「蛍」



 岩の隙間を水がすべり落ちていく。水面につきたてられた細く小さな足を、水がなでていった。足が水面から抜け出ればしずくが空に舞い、また入れれば波紋ができる。それを繰り返しながら、子供は川の上へ上へと上っていった。短いズボンの裾が歩く度に濡れた。
 小さな頭にくっついた大きな瞳が、水中を見下ろす。きょろきょろと目玉を動かし、しきりに獲物を追っていた。魚だ。
 しばらく上流から下りてくる魚が足下を通り過ぎていくのを見ていたが、動きの鈍い大きめの魚を見つけると食い入るようにそれを見た。静かに屈む。動かない。子供は石像のようにじっとしていた。
 ちょうど子供の真横に来た頃、いや、それよりも一瞬前。さっと、細い日本の腕が水中に伸びた。囲うように掌を開き、手に魚が当たる。手に力を込め、両手でカゴを作るようにしてその魚を捕らえた。
 子供は水から魚を取り出す。魚は手から逃れようと尾びれをばたつかせ、夕日に鱗がきらめいた。子供は逃がしてなるものかときゅっと唇を結び、川原に置いたポリバケツの中に魚を放る。水が跳ねた。くすんだ銀色のバケツの中で、魚はぐるぐると泳ぎ回っていた。喜びに子供の顔がきらめいた。
「やった、一匹捕まえたぞ!」
 見たか見たかと何度も叫び、興奮覚めやらぬ様子ではしゃぎ回る。丸っこい石の上を飛び跳ねた。魚はぐるぐると回り、狭いバケツの中で暗い壁を見つめている。
 ふと子供は、辺りに壁があることに気づいた。川原のすぐ上から山が始まっていて、周りには誰もいなかった。左岸は急な斜面があって、土がむき出しで、木の根っこが飛び出している。両脇に山があるせいで夕日はすぐに隠れていった。
 子供は急に不安になった。夢中で魚を追うあまり、かなり上流の上へ来てしまった。水から抜け出て興奮から冷めたとたん、不安が目を覚ましてむくむくと大きくなった。
 子供は泣き出した。白いTシャツの袖を引いて、溢れる涙を吸い取る。それでも涙は止まらなくて、Tシャツは涙でシミを作った。
「灯火、どこだよ。どこだよ。」
 姿の見えない友人の名前を呼んで、座り込む。数十分前には共に魚を捕っていたのだ。どちらが多く捕れるか勝負していたが、なかなか捕まらないのでごうをにやし、危険だと判っていて上流の方へ進んだ。ただ、ここまで来るつもりはなかったのだ。すぐに戻るつもりだった。
 下流の方を見下ろしても、家は見えない。夕刻は短く、辺りはあっと言う間に暗くなった。紺に染まった空と深緑の山が子供を見下ろす。囲い込む壁に押しつぶされそうだった。
 子供はその場から動けなくなった。バケツの中の魚のように行き場がない。子供はちらりとバケツの中を見た。水の中で黒い影が泳いでいるのが見える。暗がりで見えないが、そこに魚がいるのだろう。日が暮れて眠る時間になったのか、動きが鈍くなっている。
 子供はバケツを持ち上げて川の側まで歩いた。昼間はどうと言うことなかったが、暗くなると川原は歩きづらかった。石がごろごろしていてバランスが取れない。丸い石が多いので足が滑る。
 浅い川とはいえ、暗くなれば怖いので、恐る恐る足を伸ばした。左足を川につけ、水がどこにあるのかを確かめてからバケツをひっくり返す。水が跳ねる音がするが、魚が元気に帰っていったかは判らない。
 またそろそろと川原へ戻っていくと、そこにはぼんやりとした光が立っていた。モヤのようであった。不気味に思って子供は立ち止まる。確かに先程まではなかった。光が動く。心なしか子供に近づいてくる。子供は後ずさった。川の水がかかとに触れる。
「危ないぞ。一人で何をしている?」
「うわぁっ! し、喋った!」
 よくよく見ると、それは少女の形をしていた。子供と同じくらいの少女である。耳たぶの下で髪を切りそろえている。今時珍しいおかっぱだ。服も、祭りや七五三でしか着なさそうな着物を着ていた。淡い緑の光の中、楓色の着物が鮮やかだ。
 女の子と判るだけで、ずいぶん安心した。光っている理由は判らなかったが、綺麗だと思った。子供はその少女に歩み寄った。
「どこの子? 名前は?」
 子供は、自分は近江高矢(おうみたかちか)だと名乗った。少女は首を傾げる。
「私に名はない。」
「どうして」
「誰も呼ばなかったからだ。」
 高矢は「変なの」とぼやいた。釈然としないのか、「じゃ、蛍って呼んで良い?」と問う。少女はどうでも良さそうに頷いた。
「蛍みたいだと思ったからさ。緑色に光ってて綺麗じゃん。蛍はどうして光ってるんだ?」
 喜々として言う高矢に、少女は、蛍は顔をしかめる。
「知らない。高矢は質問ばかりだな。」
「蛍が何も答えないからだよ。」
 高矢は口をへの字に曲げる。それが思いの外変な顔だったので、蛍は笑った。
「なぁ、高矢。お前は蛍が好きなのか?」
「好きだよ。」
 高矢は目を輝かせた。
「少しだけ緑に光ってて、あの不思議な色合いが好きなんだ。闇の中でぽつんと光っているのも好きだ。闇の中に白い穴が開いたみたいだろ。その点を追いかけていくとどこへ辿り着くのか、いつか知りたいんだ。」
 きっと桃源郷に繋がっているに違いない。そう言って、高矢は言葉を閉じた。高矢は自分だけ喋っていたことに気づいて赤くなった。蛍はまた笑った。
「蛍は、蛍が好きか?」
 蛍は一瞬どっちの蛍のことを聞かれているのか迷って、少し間をおいた。
「私は、安心する」
 蛍は目を細めて少しだけ口角を上げた。微笑だったが高矢は何となく蛍の思いが伝わってきた。思わず笑みがうつる。
「そうだ。」
 蛍がポツリと呟いて、高矢を見る。
「良い所に連れていってやろう。」
 急に蛍は背を向けて、上流の方へ上っていった。高矢は戸惑った。
「上流は危ないよ。子供だけじゃ行っちゃいけないんだ。」
 蛍の後ろを小走りに追いかけながら言う。手にしたポリバケツが音を立てた。足下はすっかり暗くて、丸い石は高矢が足を進めるたびに崩れて足場の形を変えていく。蛍の近くは光っているので、よく見えた。
 蛍は振り返って「何、すぐそこだ。」と言った。高矢は真っ黒な山を見上げて不安になったが、蛍の方へ向き直って、頷いた。
 蛍を追いかけていけばきっと、桃源郷に辿りつくに違いない。期待が胸をよぎった。
 何度か砂利に足をとられて、転びそうになった。蛍はすたすたと行ってしまう。川原で遊び慣れているはずの高矢だが、暗闇が足を掴んでいるかのように足が進まなかった。蛍の背中が遠ざかっていく。
 ポリバケツを落として、大きな音が鳴った。ガランゴロンとリズミカルな音を立てて、どこかで止まる。日は完全に落ちていて、川も石も山も空も黒に塗り潰されていた。
 高矢は下流の方を見て、上流の方を見た。ポリバケツは見あたらないし、蛍も見えない。追いかけようにも追いかけられず、立ち往生してしまった。
 気が付けば、真っ暗な世界に独りぼっちになっていた。
 このままずっと独りぼっちだったらどうしよう。誰も来なかったらどうしよう。急にいなくなったら蛍は寂しがるだろうか。怒るだろうか。不安がまたやって来て、泣きそうになった。
 いよいよ声を上げて泣くかというときに、光が現れた。あの、緑がかった白い光だ。
「お前はよく泣くのだな。」
 蛍は苦笑して、高矢は耐えきれずに泣いてしまった。ガンガン鳴るポリバケツよりもうるさかった。山の生き物が驚いて逃げてしまったのだろう、急に山がざわめき始めた。
 蛍はほとほと困った。泣いている高矢を見ているばかりである。口を開いては閉じ、手を上げては下げ、おろおろしていた。
「泣くな。逃げてしまうだろう。見ろ、すぐそこだ。そこの川だ。」
 着物の袖で顔を拭いてやり、高矢の背を叩く。袖の裾がひらひら揺れる。嗚咽と共に飛び跳ねていた肩が大人しくなる。自分のシャツで目元を拭って、高矢は顔を上げた。
 少し先の方で何かがちらついた。蛍に促され、上流へ進む。川の音が穏やかに二人を呼んでいた。
 壁づたいに歩き、開けた場所に出ると、そこはまさしく桃源郷のようであった。
 光が舞う。ほのかに黄緑色を帯びた光が川から沸き上がっていた。水面に光が映り、揺れ、それは何倍にも輝いていた。天使が空を舞った後のようだ。天使の翼より生まれた羽のようであった。
 高矢は口の中で歓喜の声を上げる。感動が声をも飲み込んだ。天も地も判らなくなり、光の流れる川の中にいた。
 二人は空に飲まれた。そこは天の川だった。数えきれない光が二人の周りを泳いでいるのだった。星々がすぐそこにあって、高矢は一つの星に手を伸ばした。するりと避けて飛んでいった。
 頬を膨らませる高矢を見て、蛍はおかしそうに笑う。彼女が手を伸ばすと、蛍は簡単にその腕に止まった。蛍はそっと、光り輝く蛍を高矢に見せた。
 黒い体に赤い尾、つやのある羽を光にきらめかせていた。光を手で囲って綺麗だと呟く。蛍の光に照らされていた高矢の目は、宝物を見つけてキラキラ輝いていた。
「高矢ー! たーかーちーかー!」
 頭上から聞こえた声に高矢は顔を上げる。
「灯火だ!」
 瞬きをして、崖の上を見る。一筋の光が行ったり来たりしていた。高矢が声を上げるとそれは川の方に向く。小刻みに光が動いて、今度はすぐ側で声が聞こえた。
「高矢、生きてるか?」
「だから返事したんでしょうが。」
 呆れた声を返し、二人は力の抜けた笑い声を上げる。一気に力が抜けた感じだ。
 後ろの方で音がして、高矢は振り返った。そこには、無数の蛍が飛んでいるだけだった。辺りが暗くなっていた。一番大きな光が、蛍が、いなくなっていた。
「あれ……蛍?」
 呼んでも返事はない。先程まで確かにそこにいた少女は、闇の中で寂しげに光ることなく、沈んでいってしまった。
 高矢は崖の上から灯火に投げ落とされた懐中電灯を受け取り、その光で辺りを照らしてみる。冷たくてかりながら流れる川の水と、寝床に帰ってめっきり数の減った蛍が、光のなかにいるだけだった。

 あれが幻覚だったのか、何だったのか、高矢には判らない。幼い頃の記憶として、おぼろげに覚えているだけである。確かなのは、あの日から高矢は蛍に執着し続けていて、今でもそれを追い続けているということだ。
 春の、雪がようやく溶け温かい日差しが差し込むようになった頃。まだ肌寒い春先の早朝に、古い家の引き戸が開いた。黒っぽい木の枠にはめられたガラスが、がたがたという。家の中から顔を出し、青年は白い息を吐いた。
 少し伸びてきた短い黒髪をかきむしり、眠たげにアクビをする。あまり寝ていないようで、下半分だけフレームの付いている眼鏡の奥では、瞳が赤くなっていた。
 郵便受けのフタを上に持ち上げ、中身を取り出す。新聞と、手紙が二通。手紙は両方とも「近江高矢様」と書かれていた。片方は無愛想に何も柄のない、灰色の封筒である。もう一方は市販の便せんにセットになって付いているような、カラフルな水玉模様の封筒だった。
「俺宛に二通か。珍しい。」
 高矢は水玉模様の方の封筒に「灯火より」と書かれているのを確認して、封筒のシールを丁寧に剥がす。中から出てきたレポート用意を広げ、しばし外気の寒さも忘れ、読みふけった。
 中学校に上がると同時に東京へ引っ越してしまった灯火からの、いつもの手紙である。相変わらず波瀾万丈な近況報告が綴られていて、最後に卒業式が終わったらこっちに帰ってくるということが書かれていた。ついでのように大学に合格したことが書かれていて、灯火らしいなと高矢は苦笑する。
 二回は読んだ後、やっと手紙を閉まって、家の中に入る。玄関の段差に腰を下ろし、二つ目の手紙を開けた。
 中に入っていたのは、一枚の紙切れだった。パソコンの文字が羅列していて、少し目立った所にこう書かれていた。「合格」。
 高矢は息を飲んだ。しばらく玄関の臭いを吸い込んで、一気に吐き出す。
「よっしゃ!」
 そのまま家の中へばたばたと駆けていき、電話を手にして、東京の電話番号を押した。

 大学の合格通知。それは、高矢の夢を大きく前進させた。
「俺は、蛍を守っていきたいんだ。」
 あの日、あの時見た蛍が、あの少女のように消えていってしまわないように。高矢の心に今でも焼き付いた光景を、高矢は守っていこうと思った。
 移りゆく常世、消えない思い、揺るがぬ決意、変わらぬ愛情。
 夢は、ここから動き出す。



〈完〉



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