は跳ぶ。腕を押さえている男の首に剣の柄を当てた。振りかぶって、首の後ろに打撃を与える。男は小さく震えて、前に傾く。支える力を失った身体は、そのまま地面に倒れ込んだ。
　男の頭部がカサブランカのすぐ側に転がる。完全に気絶しているようで白目をむいていた。口からは白い泡がこぼれている。
　カサブランカも、スキンヘッドの男も、呆然としていた。突然現れた少年を凝視する。
　髪は夜のように暗い青。切れ長の瞳には、魔的に雰囲気のある紫色の目玉が埋め込まれている。年はカサブランカとそう変わらないだろう。発展途上の身体はまだ小さく、男との身長差は歴然としていた。
　だが少年は全く小柄に見えなかった。頭一個分以上違うスキンヘッドの男と並んでも引けを取らない。それどころか、少年のただならぬ気配を感じ取って、男の方が萎縮している。
　オーラが違いすぎるのだ。少年の洗練された鋭い目つきは、研ぎ澄まされた刃のようだった。傍で見ているカサブランカでさえもぞっとする。
　少年が手にした剣を構えた。少年の背丈から見れば、不釣り合いなほど大振りの剣。それを片手で軽々と持ち上げている。細い腕のどこにそんな力があるのだろうか。
　少年に切っ先を向けられ、男が慌てて刃物を手に取る。先ほど平凡な顔の男が出したのと、似たようなデザインの剣だ。
　その剣は構えることなく弾かれる。少年が刀身を軽く男の手元に当てただけだった。
　鈍い音を立てて剣が落ちる。男はカラになった手を、口を開けたまま見つめていた。目に飛び込んでくる情報が男の理解力を超えたらしい。信じられない光景を理解できないままに、男は少年の剣に圧されて後ろにつんのめった。
　後頭部が木の幹に当たる。小気味良い音を立てて男の身体が弾んだ。そのまま男の身体は力を失って、木の幹にもたれかかった。
　二人の男はぴくりとも動かない。交互に顔をのぞき込んで、完全に動かないことを確かめる。何度か同じことを繰り返したあと、カサブランカはやっと大きく息を吐いた。
　助かった。安堵の気持ちと共にどっと疲れが押し寄せてくる。カサブランカも、金縛りにあったみたいに動かなくなった。瞳を開けているのも辛い。
　少年はポケットから布を取り出すと、刀身に付いた血を軽く拭う。少年は剣を持ち上げ、の角度を変える。木漏れ日が反射してきらきらと輝いた。剣を肩に提げた鞘に収める。
　少年がカサブランカに向き直った。紫色の瞳にカサブランカが映る。闘志は消えたが、ぬぐい去れない厳しさが宿る。少年に見据えられ、カサブランカは息を飲んだ。
　カサブランカの傍に歩み寄ると少年は屈み込んだ。カサブランカの足を手に取る。靴を履いていない方の足だ。素足に少年の指が当たる。少年の指先は冷たかった。
　カサブランカの足に力がこもる。歯を食いしばって力んでいるのに少しも動けない。少年の力は思いの外強く、カサブランカの足を押さえつけている。カサブランカの腕が小刻みに震えた。
　少年はカサブランカの足を優しくなでる。足に食い込んだ小石を丁寧に取り除いていった。上着に隠れていた、腰のベルトに取り付けられた小さな箱を出す。中から包帯を取るとカサブランカの足に巻いていった。
　きつくもなく、緩くもなく。手慣れた手つきで包帯を巻いていく。黙々と手当をしていく少年の姿は、不思議だった。
　包帯の端をハサミで切って、結ぶ。包帯もハサミも箱の中にしまって、腰のベルトに装着した。
　少年は別のポケットから白い靴を取り出した。「落ちてた」と一言だけ言う。努めて低くしていた先ほどの声とは違い、年頃の少年にしては高い声だった。
　カサブランカの靴だ。道中で拾ってくれたらしい。カサブランカが受け取る前に、少年はカサブランカの足を軽く引っ張って、靴を履かせた。足の裏の傷に当たって、少し痛む。カサブランカが顔をしかめると、少年は「悪い」と呟いた。
　少し迷ってから、カサブランカは口を開く。
「あの、ありがとうございます」
　少しのんびりとした口調は元々のものだ。この切迫した状況下でのほほんとするほど神経が図太いわけではない。優しげに垂れ下がった大きな瞳にのぞき込まれて、少年は目をそらした。
「立てるか？」
　ぶっきらぼうに問いかけられ、カサブランカは首を小さく縦に動かした。身体に力は入らないが、足が痛くて立てない、と言うことはない。もう少し落ち着いたら立てるようになるだろう。少年は「そう、良かった」と呟いた。淡々とした口調に感情はこもっていない。ちっとも嬉しそうじゃなかった。
　立ち上がってカサブランカに背を向ける。不快にさせたのかとカサブランカは不安になるが、少年はすぐスキンヘッドの男の傍に屈み込んだ。下まぶたを引っ張ったり脈を取ったりしている。
　手当てしてやるのかと思えば、違うらしい。少年は男の腕を自分の肩にかけると一気に担ぎ込んだ。自分の体重よりはるかに重いであろう男の身体を、軽々と持ち上げる。カサブランカは曲芸を見ている気分になった。巨体の男を持ち上げる小柄な少年の姿は、それほど奇妙で滑稽だった。
　カサブランカの近くで倒れている男の方が重傷だと思うのだが、そちらの方は放っておいていいのだろうか。カサブランカは気になって視線を地面に向けた。男の顔は青ざめている。出血は大分収まったようだが、切れた腕は痛々しかった。
　カサブランカは大きく息を吸い込む。血のにおいが鼻をついて、後悔した。
　大きく息を吐く。肺がぺしゃんこになるほど空気を吐き出すと、カサブランカは意を決したように、一気に立ち上がる。一瞬目の前の景色が白黒になって、脳貧血を起こすが、しばらく木により掛かっていると良くなった。
　少年は、いきなり活発になったカサブランカに怪訝そうな視線を送る。カサブランカの行動を視線で追って、ぎょっとした。
　カサブランカは地面に突き刺さった男の刀の方へ歩み寄る。その柄を握りしめたままの、切り放された腕を掴む。硬直している指を一本一本はがし、腕を柄からむしり取った。
　カサブランカは記憶にあった。切断された腕は、早い内にくっつければ元に戻ると。詳しいことはよく判らないが、やらないよりは良いと思った。
　筋肉の凹凸にあわせて腕を戻す。白い手が血液に濡れた。手のひらについた泥が血で洗い流されていく。肘の位置でだいたいの方向は判った。
　腕を両手で押さえつけたまま、カサブランカは口の中で呪文を唱え始める。白い光が彼女の周りに現れた。
　淡く輝く、白い光の球体。少年はその光を見て簡単の息を漏らす。「潜在魔法か」
　潜在魔法とは、誰に教わるわけでもなく、生まれつき使える魔法である。その能力を持つものはわずかであり、たいていの人間は呪文と魔法陣によらなければ魔法を使えない。
　カサブランカが使っているのは、俗に治癒魔法と呼ばれているもの。男の腕は見る見るうちにくっついていく。切断された跡はハッキリ残っているものの、出血は完全に止まっている。
　カサブランカはおそるおそる手を放す。分離する様子のない腕にほっと胸をなで下ろす。腕はくっついたようだ。
　髪を結んでいたリボンをほどく。ちょうちょう結びを解くと、リボンは一枚のスカーフになった。それを男の腕に当てる。傷を覆い隠すように結ぶと、カサブランカはやっと腰を上げた。
　一部始終を眺めて、少年は最後にカサブランカを見る。
「あんたを襲った奴だぞ。何故助ける」
　非難しているわけではない。ただ純粋に不思議だった。好奇心から聞いてみたくなったのだ。
　カサブランカは小さく微笑んだ。少し困ったように首を傾げる。
「ケガをしていましたから」
　ただ、それだけの理由だった。血が沢山出ていたから、腕が切れていたから、どうにかしなければならないと思った。その前後は関係ない。目の前にケガをしている人がいたから治療したのだ。
　少年は口を固く結んだ。「変な奴」という感想は口に出さないでおいた。
　綺麗な指先を真っ赤にしてまで助ける理由がよく判らない。だがそれを判りたいとも思わなかった。助けたければ勝手に助ければいい。自分が迷惑をこうむらなければ何だってかまわない。自分は自分、他人は他人だ。
　口では適当な相づちを返しておいて、少年は街道の方へと歩き出した。走ってきた方向は覚えている。そちらに向かえば、とりあえず道のある場所には出られるはずだ。
　カサブランカはついていくべきかどうか迷った。まだケガが完全に治っていない男と少年を、交互に見やる。結局自分一人では道も判らないので、少年の方について行く。見失わない程度に距離を置きながらついていった。
　少年は人一人抱えているというのに、足早に森を抜けていく。カサブランカはほぼ走っている状態だった。気を抜くとすぐに見失いそうだ。
　幸いなのは、逃げてくる時と違って、比較的通りやすい場所を通っていることだ。おそらく獣道か何かなのだろう、足下の凹凸は激しいが走れないほどではない。足を取られる根も泥もなく、何とかカサブランカは少年の背中を追っていた。
　木々の隙間から明かりが見えてくる。目を凝らしてみると道が見えた。街道だった。逃げてきた時よりもずっとずっと近かったように感じたのは、歩きやすい道だったせいか、少年が近道を通ってきたせいか。
　カサブランカの表情に明かりが灯る。もう疲れてへとへとだったが、何とか街道までたどり着けそうだった。
　まばらになった木々の間を抜けて道に出る。上には森にフタをするかのように覆い被さる葉っぱもなく、広い空が見渡せた。空の色が懐かしく感じた。カサブランカはやっと安心して深呼吸ができた。
　だいぶ走っていたように思えたのだが、まだ日は暮れていなかった。日は傾いているものの十分に明るい。道の向こうからは馬車がやってくる。二頭の馬が軽快な地響きと砂ぼこりを立てながら走ってくる。馬車の運転手はカサブランカの姿を見て驚いたようだが、急に止まれるはずもないのでそのまま通り過ぎていった。
　カサブランカは自分の服が大変汚れていることに気付いた。気にする暇がなかったので意識していなかった。気付いてしまうとどうにも恥ずかしくなる。どこかに身を隠す者はないかと視線を巡らせる。
　何もない。誰もいなかった。
　カサブランカは慌てて道の左右を見る。通り過ぎていった馬車が、道の凹凸に揺られながら走り去っていくのが見えた。真っ直ぐに伸びている街道に人影は見られない。服装を見られたくないカサブランカには好都合だったが、代わりに少年もいなくなっていた。
　竜巻のような人だった。前振りもなく現れては周りのものを巻き込んで、全てをひっくり返してはどこかへ消えてしまう。全ては幻か夢だったかのように思わせる。
　彼が確かにいたという証拠は、足に巻かれた包帯のみ。包帯越しに、足の裏がズキリと痛んだ。



END.